偽婚約解消①

 涙がおさまるのを待ってから家に帰り母に電話すると、用件はたいしたことではなかった。

 それでも母のおかげであの状況から抜け出せたことには感謝している。もしあのままあの場所にいたら、どうなっていたかわからない。

 三島課長はずっと好きだった人ともう一度やり直すことを選んだのだから、私が気持ちを伝えたって迷惑なだけだろう。

 三島課長の前で泣いたりわめいたりしたくないし、私の気持ちを三島課長と下坂課長補佐には知られたくない。だから私は、三島課長を好きになる前と同じように笑って、偽婚約者の役を降りると言おうと思う。



 翌日も仕事に追われて忙しく過ごした。

 昼休みはコンビニで調達した昼食をオフィスで済ませ、定時までにさばけなかった仕事を残業して片付けて、三島課長と一度も顔を合わせることなく一日の仕事を終えた。

 昨日『待ってて』と言われたのに、待たずに勝手に帰ってしまったことを一言謝るべきかと思ったけれど、自分から連絡する勇気はなく、何も言えないまま一日が過ぎてしまった。

 だけどいつも些細なことでも気にかけてくれる三島課長が何も言ってこないことを考えると、私が先に帰ったことなど、さほど気にしていないということだろうから、このままでいいのかも知れない。

 そんなことを思いながらオフィスを出てエレベーターホールに向かうと、三島課長が壁に持たれて立っているのが見えた。まさかこのタイミングで顔を合わせるとは思っていなかったから、焦ってしまい足が止まる。

 三島課長は私の姿に気付くと、足早にこちらに近付いてくる。


「お疲れ」

「……お疲れ様です。昨日はすみませんでした。急用を思い出して……」

「うん……。本当は昨日話したいことがあったんだけど話せなかったから……今日こそは話そうと思って待ってた」


 きっと下坂課長補佐と付き合うことになったから、もう私が婚約者のふりをする必要はなくなったという話だろう。

 私の仕事が終わるのを待ってまで、一刻も早く私との偽婚約を解消したいんだなと思うと、悲しくて胸がズキズキと痛む。だけど私は、泣いて三島課長を困らせたりはしたくはないから、せめて一緒にいる間だけでも笑っていようと、胸の痛みを必死で押し殺した。


「私も……お話ししたいことがあります」



 一緒にエレベーターに乗って会社を出た。


「とりあえず……どこかで食事でもしようか」


 三島課長はそう言ったけれど、そんなに長く一緒にいたら、いつも通りに笑っていられる自信がない。


「今日は家で少しやることがあるので……」


 早く話を済ませて帰りたいと、やんわり食事の誘いを断ると、三島課長は少し困った様子であごに手を当てて考えるそぶりを見せた。


「そうか……じゃあ家まで送るから、車の中で話そうか」


 またこの間みたいに、下坂課長補佐を車に乗せた形跡を見つけてしまうのはいやなので、できればそれも避けたい。


「いえ、送ってもらうのは申し訳ないので……歩きながらでもいいですか?」

「できれば落ち着いて話したいんだけど……」

「駅前のコーヒーショップでコーヒーでも飲みながら話しましょうか」

「じゃあ……そうしようか」


 私がことごとく三島課長からの提案を拒否したせいか、三島課長は少し不満そうだったけれど、とりあえず二人で駅に向かって歩きだした。

 平日の夜だからか、繁華街を抜けると歩道沿いに軒を連ねる店もシャッターをおろし灯りの消えた店が増え、頼りない街灯だけが辺りを照らす。それに比例して急に人影もまばらになる。

 駅まではそう遠くないし、コーヒーを飲む間くらいはなんとかなるだろうと思ったけれど、駅に着くまでに私の方から話をすれば、三島課長の口から下坂課長補佐との話を聞かなくて済むかも知れない。


「三島課長、私……」


 思いきって話を切り出そうとすると、三島課長はそれを遮るように口を開く。


「あのさ……この間からずっと気になってたんだけど……呼び方、元に戻ってる。なんで?」


 意図的にそうしていたわけではないけれど、そう言われてみればそんな気もする。だけどもう婚約者のふりをしたり、恋人らしく振る舞う必要なんてないのだから、呼び方も元に戻していいはずだ。


「あんまり名前で呼び慣れると会社で間違えて呼んじゃいそうだし……それにモナちゃんの件も落ち着いたから、もう恋人らしくする必要はありませんよね」


 できるだけいつも通りの調子で、当然のことのようにそう言うと、三島課長は足を止めて眉間にシワを寄せる。


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