第51話 空華
「ぎゅおおおおおおッ!?」
ばけものが突き刺さっている大槍から身をよじり、邪魔者を握り潰そうと両腕を上へ上へ伸ばす。迫りくる圧倒的な暴力に対し、ライレンは眼前まで十分に引き付けてから薄緑の刀身を二度ふるった。
丸太より太い腕が、マシュマロのようにすんなり切断される。木に登って邪魔な枝を伐採するみたいな淡々とした動作を繰り返し、両足も根元から分け離した。
さっきのように肉同士を重ね合わせて元に戻ろうにも、大槍が身体の中でつっかえて動けない。
「邪魔な肉は削ぎ落したぞ。お前の再生は、無からは生み出せない。あくまでくっつく粘土。屑肉の集合体に過ぎない。槍越しに触れている今、我が法眼で理を曲げるのは容易だ……不死身から、死ねる人の身に変質させてやろう!」
法眼の輝きが槍を伝い、肉塊に伝わっていく。
別の身体に書き換えようとする力と、元の形を取ろうとする力……翠色と薄紫のにおいがぐるぐると混じり、せめぎ合っている。ライレンは簡単だと言ったが、普通の人間と違って抵抗が強い。単純にサイズも大きいし。
肉塊が全身の歯を食いしばっていると、ぷっくりとその口元に一つ膨らみが出来る。にきびのような膨らみに小さな切れ目が入り、震えながら開いた。ぱくぱく動いて、何かを訴えている。
「痛イ、痛イィ! 痛ミヲ、痛ミオォォ……貴様に!」
「この声。嘘でしょ……!?」
歯を剥き出しにした叫びが、炯眼越しに伝わってくる。それは金久保のにおいに似ていた。
それが呼び声になって、切り落した手足がミミズのようにのたうち、ばけものに向かって畳を歯立てながら跳ね始める。ということは、肉塊の身体にある口たちは……元々喰い殺された人のもの? 両手両足の指じゃ足りない、たくさんの人が!?
断たれた四肢は、元に戻ろうというよりもライレンのほうに向かっているみたいだ。金久保の怨嗟が伝わったのか、食欲というより憎しみを滲ませている。
ライレンには止められたけど、横槍を入れなきゃ危険だ! いくら鱗で硬質化していても、全身じゃない。覆い切れていない部分はある。助けるんだ。せめてあの手足を操って無力化しないと!
伸ばした赤い糸は、のたうつ手足の表面であっけなく弾かれた。
「……炯眼が効かない? なんでよ!?」
猫や鳥、やろうと思えばオケラやミミズだって支配できる確信がある。でも、半分に切ったミミズの胴体側を操るイメージは作れない。炯眼の通る最低条件から外れたのか?
知能、精神、魂……そのどれかを私が認識できること。
ぐぐ、憎しみのにおいは嗅ぎ取れるのに、魂のにおいは確かにない。この一瞬だけは、金久保の肉眼で動いてるってわけ? そんなふざけた話……
「だ、駄目よやられる! 手を離して!」
「いいや好機は逃さん。ここで止めを刺す!」
たとえ心臓に噛み付かれても、ライレンは槍を握る手を離さないだろう。でも、法眼をばけものに集中しているこの場面ではまずい。治癒の力を自らに向けられないなら、ライレンが食べられてしまう!
イモ虫のような手足が肉塊に触れてもくっつかない。そのまま身体を這い登りライレンを目指している。やっぱり憎しみのまま噛み付くつもりだ! ああくそッ! 私じゃ無理だ! 死んで間もない人くらいしか操れない――
「ライレンッ! 赤ずきんと狼!」
「……!」
襲い掛かる手足。何の抵抗もなく歯が乱暴に突き刺さった。
愛おしく絡みつきながら食い千切り、ぐちゃぐちゃと音を立てて咀嚼する。
҉ ҉
「ぎゅおおおおおおッ!」
「この手足は、お前の支配から逃れた屍と同じ。そんな当たり前のことも、冷静さを失って思い出せなかったよ。そして、ならば、立て血肉」
噴き出す血しぶきの中で揺られながら、ライレンは瞳を閉じていた。
手足が歯を立ててばけものの身体へ喰らい付いていく。どんどん食い破り、肉の容量が減るにつれ、法眼の支配がより強くなる。
間に合った。手足の向かう対象を法眼で書き換えたんだ。
ライレンは顔をこっちに向けている。怒りに我を忘れていた、さっきの表情とは違う。私のアドバイスに感謝するみたく、竜の顎がきゅっと歪んで笑った。眼をつむっているからか、普段よりギャップのある笑顔だ。
「ありがとう。おかげで俺の切り開くべき道が見えたよ。恐ろしいほど、鮮明にな。源十郎……さんざん人を喰らってきたのだろう? ならば最期くらい、喰われる立場をとくと味わえ!」
淡い緑の光が、逆再生のように槍を伝いライレンの手へと戻る。
腕から肩へ、そしてまぶたをこじ開けるように吸い込まれていく。
顔も竜から……厳しさを持った人の表情に戻った。
そこからは意志を感じる。ばけものを絶対に逃がさないって執念を!
ライレンはゆっくりと目を開ける。
黒目は縦に楕円形で、青みを帯びた鮮やかな薄緑色。
……そこから燃えるような輝きが溢れ出す。
「
肉塊に明らかな変化が訪れた。
せめぎ合っていたバランスが崩れ、人の形になっていく。
両手は肘の先から喪失し、皮がめくれ上がり溶けかかってはいるが、確かに源十郎の顔になった。ありかちゃんの面影がある。
「こ、こは、ど……」
身体を貫いている槍をまるで意に介さずに、ごぼごぼと血を吐き出しながらつぶやく。痛覚がないのか、わずかに不死だった時の影響があるのかは判断がつかない。
源十郎は天井を静かに見上げている。
記憶が残っているのなら、よく知っている場所だと気付くはずだが、馴染みのある風景という認識より、天井のさらに上……空を眺めているようだった。
「ああ……ああ! 門にして鍵、一にして全。あらゆる概念のことごとくを超越するものよ……
近くで聞いているライレンを、源十郎は認識していない。
眼が見えてないんだ。たぶん私たちのように、耳も……
「そして……ありか。私は火事に見舞われ、火傷を負ってなお私たちが心配で駆け寄ってきた娘に……かじりついてしまったのです!」
唇の動きが分かりにくいけど、ありかちゃんのことを言っているな。
許しを乞う後悔のにおいがする。少なくとも、自分の子どもに対して無関心ってわけじゃなかったのか。なら本人にもっと伝えてあげればよかったのに。
本当に大好きで、愛してるって。
「ヨグ=ソトースよ! あわれで矮小なる願いを聞いてください! 大願など望みませぬ。叡智も要りません。ただ、妻と娘を返して欲しいのです! ありかに旅行先で買った絵本を読む約束をしていました! 愛する娘のささやかな願いも今となっては叶いません……幸せなあの日々に、わたしを、かえして……」
「行けばいいだろう、肉眼よ。いま魂は解かれた。御仏に導かれ望む先へ向かえ……
「ああ……ありか。いま、え、ほんを……」
指のない手が虚空を彷徨う。
その動作が何を意味しているのかは分からないのに、涙が出そうになる。
源十郎が泣いているからか?
手が数回ハンドルを握るように往復して、力無く落ちた。魂のにおいも途切れ、もう動かない。ライレンが槍を引き抜いてその身に収めても、濡れた目が天井を映すだけだ。
「あの毛玉野郎の叡智欲しさに目がくらみ、最愛の者を失った。その時点でお前は狂っていたんだな。かけがえのないものを犠牲にしたのだから、もっと、もっと得るものがあるはずだと……いまここに至るまで、そう思い込むしかなかった。何もかもを捧げて、残ったのは呪われた身体と肉眼だけかぃ」
靴音が一つ鳴った。
濁った負の感情を払い散らすような、清然とした響き。
ライレンはそのまま
「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏………」
自らの苦痛を横に置き、他者の死を悼む祈り。
周囲に飛び散った肉片はぐずぐずと溶け、金久保の遺体だけが残る。
まだ耳は聞こえないし、暗闇の中じゃ目は見えない。
でも私は、ライレンの祈っているときの気持ちが分かった気がした。
ばけものに囚われていたにおいも、穏やかにゆらめいて消えていく。
きっと魂は解かれたのだ。そして向かう先が確かにある……炯眼で見通さなくたって、私はそう感じた。
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