偽婚約解消②

「……それって……彼氏に何か言われたから?」


 三島課長は私が護と付き合っていたことも、別れたことも知らないから、私がまだ彼氏と付き合っていると思っていても仕方ない。

 簡単に言い逃れるためなら彼氏を理由にしても良いのだろうけど、私がもう婚約者のふりをすることができない理由だけはきちんと話しておきたい。


「彼氏とはこの間やっと話をつけて別れたんですけど……じつは私、その少し前から好きな人がいるんです」

「好きな人……?彼氏じゃなくて?」

「彼氏じゃありません。私が一方的に好きなだけです。その人には好きな人がいるってわかってたのに好きになって……ずっと好きだった人と付き合うことになったって聞いてもやっぱり好きで……。その人の幸せの邪魔はしたくないので、気持ちを伝える気はありません。だけど私は本当にその人のことが好きだから……その人が好きだっていう私の気持ちも大事にしたいんです」


 私の好きな人が三島課長だと気付かれないように言葉を選んだ。

 好きだと直接伝えることはできないけれど、せめて私の気持ちを三島課長に聞いて欲しい。

 三島課長は自分にも同じ経験があるからか、つらそうな顔をしている。


「そんなにその人が好き?」


 私は顔を上げて三島課長の目をまっすぐに見た。

 この想いに気付いてもらえなくてもいい。だけどせめて一度だけ、言わせて欲しい。


「……好きです。大好きです」


 心の中で『潤さんが』という言葉を付け足すと、抑えていた気持ちが一気に込み上げて目が潤み、三島課長の顔がぼやけて見えた。


「うん……そうか……。泣くほど好きなんだな……」

「はい……。好きになってもどうしようもないってわかってるのに、やっぱり好きなんです」

「わかるよ。俺も好きだから……ずっと」


 三島課長はポケットから取り出したハンカチで私の目元を軽く押さえ、溢れだした涙を拭いてくれた。こんなときに優しくされると余計に涙が止まらなくなりそうで、私は必死で笑って見せる。


「だからもう婚約者のふりは……」


『できない』と言おうとすると、三島課長は私の頭をポンポンと優しく叩いた。


「俺はそんなつもりで言ったんじゃないんだけどな……。つまらないことに巻き込んで、悩ませてごめんな」

「私こそ……たいしたお役に立てなくてすみません」

「いや……少しの間だけど、志織が婚約者になってくれて嬉しかったよ、俺は。ありがとな」


 これは片想いのつらさを知っている三島課長から、どうにもならない片想いをしている私に対しての、最大限の優しさなんだと思う。

 婚約者のふりはもう終わりだけど、これからも今まで通り同僚として、そして同じサークルのメンバーとして変わらず接してもらえるだろうか。

 恋人同士の別れのシーンのような雰囲気になってしまい不安がよぎった。


「三島課長……まさかこれを最後に、私とは縁を切るとか……」

「言うわけないだろ。サークルのみんなにもいずれ俺からちゃんと事情を話すから、やめないで続けてくれるか?」

「三島課長が大丈夫なら……」

「大丈夫だよ。じゃあ……最後に駅まで送る」


 三島課長は私の手を引いて、駅に向かって歩きだした。もうこんなことも最後だと思うとまた涙が溢れそうになったけど、泣かないように奥歯を食いしばってこらえた。


「あの……三島課長からのお話は……」

「うん……。俺はいつもタイミングが悪いんだ。志織に大事な話をしようとするといつも先回りされて、何も話せなくなる」

「いつも……?」


 そんなこと、今までにもあっただろうか?

 先回りされて話せなくなるということは、三島課長も同じことを言おうとしていたとか、質問の答えを私が先に話すということなのかも知れない。


 駅に着くと、三島課長は少し名残惜しそうに私の手を離した。


「……あっという間だったな」

「そうですね」

「じゃあ……もう遅いから気を付けて帰れよ」

「はい。ありがとうございました」


 私がお礼を言って軽く頭を下げると、三島課長は私の頭を優しく撫でた。

 これからはきっと、三島課長はこの大きくてあたたかい手で、私ではなく下坂課長補佐の手を引いて、共に人生を歩むのだろう。そう思うとまたズキズキと胸が痛む。

 この胸の痛みが完全に消えるまでは、まだまだ時間がかかりそうだと思った。



 三島課長との偽婚約解消から一夜明けた木曜の朝、ゆうべなかなか寝付けなかったせいで、いつもの起床時間より30分ほども遅れて目覚めた私は、時計を二度見して跳び上がり、慌てて身支度を整え家を出た。

 なんとかギリギリ仕事に間に合う電車に乗れたけど、悠長にコンビニに寄っている暇などない。電車を降りると脇目もふらず、小走りで会社に向かう。


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