それは、偽りの

対消滅

それは、偽りの



「おい、祐希」

 名前を呼ばれた少年の肩がびくんと跳ねる。昼休みの開始を告げるチャイムが鳴った直後、廊下側の一番後ろの席に着席していた仲村なかむら祐希ゆうきはゆっくりと右肩越しに振り返った。

「よぉ、面貸せよ」

教室の後ろの扉から顔を覗かせたのは、祐希の隣のクラスの明神みょうじん翔吾しょうごだった。

「明神くん……」

消えそうな声が、祐希の口から漏れる。

「あ?」

不機嫌そうな声を翔吾が発すると、教室がしんと静まり返る。

「ううん、なんでもない」

「ならとっとと来い」

腕を乱暴に引っ掴んだ翔吾の後に続いて、祐希は教室を出て行った。怖ろしい人物の姿が見えなくなったことで、教室は安堵の空気で満たされる。彼らにとって、祐希は『スケープゴート』だった。祐希が翔吾の興味を引いている限り、自分たちには危害が及ばなくなるだろう、と。


 翔吾が祐希につきまとうようになったのは、高校入学から二週間も経たない頃だった。格闘技をやっている翔吾は、あからさまに筋肉質で体格が良く、上背もあって威圧感があった。整ってはいるが常に不機嫌そうな表情と鋭い目つき、粗野な言動もあって、彼に気安く話しかける人間は一人もいなかった。そんな翔吾の方から話しかけた相手が、なぜか彼とは違うクラスの祐希だった。

「仲村の奴、大丈夫かな……」

教室前方に集まっていた生徒の一人が、ボソッと呟く。

「怖えよな、アイツ。なんで仲村は毎回絡まれるんだ?」

「知るかよ。パシリかなんかじゃねえの?」

「あー、でもそうかもな」

別の生徒には思い当たる節があったのか、彼は記憶を辿りながら語り始める。

「アイツ――明神――のクラスの奴が仲村をパシらせようとしたら、明神がブチ切れたらしいぜ」

「マジか、コッワ。下手に仲村に関わるとやばそうだな」

自分たちが『安全圏』にいると分かっているからなのか、噂の域を出ない適当な内容で会話は盛り上がる。しかし最後の言葉だけは、つまり『仲村に下手に関わらないほうが良い』という言葉だけは、確実にこのクラスの人間全員が共通して抱きつつある思いだった。『いじめ』という言葉は、おそらく全員の頭の中に一瞬でも浮かんだことだろう。しかし、教師でさえ事勿れ主義を貫く中で、自ら声をあげようという気概を持つ者は一人としていなかった。



◆◆◆



「お邪魔します……」

 玄関口で丁寧に靴を揃えた祐希は、翔吾に続いて廊下を歩く。突き当りのドアは開けず、廊下の左側にある階段を昇る。

「今日も親、いねえから」

「……うん」

そわそわした様子の祐希に、翔吾は適当に座れよ、と促す。鞄をそっと床に置き、祐希は言われた通りにする。

「脱げよ」

「え……」

「学ラン、脱げよ。鬱陶しいだろ」

衣替え前の五月、快晴がしばらく続くここ数日は、制服をきちんと着込むには少々暑かった。

「あ、うん」

祐希が脱いだ学ランをひったくった翔吾は、それを手近なハンガーにかけた。

「ありがとう……」

感謝の言葉に、彼はふんと鼻を鳴らしただけだった。

「明神くん」

「……なんだよ」

「今日のお弁当、美味しかったよ。ありがとう」

「……さっきも聞いた」

 不機嫌な表情が、ほんのわずかに揺らいだように見える。しかし、すぐにきっときつい表情に変わったのは、ただの照れ隠しでしかなかった。


「祐希……」

「はい」

「……いいか?」

「うん……」

 たったそれだけで、会話が成り立つ。祐希は徐に立ち上がると、Yシャツのボタンをゆっくり外していく。――焦らしているわけではなく、単に手先が器用でないだけなのだが、その時間が妙に二人の心を高揚させた。

「明神くんも……」

「あ?ああ……」

翔吾もまた立ち上がると、服を脱いでいく。学ランを脱げば、Tシャツ越しでもよく鍛えられていることが見て取れる。

「すごいね、明神くん」

「別にすごくねえよ」

「そうかなあ……」


 パンツだけを残して立ち尽くす祐希もまた、翔吾ほどではないが綺麗に筋肉がついていた。中学時代はバスケットボール部で活躍していた彼は、引っ込み思案な性格とは裏腹に、運動神経は良かった。

「お前も結構鍛えてんじゃん」

「明神くんとは全然違うよ?」

「でも、悪くねえよ」

翔吾はそう言って、舌なめずりする。獰猛な獣のようなその顔を見てなお、祐希が怯える様子はない。

「お前――」

「何……?」

首を傾げた祐希に、翔吾は小さくため息を吐いた。

「お前、心配」

「え?なんで?」

「いっつもボーッとしてるし、すぐ騙されそう」

「騙されないよ」

ベッドに押し倒されても、ただふわりと微笑む祐希を見て、翔吾はもう一度ため息を吐き内心呟いた。――俺に騙されてるじゃねえか、と。



◆◆◆



 同性に一目惚れしてそのまま暴走気味に告白したのは、翔吾だった。入学式の日、高校までの道のりで不良に絡まれていた祐希を助けた、などというあまりにもベタな展開を経てのことだった。可愛らしい祐希の顔立ちは女子生徒受けが良い一方で、どこか頼りない雰囲気のせいで、いじめっ子や不良の標的になりやすかった。『いじめられた経験はほとんどない』という祐希の言葉は、信憑性に欠けていると翔吾には感じられた。ひどいいじめはなかったのだろう、ただ、祐希がぼんやりしていて気づいていないようなケースもあったのではないか、というのが翔吾なりの推理の帰結だった。


「お前、今日からいじめの標的、な」

 『好きだ』という告白の後にそんな言葉を告げられれば、普通は困惑するだろう。しかし、祐希の反応は翔吾の予想の斜め上だった。

「え?僕、明神くんにいじめられるの?」

「建前上な」

「……明神くんにならいじめられてもいいよ」

照れているような様子もなく、どちらかと言えば真剣な表情とも取れる顔つきで言い出す祐希に、

「いや、そういうことじゃねえから!」

と翔吾は荒っぽい口調でツッコミを入れる。わざとやっているのか、単なる天然なのか判断がつかずに翔吾は頭を抱えた。


 不良と間違われることの多い翔吾は、祐希を自分の『パシリ』ということにして、周りからちょっかいを出されないようにすることに決めたのだ。格闘技をやっている翔吾に喧嘩を売ってくるような馬鹿はそうそういない。祐希と関わる人間が減れば減るほど自分にとっては好都合だ、などと翔吾は危なっかしい独占欲を抱えていた。


 告白の直後、翔吾は率直な疑問をぶつけた。

「本当に、俺なんかでいいのかよ」

告白の言葉を告げられた上での疑問の言葉に、祐希は首を傾げた。

「どうして?」

「俺、男だぜ?」

祐希は真顔で答える。

「見れば分かるよ」

「目つき悪いし」

「格好良いよ」

「すぐ手、出るし」

「僕のことも殴る?」

「……ぜってえ殴らねえ」

「じゃあきっと他の人も殴らないよ」

自分のことなどろくに知りもしないくせに、という思いは拭えない。しかし、考える素振りすら見せずに断言する祐希が眩しく感じられて、翔吾ははあ、と何度目になるか分からない大きなため息――今度ばかりは照れ隠しが目的だった――を吐いた。


「あ、そうだ」

「なんだよ」

「いじめられている演技、した方がいいのかな?」

「お前、相当肝座ってんな」

 今度のため息は、小さかった。惚れた相手が一筋縄で行かない人間だということにようやく気づいた翔吾の表情には、困惑だけではなく、隠しきれない祐希への想いが滲み出ていた。


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