第33話 世界の終わりを眺めながら
黄昏時を見送って眼を閉じる。
じきに陽は沈み夜になるだろう。そして陽は昇り世界が始まっていく。
今日まで当たり前だったことだ。しかし、明日もそうだとは限らない。
かつてあり、いまあり、将来あると考えるものは全て《
虹色をかき混ぜると黒に近くなる。心が絶望に染まっていく過程のように。
未だ彼女は来ない。
せっかく治した身体を危険に晒さずに済むなら、むしろ喜ばしい。本来は俺が務めるはずだった役目。すべては元に戻った……それだけのことだ。
「斯くなる上は孤剣にて挑むまで」
「……わう、わん!」
「忘れた訳ではないさ、
彼女は今や門であり鍵だ。紫雲山に知られてしまうリスクを避けるのなら、立ち向かわないことの利点は多い。
敗北と勝利に直結する、将棋やチェスで言うところの王。いかに駒が足らずとも敵前に据えることは愚の骨頂だ。大願そのものが破綻するまで、俺が……守り通さねばならない。
肩の傷は治した。
二週間前、彼女が受けた暴力の痕も残さず消した。
恐らくもう少し誰かの助けが遅ければ……死んでいただろう。絶命に至らずとも女性としての機能が完全に潰されていたか。どちらにしても地獄をみたことに違いはない。
死にたいと、どこかで思ったはずだ。殴られ、蹴られ、地面に押し付けられ、執拗に嬲られた――絶望の淵。あるいは失われた心身を取り戻そうとする日常で。
だが今も彼女は生きている。どんなものか分からない何かを支えにして、死の誘惑を跳ね除けて来た。
諦めなかった意志の強さ、その輝きは……俺にはまぶしく見える。
あの好ましい青年と離れられず、色恋の情に引きつけられたとしても責める気は起きない。あの気高い決意が溶かされたのなら、それはそれで彼女にとって幸せなことだ。
ここから向かう道は、まさしく地獄となるに相違ない。
わざわざ好き好んで進ませなくとも、別の道を行くならば――
「わうっ!」
「……だが、そんな女じゃないか」
法眼がにぶく輝き、灼け付く陽炎のにおいを嗅ぎ取る。
愛らしい小動物のような外見と雰囲気からは想像もつかない、折れず揺れずの精神。弱みを見せる儚さとは対極の屈強さすら感じるにおい。
――つくづく、手折られた花とは思えん。
間違いなく助けになるし、彼女にしかできないことも多々ある……しかし、素直に喜んでいいものか分からない。
互いに勝手知ったる者同士。合流地点はすぐ割り出せた。
* *
「……来たのか」
「な、なんか嫌そう? あんまり歓迎されてない感じ?」
「そんなことはないが」
「ほらその、頑張るからさ。自分からわざわざ来たんだし、ライレンが気にすることなんてないよ」
俺を安心させるためだけに、彼女は笑った。親が子に見せるような慈みに似た微笑み。そんな顔をまっすぐ向けてくる。
畏怖。畏敬。無知ゆえの敬愛。束ねた部下からの信頼。
そんなにおいを常にまとわせていた自分にとって、久しく感じなかった視線。焦りや不安から来るかすかな苛立ちを察し、いたわり、なだめ……人心地つかせる目だ。
まだ学生であろうが、看護師や、学校の教師など向いているかもしれん。
ふいにそんな思いが浮かんだ。
「傷、治してくれてありがとう」
「……礼には及ばん」
「ええっ!? いやいや……肩の傷以外にも、顔やお腹とか、骨にひびが入ってたところも、元に戻してくれたんでしょ?」
「ついでだ。俺が付けた傷を治す片手間にしたこと」
「あ、これかぁ……男のツンデレ……!」
ツンデレ? とは一体? 世代の違う言葉か? 分からん。
ありか助けてくれ……! だが今は、電話が繋がらないんだったな。
「でもちょっと治したとこ整形してない?」
「ん? いや……どこに違和感がある?」
「こんなに顔がシュッとしてなかった気がするんだけど」
「顔立ちは前のままだ。単純に痩せたんじゃないか」
「そうだったかな? うんうん、そうだよねたぶん」
痩せた、と言うよりは拒食からくる身体全体の不調や歪みを、法眼で整えたからかも知れない。睡眠は充分にとれているようだし、美容への悪影響は軒並み消えているはず。
この辺の分かりやすさはありかと似てる。辛うじて察知できるぞ。
「あの青年と……わだかまりは解けたか?」
「ライレンのせいでもあるからね!? あんなにこじれたの」
「む……そうなのだな。申し訳ない」
「あはは。いいよ別に、話はちゃんとできたし」
さっきの慈愛に満ちた顔と違い、影を感じた。
彼女の持つ本来の明るさを失って、鋭く研ぎ澄まされていくような。
それでも彼女は自然に前を向いている。
投げ出さない。辛い境遇だという気配すら見せない。
懸命に今を、繋ぎ続けている。
こんなクソッ垂れな状況でもだ。
泥中に咲く
「コウちゃんには知られたくなかったけどね。私の持つ炯眼にだって、ほんの少しも……混じって欲しくなかったのに」
「炯眼の糸が伸びている。誰かを操って、連れて来てるな?」
「ライレン。これから挑戦することは、今までの価値観や気持ちじゃとても足りない。それが分からないままだった。戦争下のような、何でもアリの非日常で勝つために、相手から勝利を奪い取るために……いくつも準備して、どれくらい失うのか。あなたが当たり前のように持っていた覚悟、私は持ってなかった」
「そんな……なぜ」
路地の脇から、あの青年が歩いて来る。
魂は深く深く染め上げられ、赤い糸が巻き付いていた。
妙な感じがする。
部屋で見た時、二人には強い信頼の結びつきがあった。
そしてそれは今も感じる。にも関わらず精神を縛っているのは何故だ?
もし炯眼を使うのなら、この青年を遠ざけるためだとばかり考えていた。
恐らくは、この青年に上手く言いくるめられたか、炯眼を使わざるを得ない状況に追いやられたか。
信じるものにはとことん気を許す性格。そこを逆手に取られたかな。
今からことを成すには申し分ない逸材だが……
「私は、大願を絶対に止めるわ。でなくちゃ何のために、ここまで来たか分からなくなる」
「ああそうだ。その通りだ」
決意に満ちた目を、進むべき道に向ける。
自分の決断や願いを、夢見から現実へと変換する力。
望まざる運命に抗う、彼女の覚悟を……法眼越しに強く感じた。
折原恵。お前はいま深く傷ついているのだな。
大切な者の意思を曲げたことを、許すことが出来ずに。その傷を炯眼で埋めることもせず、痛みにじっと耐えている。
さきほどのお前のように、優しく笑い返してはやれない。
だから――せめて誓わせてくれ。
「ありかを救うため。そして、お前の魂が報われるよう、大願を阻止する。俺がその希望を守ってやるよ……めぐみ」
「わう! わうっ!」
「ありがとう。ライレン。シロもね」
俺は覚悟などしていない。
どっちでもよかった。大願がどうなろうと。
今は違う。
誇りと忠義を以って仕えた者が、虚無へと混ぜられ引き裂かれた時から、何もないうすっぺらのまま今日まで生きてきた。心の奥底に追いやっていた、あの屈辱と怒りをはっきり思い出せる。
あんな理不尽な残酷さに、お前もありかも壊されたくない。
跪いて感謝したいくらいだ、めぐみ。
自分のことを路傍の石に例えていたが、俺にはどんな宝石にも劣らぬ輝きに見えた。敬服の念を抱かせるほどに。
白よ。お前が見出したカギの器は……俺の心を動かしたぞ。
よく分からん価値観と意図。偶然の巡り合わせとしか聞いていないが、やはりたいした慧眼だったのかもな。
黄昏時に描かれた、夜が少しずつ混じり合う景色。
照らす夕日が全てに影を落とし、自らも地平に沈んでいく。
世界の終わりを眺めながら……彼女の視線と炯眼の熱を感じ取った。
消えることのない
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