カオス⑩
せっかく誘ってもらったのに、早く帰りたいなんて思うわけがない。むしろもっと一緒にいたいくらいなのに。……なんて、口が裂けても言えない。
だから私は抑えきれなくなりそうな気持ちにしっかり蓋をして、静かにうなずいた。
「すみません……そうします」
食事を終えて早々に店を出ると、三島課長は私の手を引いて歩きだした。
誰も見ていないんだから、恋人らしく振る舞う必要なんてない。それでも繋がれた手が優しくあたたかく私を包むから、このまま離さないでいてくれたらなんて思ってしまう。
だけど会社の人に見られたりしたら、社内であっという間に噂が広まってしまうかも知れない。
「ここ、会社の近くですよ。誰かに見られたら……」
「ん?大丈夫だよ、俺はそんなの気にしないから。それより今は、手を離したら志織が倒れちゃうんじゃないかってことの方が心配」
「倒れませんよ……」
「そうか?でもまぁ……もし本当に倒れたりしたら、この間みたいに抱えて走るけどな」
この人はどこまで甘い言葉で私を翻弄すれば気が済むんだろう?
私を鳴かせたって後々煩わしいだけなのに、ここまでされて鳴くなって言う方が無理な話だ。
好きになってもどうしようもない人なのに。
結局私は三島課長の手をふりほどくことができず、そのまま歩き続けた。
「一度俺の家に寄って、お土産渡したら送っていくよ」
これ以上二人でいると自覚したばかりの気持ちが抑えきれなくなりそうだから、私は早く一人になりたかった。
「まだ電車もあるし、一人で帰れますよ」
「それはそうかも知れないけど……やっぱダメだ、それだと俺が心配で落ち着かないから送ってく。志織に拒否権はなし」
「拒否権なしって……」
俺様みたいなことを言っても優しさの塊みたいな人だ。
一人になりたいと思ってたはずなのに、もう少し一緒にいられると思うと嬉しい。
いっそのこと、この優しさは全部偽物だよって言ってくれたらいいのに。
三島課長の家に着いて、お土産を取りに行った三島課長を玄関先で待った。
今なら私は三島課長に何をされても拒めないだろう。むしろそうして欲しいような気もする。
逃げることができないように、あの手で私の体を押さえ付けて、いいわけができないように唇を塞いで、何も考えられなくなるくらいに激しく私を求めてくれたら……。
そんな安い昼ドラみたいな馬鹿げたことを考えていると、重そうな紙袋を手にした三島課長が戻ってきた。うっかり良からぬことを考えてしまったせいで、三島課長の顔がまともに見られなかった。
「お待たせ。……ん?どうした?気分でも悪い?」
「いえ、ちょっと……」
三島課長は誰にでもそんなことをする人じゃない。妄想の中とはいえ、三島課長を汚してしまったみたいで気分は最悪だ。
あんなことを考えるなんて……私、欲求不満なのかな?
私は元々、性的には淡白な方だと思っていたのに、長い間護に放置されていたからなのか、ずっと眠っていた私の女の部分が、ここに来て最悪の形で目を覚ましてしまったのかも知れない。
自己嫌悪と情けなさと恥ずかしさで、影も形も残さずこの場から消えてしまいたくなる。
「あの……やっぱり一人で帰ります」
「はい却下。何がなんでも送るから」
三島課長は玄関の鍵をしめて、荷物を持っていない方の手で私の手をしっかりとつかまえる。
「さぁ、行こうか」
三島課長がそう言うと同時に、ガチャンと門扉の開く音がした。
「潤!」
私たちは三島課長を呼ぶ女性の声に振り返る。
三島課長はその女性を目にした瞬間、握っていた私の手を離した。
「芽衣子……」
三島課長の口から発せられたその女性の名前を聞いたとたんに、私の胸がイヤな音をたてた。
三島課長は芽衣子という女性をじっと見たまま動かない。
もしかしてこの人が三島課長の想い続けた人なのかと思うと急激に呼吸が苦しくなり、私は一刻も早くその場から立ち去ることしか考えられなかった。
「やっぱり私、一人で帰ります!三島課長、今日はありがとうございました!」
私は早口でそう言って頭を下げた。
「えっ……志織、ちょっと待って!」
何も聞きたくない一心で、その場から逃げるように走って三島課長の家を飛び出した。走って駅に向かっていると、目の前がじわりとにじんで、街の灯りがぼやけて見えた。
泣いてたまるか。最初からわかってたことなのに、泣く必要なんかないじゃないか。
そう自分に言い聞かせるのに、聞き分けのない涙は私の意思を無視して勝手に溢れ出す。
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