狂い咲きブラッディローズ

終夜ひつじ

序章

 ある晩のこと。

 

 轟々と音を立てて燃え盛る炎から黒煙が立ち上り、焦げ付くような異臭が鼻をつく。炎が暗い夜空を一様の血の色に焦がし、火の粉が宙に舞う。


 少年は朦朧とする意識の中、血を流して気を失っている少女を庇うように抱きかかえていた。


 そして目を覆いたくなるような惨状を前に言葉を失っていた。


 ――何が起きたのかわからない。


 突如起こった爆発によって、家が一瞬にして半壊したのだ。


 あまりにも日常からかけ離れ過ぎた光景を前に、少年は何か自分が悪い夢でも見ているのではないかと思ってしまう。


 だが目の前に見えるのは、今も灼熱の炎によってみるみるうちに焼け落ちていく我が家である。


 止めどなく襲い掛かってくる熱気と、飛んでくる家の破片が少年の頬を掠め、体中に走る痛みと肌にひりひりと伝わる熱が間違いなくこれが現実であると知らせている。


 平穏だったはずの日常は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。


 燃え盛る家の中から聞こえてくるのは、金属音にも似た耳障りな音と家屋が軋みをあげながら焼け落ちていく音。遠くの方からは消防車がサイレンを鳴らす音が微かに聞こえる気がする。


 周囲から溢れたように入ってくる音が、少年の思考を余計に混乱させていた。


 ――逃げなきゃ。


 だが、家の中にはまだ――母親が残っている。


 少年が理解できていることといえば、これが何者かの手による攻撃であるということ。そして家の中では今この瞬間も母親が何者かと戦っていることだけだった。


 その家の中から放たれる張り詰めた空気と刺すような殺気が、家の外にいる少年にまで伝わり体を本能的に竦み上がらせた。


 息が詰まるほどの状況を前に、声を上げて助けを呼ぶことはおろか身動き一つできず、それをただ愕然として家の外から眺めていることしかできない。


「僕が……助け、なきゃ」 


 少年は自身を奮い立たせるように言い聞かせる。体中に走る痛みを気合い一つで飲み込んだ。


 冷静になろうと頬に流れる汗を腕で拭うと、それが汗ではなく自身の血であることに気付く。意識が朦朧とするのはこのせいかと、まるで他人ごとのように思いながら立ち上がろうとすると、自身の腕の中に少女がいたことを思い出す。


 気を失っている少女から流れ出す血の量は、少年以上に酷いものだった。このまま放置すれば死に至るのも時間の問題である。


 少年は自身の置かれている状況に戦慄せざるを得なかった。  

 両方を同時に救うことのできる術がないことに。片方を選べば、もう片方が失われるであろうことに。


 どちらか一つを選ぶなど、年端もいかぬ少年にはあまりにも酷な選択肢である。

 そしてこの選択肢が既に、一つしか残されてないことに気が付いてしまったのだ。


 母親を助ける術が、戦う力が、少年にはなかった。


 灼熱に燃える家の中に飛び込めば、瞬く間に息絶えてしまう。そうなってしまえば、救えるはずだった少女の命さえ救えなくなってしまう。


 少女を一秒でも早く安全な場所へ運ぶこと以外に、少年の選択肢はなかったのだ。

 非情になるしかないこの状況に、酷く絶望する。


 もう迷っている時間も残されておらず、葛藤の末に少女を運び出そうと燃える我が家に背を向けたとき、微かに母親の声が聞こえた。言葉までは聴き取ることはできなかったが、その声は確実に母親のものだった。


 不意に優しく微笑む母親の姿が脳裏に浮かび、心が引き裂かれそうになる。呼吸はみるみるうちに荒くなり、息が苦しくなっていく。


 押し寄せる深い闇に飲み込まれてしまいそうな感覚に陥った少年の足は止まり、思わず縋るように腕の中に居る少女を強く抱きしめる。


 それと同時に二度目の大きな爆発が起き、少年は抱きしめた少女ごと吹き飛ばされ、宙を舞った。


 気が付いたときには少女と共に地に伏していて、けたたましい音も止んでいた。流れ出る血で視界は赤く染まり、痛みも感じなくなった体はピクリとも動かない。


 意識を保っていることがやっとだった少年は、目だけで我が家を見る。


 すると揺らぐ陽炎の向こう側に、見知らぬ人影を見た。


 頬に大きな火傷痕。獰猛に笑う表情は狂気的で、少年の記憶に深く刻まれていく。それが何より強く残った記憶である。


 焦げ付いた煙の臭いと血の匂いが辺りを立ち込める中、少年の意識はそこでプツンと途切れた。


 家族で過ごした楽しい日々は、その日を境に、思い出すと辛く悲しい過去へと変わっていった。


 やがて溢れだす悲しみと憎しみは、遅効性の毒のように少年の心をゆっくりと蝕んでいくのであった――。

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