第19話 Disbelief ①




 ――ああ。

 なんてすてきな朝なんだろう。


 カーテンを閉め切っていても分かる。


 窓の外、たくさんの音や人の声がする。

 太陽は優しく照らし、鳥たちはさえずり……

 世界はまた動き始める。


 本当に、輝きにあふれた朝だ。


「おはよう。シロ」

「……」


 わずかな光が漏れ入る、薄暗い自分の部屋。

 ベッドから起き上がり、立ったまま床に這った姿勢のシロに声を掛けた。

 

 肩を軽く回そうとして、にぶい痛みが走ったので中断する。……いくら痛みや出血は脳内で調節できても、感染症や塞がり方までは何ともできない。やっぱり縫ってもらった方がいい傷かも。


 シロはこちらを見上げ、鳴き声すら出さずじっとしている。

 水もご飯も口をつけていないのが見て分かる。

 元気ないね。動物病院でも行く? 

 それとも吠えのひとつも寄越さないのは、気付いてるのかな?


 私はもう、昨日までと同じようにシロをってこと。


 シロからは、においがしない。

 外で動く鳥や猫のような、生物のにおいが。


 鳥には鳥のにおい。木には木の。石には石の。

 ということは生きていない? かと言って……物というのも違う。


 ただの犬じゃないのは分かってるし、ええと天内源十郎、とライレンたち……大願を果たそうとしている危ない集団の側にいたのは間違いない。その重要なカギとなることも。

 問題は――シロが何のために、ずっと私と一緒にいるかってことだ。

 それによっては、シロに対する私の立ち位置はかなりズレて、変わってしまうかもしれない。

 

「今から確かめるよ。嫌なら噛み付いてでも振り払ってね」


 手をシロの頭にのせて撫でた。

 抵抗はしない。ただこちらを覗くようにじっと見ている。


 ……シロの魂はある。

 あるのにっていうのはどういうこと?


 昨日の夜、ライレンはシロと瞳同士を繋げて、なにか情報のやり取りをしている、ように感じた。

 私もそれをしてみる必要がある。

 最低でも同じ情報を得なければ対策も打ちようがない。ライレンは近いうちに私の元へ来る。大願がどんなものであったとしても絶対に……それだけは確実だ。


 顔を寄せ、見つめ返す。

 灰色の目が私の顔を写し込んでいる。


「わう……」

「――繋げ、炯眼けいがん。私たちを!」

 






  ҉     ҉






 飛び込んだ瞳の奥へ……吸い込まれるようにして沈んでいく。


 折原恵わたしの精神を矯正した時とは違うな。

 あの時はもっと……とりどりの色があった。好き嫌い、善悪、清濁。価値観と記憶それぞれがくっきり分かれてた。ちょっと負の感情があちこちに飛び散っていたから、それを元あった場所に戻して……あの事件のことを思い出しても辛くならないよう、繋がりをほんの少し希薄にした、って感じだったな。

 大切な記憶や感情は剥離させてあったから助かった。あれまで混ざってたら取り返しがつかなかった。


 この暗さは、おぞましい汚れだとか負の感情じゃない。

 何ひとつないから黒い、からっぽの暗黒なんだ。


 私とシロ。その精神の間を赤い糸はどこまでも伸びて深く続いている。

 ……なんかの映像で見た事あるな。

 、ずっと潜っていける。


 精神的な息苦しさはない。ただちょっと心配なのは、ちゃんと浮かび上がって、私の身体に帰ってこれるかってこと。

 ……心と肉体が剥離していた体験。あれは二度と味わいたくない。

 

 私の精神、魂のようなものが、意識と共にするすると落ちていく。

 一切の抵抗なく、じわじわじわじわシロの内面を目指す。


 落ちるのはほぼ自動的だ。魂には重力があるのか……シロの何かが私を引き付けているのは分からないが。ともかく下へと向かうベクトルがある。

 下、という概念も怪しいんだけど。


 横方向へ遠く伸びているようにも、はるか上の空間へただただ伸びているようにもとれる。うぶ……、ちょっと気持ち悪くなってきた。

 方向が把握できないところからくる、酔い? それとも少し違うような。

 

 ……潜る。ダイブ。ん、感覚的にやっぱり下って感じはするなあ。

 最初に海の素潜りをイメージしてしまったってのもあるが……


 もう1分は経ったか? それとも3分くらい過ぎた?

 こういう精神の中と実際の時間の流れが同じとは限らないけど。

 シロとライレンがやりとりしてた感じを加味するなら、そこまで浦島太郎的なはないか。


「お……?」


 私の声が私の頭に響く。

 赤い糸の先。白い淀みが見えた。 

 雲……霧か……もや? 微妙にゆらいで動いている。

 海底が見えた時みたいに、急に限りなく広がる白の果て。 


 炯眼で繋がった線の遠近感と白い雲を比べてみても、途方もなくでかい。

 精神に入り込んだ私のサイズが砂粒なみって可能性もある。私自身の心も、よく分かっていたはずなのに広く感じたし。特に記憶の概念……その辺が容量的な奥行きがあるんだろうなたぶん。 


 あ、終わりが見えた。

 膨大な白い淀みの前……ちぎれて丸まっているような小さな毛玉に、私と繋がった部分がある。




 小さな毛玉はしゅるしゅると変貌を果たし、私の前に姿を現す。

 それはシロの……ぬいぐるみのような形だった。




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