銀月の夜行少女ーインセクトミネスー
幕ノ内豊
プロローグ
第1話 その日
戦火が燻る。
命が燃ゆる。
傷は開き、空は濁り、人は惑い、心は朽ちる。
そこは、地獄だった。
数千に及ぶ命を散らした、悪夢の一夜。
敵も味方も、人も魔族も、悉く無為に頽れていた。
戦場跡の街は、どこもかしこも滅茶苦茶だった。建物は一部の壁を除いて全て瓦礫へと姿を変え、人々はほぼ全て、戦火に飲まれたか、あるいは魔族に殺されたか。
その燎原に、一人の男が歩を進めていた。
膝裏まで伸びる漆黒の外套を赤黒く染め上げ、汚れのように霞んだ黒の軍服を纏い、戦火に身を晒しながらも、男は歩みを止めない。
右目を覆うのは、金糸をあしらった黒の眼帯。破れた左袖から覗くのは、炎に照らされ鈍色に輝く鋼の手指。
男は隻腕隻眼にして、最前線で剣を振るう戦士だった。戦争の惨さをその身にて形為す幽鬼の如き剣士。
名を、アラン・アンバースと云う。
アランはただ呆然と、未だ消えない炎に、鷹のような左目を向ける。
それは命を奪い取る剣。平穏に暮らす人々に向けられた無情な刃。
遠くの方で重ねられていく、無数の屍たちの二割を生み出した男は、また屍のように静かだった。
守れた命と、守れなかった命。
奪った命と、奪わなかった命。
遍く命の重みが、彼の心に強く、強くのし掛かっていた。
二十二年ほど生きてきた彼の人生の中で、これ程までに恐怖した戦場は存在しなかった。片目と片腕を失い、傲慢にして非道な最強の《魔剣》を手にしてなお、その一夜は悪夢のようにねっとりと、金輪際纏わり付き続けるだろう。
どこを見ても、必ず何かが死んでいく惨劇などを見て、まだ正気である以上、彼はまだ、心の強い方なのだ。
血と硝煙とで覆われ、誰かが燃えながら近づいてきて、断末魔の止まぬ大地など、悪夢以外の何物でもない。
アランは別に死ににきたわけではない。それでもまだ戦火の残るこの地を歩いているのは、果てた全ての命に対し、追悼するためであった。
数時間前まで、人の栄えた街の跡地。その中央に行って、一輪の白蘭を供えるためだった。
その時だった。
「エェー! エェー!」
命の声を、彼がそのままで聞き取ったのは。
バッ、と声の聞こえた方向を見る。が、姿は見えない。
瓦礫の陰かと慎重に散策していくと、少し広がった空間があった。
聖堂か、はたまた教会か。外の未だ燃える炎によって空の月は見えないが、そこは燃えておらず、空から光が僅かに差し込んでいた。
そしてその床に、必死に生きようと叫ぶ命があった。
「エェー! エェー!」
それは、死んだ大地に残された小さな命の灯火。ここでアランが見捨てれば、瓦礫のように消えていくほど儚いもの。
だが、嗚呼。
アランにとって、その命ほど輝くものは他になかった。
静かに近づき、悼むために持っていた白蘭を置き、代わりにその赤子を抱える。揺り籠からゆっくりと、決して壊さぬように。
赤子は、まるで親の手の中に渡ったかのように、安堵した表情で安らかに眠っている。
性別はわからない。男か、あるいは女か。しかしアランにとって、そんなことは微塵も興味がなかった。
ただ夢中に、自らの胸元に抱えた小さな命に感動していた。
包まれていた布から頭を出すと、そこには少しだけ生えてきた銀髪と、少しだけ尖った先端を持つ耳があった。
その耳を見れば、その子が人間ではないことが容易に理解できた。その正体が、日夜戦っている魔族であることも。
だが、それもまた、アランに言わせれば無意味な話であった。
人の子のように愛を与えて育て上げれば、心優しい子に育つと確信しているからだ。
アランは一度置いた白蘭を手に取ると、赤子の置かれていた場所に替えるように置き直す。
黙祷を捧げると、アランはその子を救うため、全霊で駆け出した。
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