「ばけもの」と「お鍋」で

 薪の爆ぜる音を聞いた。人の往来の絶えた山道での事である。里人に扮した男は茂みをかき分け、音のした方へと進み、そこで枯れ木のような老爺に会った。老爺は道の真ん中で火に掛けた鍋をかき回しながら、男に気づいて顔を上げた。


 ――見つけたり。


 男は口角の上がるのを抑えながら、さも不思議そうな面をして老爺を見やった。ここに人がいるわけがない。こちらも、おそらくはあちらも、それを承知で声を荒げることをしない。この気味の悪さは、男にとっては心地よかった。鉈を握りしめた右手が疼いた。


 老爺は鍋を指し、食うか、と問う。


 男は少し思案して、応、と答えた。


 鍋の中身は濁った褐色の汁で、具は肉だけのようだった。断面を見るに、鶏とも猪とも違う様子だ。


「何の肉だ」


「この老爺にも、容易に捕まえられる獣だ。近頃はめっきり見なくなったが、お前さん、いい時に通りかかったな。ほれ、座れ、わけてやろう」


 人の好さそうな顔をして、老爺は手招いた。


 男は鍋を挟んで老爺の向かいにどっかと腰を下ろし、湯気の向こうに霞む老爺の様子をうかがう。老爺は一つしかない椀を手にとって、よく煮えた汁をよそる。それを男に手渡した。


「美味いだろう」


 男は食い物の味にこれまでさほど頓着したことがない。ただ、都の飯はもう少しマシなものだったし、里長が男に振る舞った膳などは比べものにならないほどだった。たった一口啜っただけで、男は老爺に椀を返す。


「上等とは言い難い」


 素直に、そう述べた。


 老爺は男の不躾な態度にも表情を崩さない。にこにこと笑ったその顔のまま、


「わしを討つためにここに来たか」


 と、鍋をひと掻きした。底から白い玉が浮かび上がってきて、ぐるんと回転する。黒い瞳が空を見上げていた。


 男は、応、と答えて、嗤った。




* *




 お前の笑みには品位がない。父にそう言われた。


 兄弟は、兄が六人。男は末子であり、男の産まれた時には兄たちは皆が元服を済ませていた。父に言わせれば、家格に相応しい品位を持つよく出来た六人だ。この家は安泰だ、盤石だ、と父は安心しきっていたのだろうと思う。老いた父は幼子であった男を溺愛し、奔放なそのままに育てた。それがやがて周囲から、この子は手の付けられない悪童だと言われるようになった。父の溺愛はいつしか、失望へ、そして放任へと変わっていった。


 何をしても、兄らと比べられた。武芸、馬、教養、人徳、どれをとっても兄らに劣る。そう言われてきた。


 勝るものは、剛力と、堅固な肉体、ただそれだけだ。それすらも、人の口の端にのぼる時には必ず、嘲罵と共に語られた。弓を扱えば、五人張りの弓が引けるのは大したものだが、あんな狙いでは動く的は射抜けまい、と。槍や刀を扱えば、子どもが棒を振るのと変わらぬ、と。力ばかり強くても技というものがない、あんな男には勿体ない天与の肉体、宝の持ち腐れ。――褒められたためしがない。


 周囲は決して男を認めようとはせず、男は周囲に阿ることをしなかった。周囲はそれを許さなかった。男はその必要を感じなかった。


 窮屈な奴らだと思った。


 先頃ついに、兄と悶着を起こし、北へ追いやられることとなった。その旅の道中、都から山を一つ越えたところで、里人から饗応を受けた。里の長は男に鬼が出るから道を変えた方が良いと言った。


「鬼が出るならば討てば良い」


「鬼を討てるものなどおりましょうか。既に何人もの里人が山路から戻りませぬ」


「ならばおれが討ち取ってやろう。造作もない」


 傍目には里人と思われるよう、着るものを里人と同じくした。装具の一切をそこに置き、代わりに里長の屋敷から鉈を借り受けて、男はこの山へやってきた。


 そして出会ったのが、この枯れ木のような老爺だった。


「里人ではないな。土の匂いがしない」


 老爺はそう言った。


「おれが何者でも関係のないことだ。お前、鬼なのだろう。化けてみたらどうだ」


「化けるも何も、わしは見たままの非力な爺でしかない。鬼とは何だ、何を以て鬼とする」


「人を殺して食っている」


「お前も食った。ならばお前も鬼じゃ」


「しらぬ」


 嗤う。


 この老爺が何者で、ならば鍋の中身が何であるかなど、茂みを抜けた時から察しがついていた。それが分からぬほどの馬鹿ではない。


 何によって鬼を定義するかなど、男にはどうでも良かった。それが里人と何ら変わらぬ非力な老爺でも、鬼と呼ばれるのならばそれは討つに値する。


「おれは鬼を討ちに来た。それが何であれ、問答は必要ない」


「やがて知ろう。お前の匂い、分かるぞ。争いの匂いだ。争いの、火種の匂いだ。人は人から外れたものを許さぬ。必ず追い、必ず討つ」


「ならば返す、それを討つ」


「さすればお前も鬼となる」


 にやり、と老爺は笑い、汁を啜る。


「鬼は鬼と呼ばれるまでは、ただの外れた者でしかない。鬼と呼ばれて、ようやく鬼と成る。だからわしは鬼と成った。お前もまた、鬼と成ろう」


「争いなど起こらぬ。弱き者が強き者を討てる通りがない」


 男は吐き捨てるように、言った。それが男の信じるこの世の道理だからだ。


 だが、老爺は折れなかった。


「一人ならば」


「二人でも、三人でも、それは同じだ」


 この場において、男こそ強き者で、老爺は弱き者だった。男は老爺を討ちに来た。老爺に逃れうるすべはない。だが、老爺は平静そのものだった。尚も老爺は言う。


「百人や、千人ならば、そうも言えまい」


「腰抜けが千人そこらいるのを、お前は今まで恐れていたのか。そこに将がいなければ、何の意味があるものか」


「千人いれば、将が現れもするだろう」


「それを恐れたのなら、やはりお前も腰抜けだ」


「それを恐れぬのは愚かというものだ。お前は力強く、猛々しい。しかし、その時間は長くは続かぬ。やがて衰え、容易く討ち滅ぼされる」


「討ち滅ぼされるというのならば、その時は潔く滅ばねばならない。将を恐れ、討ち滅ぼされることを恐れ、こそこそと隠れ回って生きるのは、弱き者のすることだ」


 男が言うと、老爺は、さも愉快だという風に笑った。笑って、咽せて、咽せながら笑った。


「お前はやはり鬼に成るぞ」


 手にしていた椀を空にして、老爺は腹を撫でた。


「さて腹もふくれた」


「ならば、目的を果たそう」


 躊躇なく、男は鉈を手に立ち上がった。


 老爺はまるで、男と己が同じである、男の行く末は己である、と言いたげだったが、それならばなおさら、男はこの老爺を討ち滅ぼさねばならないと思う。浅ましいのだ。弱きに甘んじ、生き存えるなど、男には考えられぬ。


 男は老爺の傍らで鉈を振り上げた。


「お前、楽しそうに殺すのだな」


 老爺は男を見上げてそう言った。今、殺されようというのに、老爺は笑っている。恐怖に気が触れたというわけではなさそうだ。楽しそうだ。幼子のように目を輝かせている。


「お前も、楽しそうに死ぬのだな」


 鉈を振り下ろしても、老爺はやはり笑っていた。まだ半分ほど残っていた鍋をひっくり返しながら倒れ、血を吐きながら、老爺は言った。


「己の顔を見るがいい。それが鬼の笑みでなくて、何だというのだ」


 それだけ言って、息絶えた。


 男は老爺の倒れた血だまりを覗き込んだ。討つべきものを討ち滅ぼしたのだ。おかしくておかしくて、当然ではないか。

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