カオス⑨

 午後も忙しく仕事に励み、なんとかきりの良いところで仕事を終えると、時刻は20時を少し回ったところだった。

 仕事が終わったと三島課長にメッセージを送ると、すぐに返信が届く。


【お疲れ様。俺も今終わったところ。エレベーターホールで待ってる】


 急いで帰り支度を済ませて小走りでエレベーターホールへ行くと、三島課長はスマホを見ながら待っていた。その姿を見たとたんに、昨日の電話の三島課長の甘い言葉を思い出して鼓動が急激に速くなり、また顔が熱くなる。

 ……何食わぬ顔をしていようって決めていたのに。

 小走りをやめて、できるだけ普通に振る舞おうと、歩きながら呼吸を整えた。


「お待たせしました、お疲れ様です」

「お疲れ。俺も今来たところだから全然待ってないよ」

「そうですか……」


 普通にしようと思うほどにぎこちなくなって、三島課長の顔がまっすぐ見られない。三島課長はエレベーターのボタンを押して、チラッと私の方を見た。


「どうした?」

「えっ?!」

「なんか顔赤いけど、熱でもあるのか?」


 三島課長は心配そうにそう言って、私の額に手をあてる。

 顔が赤いってソッコーでバレてるし!そんなことされたら余計に体温上がっちゃうから!


「熱はなさそうだけどちょっと熱いな……。大丈夫か?」

「どうもしませんよ、大丈夫です」


 私が慌てて答えると、三島課長は私の額から手を離した。


「そうか、じゃあ疲れてるのかな。仕事忙しいって言ってたもんな」


 潤さんのせいですよ!……なんて言えないから、とりあえずそういうことにしておこう。


「はい、まぁ……そんなところです」


 少しはうまくごまかせただろうかと思いながら、三島課長に続いてエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まってゆっくりとエレベーターが動き出すと、三島課長は私の頭をポンポンと優しく叩いた。


「相変わらず頑張り屋だな」


 近い近い近い……!

 なんとか鎮めようとしていた心臓が、また暴走を始める。


「いえ……それくらいしか取り柄がないので……」


 私がしどろもどろになりながら答えると、三島課長はさらに優しく私の頭を撫でる。


「ないわけないだろう、俺は志織のいいところいっぱい知ってるよ。志織はいつも、どうってことなさそうな顔してどんどん仕事を引き受けるから、志織がどれだけ疲れてても周りは気付かないだろうけど……あんまり無理するなよ」


 ヤバイ……。ドキドキしすぎて、なんかもう胸の奥が痛くなってきた。これ以上惑わせるようなことは言わないで欲しい。


「……気を付けます……」

「うん、体だけは壊すなよ」


 三島課長は少し私を抱き寄せるようにして、くしゃくしゃと頭を撫でる。

 これは私がして欲しかったやつだ。頼んでもいないのに、私が望んでいたことを言ってくれたり、こんな風に優しく労われると、勘違いなんだか本気なんだかわからなくなる。

 エレベーターの扉が開く直前、三島課長の手が私から離れた。それを少しだけ寂しいと思ってしまう。三島課長が触れていたところに手のぬくもりや柔らかい感触が残り、また私の鼓動をかきたてた。

 営業部にいたときは、これくらいのスキンシップは日常的にあったはずなのに、あの頃とは明らかに何かが違う気がする。

 違っているのは……もしかして、私?いやまさか、そんなはずは……。

 気のせい、気のせい。ただちょっと、こんな風に優しくされることに慣れていないせいで、無駄にドキドキしてしまうだけなんだから。

 何度も自分にそう言い聞かせながら、三島課長と二人で会社の近くのイタリアンレストランに入って食事をした。

 そこでも三島課長は、自分から進んで料理を取り分けてくれたり、出張帰りの博多駅で私が好きそうなお土産を悩みながらいくつも選んだと言ったり、いつもに増して優しかった。

 そこに深い意味はないとわかっているのに、私はその優しさにどんどん溺れそうになって、三島課長が本物の恋人ならきっと幸せだろうなとか、本当にそうなればいいのになどと思ってしまう。

 そんな気持ちが湧き起こるたびに、三島課長には好きな人がいるんだから、そんなこと考えちゃいけないと自分を戒めた。

 どうせいつかは偽婚約者はお役御免になって、こんなこともなかったことにするんだから、あんまり勘違いさせるようなことばかりしないで欲しい。

 男の人は目的のためなら、好きでもない相手に優しい男のふりをすることができるって、私は知っている。

 もう無駄に傷付いて泣きたくない。それなのに嘘でも優しくされたら嬉しいってどうなの?

 私の頭の中は矛盾だらけだ。

 なんだかもう自分の考えに頭が追い付かず、わけがわからなくなって、だんだん口数が減り、うまく笑えなくなってしまった。

 三島課長はそんな私の様子を見て、また心配そうに私の顔を覗き込むように見た。


「やっぱりかなり疲れてるみたいだし、食事が済んだら早いとこ帰ろうか」


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