第72話 紫雲山炎上 ②
地下座敷から長い廊下を渡って、ありかちゃんのお父さんが横たわる、血の臭いが強い広間を抜けた。フットライトの並んだ階段を勢いよく駆け登っていく。
やった……やった!
みんな生きてる! 私は死にかけてたけど!
コウちゃんに背負われながら出口に近付くにつれて、その実感が強くなる。心の底から恐怖を感じたものは追放され、もう戻って来ない。あとは紫雲山を出るだけ。それで……いつもの日常に帰れるんだ。
長い廊下の真ん中にシロの身体があった。
傷口から流れていた血もすでに赤黒く固まってる。
コウちゃんの走る速度は変わらないけど、沸き立つ感情を抑えるにおいがした。私も歯を食いしばって、通り過ぎても振り返らなかった。あれは入れ物だ。あそこにシロはいない。私はそう思っているのに、どうしても気持ちが波打って揺れた。
魂の入れ物を別に作って、ライレンたちとまた生活するんだろうか? それとも門の向こう側に帰ろうとするのか……落ち着いたらまた、ゆっくり話がしたい。私とシロの絆は、途切れてないんだから。
「姿勢を出来るだけ低くして。めぐみさんも呼吸を浅く」
「……急に温度が上がったな」
「ええ。さすがに一階は煙が立ち込めてますか。幸い、火も進路を阻害するほどじゃないッスね。消防の方と合流しましょう。たぶん正面玄関に向かう途中でかち合うはず……」
裏手に続く廊下をちらっと見たが、上階から燃え落ちた板が塞いでいる。乗り越えられないほど重なってないが、触れられないくらい熱そう。
正面玄関から出口が見える。廊下を数人の消防士が走って来た。
炯眼の視野が無意識のうちに、少しだけ広がった。
天井が割れ落ちるかもという、強い予感が脳裏をよぎる。
何秒後? どれくらいの猶予がある? もしかして――
「止まって! 危ない!」
「……ッ」
コウちゃんが前を行っていた武市さんを掴んで引っ張る。
その瞬間、炯眼で引き上げられた動体視力が、消防士の真上に焼け落ちてくる柱や板を捉えた。消防士のうち半数は幸運にも避けることが出来たが、残りの人はたくさんの板に直撃し、柱が足の一部を挟んで床に刺さった。
「おい! 平気か!?」
「コウちゃんだめ! まだ残りが!」
巻き込まれた人を助けようとするコウちゃんと消防士に、再び焼けた木材が落下してくる。さっきよりも範囲が広い! 当たっちゃう!
とっさにコウちゃんの背中と肩を蹴って跳躍する。
身体を覆うような血の装甲や爪はもう作れない。
でも手で逸らせる。身体で受け止められる。その一瞬があれば誰も下敷きにはならない。外から道具と人を集めれば、そう時間もかけずにどかせるはず……!
一番大きな板だけ蹴り飛ばそうとして、思いっきり空振った。
距離を見誤った!? それとも、無理して動いた反動?
҉ ҉
鮮やかな群青色に燃える木材が、私の足を避けて通った。
誰にも当たらず、蛇がのたうつように壁の方に逸れていく。
「赤くない……青緑の、炎……!」
その火は優しい紺碧に変わって周囲に燃え移り、塞ぐものをのみ込みながら進む道を示すように拓けた。この色とにおいは……そんな。あと少しだったのに……!
消防士の人も、空いた隙間から抜け出した。
常識ではありえない現象に首を傾げている。
コウちゃんが私を抱えて外まで走り、転がるように倒れ込む。
誰かが私をすぐに助け起こし、心配そうな声をかけていたが耳には入らない。担架や呼吸器が私の横に置かれて騒がしく準備が進んでも、どんどん距離は遠くなっていく。
私の精神はすでに、二人のいる地下座敷へと深く深く沈んでいた。
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