お題をもらって書く

御餅田あんこ

「やかん」と「ストーブ」で

 泥のように眠り、刺すような冷気に目を覚ました。いつ眠ったのか、どれだけ眠れたのか、全く分からない。ただ、枕元に置かれた時計が、長年染みついた習慣通りに目覚めたのだと示していた。


 美枝子は自分の体温で温まった布団から這い出して、髪を結い上げる。部屋中が凍てつくような空気に充ちている。目に見えるほどはっきりと、吐いた息が白く広がった。


 今朝は、とりわけ冷えた。


 窓の外を眺めると、屋根の上には厚く雪が積もっている。一晩の間に降ったのだ。暗い夜だった。星も月も見えない闇色の空から、湿気を含んだぼた雪が絶え間なく降り続いていた。夜が永遠に続くのなら、この雪も降り止むことがないのだろう――、寝付けずに窓から闇を見つめる間、美枝子はそう思いさえした。だが、夜は終わり、雪は止んだ。朝と呼ぶにはまだ暗いが、闇というほど濃くはない。


 傍らの、夫の寝具に目を落とす。布団は空だ。寝具には些かの乱れもない。美枝子は一つ息をついて、二つ並んだ寝具を片付けて寝間を出た。


 廊下へ出ると、空気は一層冷たい。


 廊下の窓からは、庭が見えた。ただただ、静寂。生きているものの気配がない、静かすぎる景色。降り積もった雪が庭を覆い尽くしている。雪に埋まって段差や境界の分からなくなったそこから、まるできのこのように、冬囲いごと雪に包まれた庭木がひょこひょこと飛び出していた。


 一抹の不安が過ぎったが、こうなっては確かめるのも恐ろしい。


 視線を暗い廊下の先へ向けて足を進める。慣れた足取りで廊下を曲がり、台所へと出た。迷いのない手つきで証明から下がった紐を引く。蛍光灯は数度の明滅を経て、ややオレンジがかった光で室内を照らした。美枝子は、ぶるる、と身体を震わせて、肩を抱いた。


 戸棚の上のマッチ箱をとって、煮零れの焦げ付き跡が目立つ反射板ストーブの前に屈む。前部のガードを開けてマッチを擦り、熱焼筒のつまみをあげて点火する。やがて、熱焼筒の下から上へと赤熱がのぼっていった。


 ストーブが徐々に熱を放ち始める。少しの間、美枝子はそこに屈んだまま、手をかざしたり擦ったりしながら暖をとった。


 時を同じくして、外を轟音が行く。まだほとんどの家が寝静まっているだろうこの夜明けに、家の前を除雪車が通った。これだけの音を響かせながら、不思議とうるさいと感じないのは、おそらく安堵の方が大きいからだろう。深夜の雪は道をすっかり埋めてしまった。人力で道をつけるとなれば、村中総出で雪を掻いても一日かかるに違いない。この閉ざされた静寂が朝を迎えるために、この音は欠かせなかった。


 遠ざかっていく除雪車の音を聞きながら、美枝子はようやくその場から立ち上がった。


 ガス台の上には、使い古して色のくすんだヤカンがある。八割ほど水を注いでから、ストーブの天板の上に置いた。


 冬の朝は、こうしてようやく始まる。普段通りに身体に染みついた習慣をこなすことで、少しずつ不安が拭い取られていく気がした。


 朝餉の支度をしようと思った。この四年、どんな日も欠かさずそうしてきた。まだ明けきらぬうちに起きて、夫が起き出す頃には朝餉の支度を終える、それが美枝子の朝だった。やがて日は昇り、否応なしに朝はやってくる。だから、朝餉の支度をしようと思った。


 昨夜の内に、研いだ米を水につけて入れておいたガス炊飯器の点火レバーを下げて、今朝の献立を思案する。


 夫は、朝食の注文が多かった。特に、深酒をした翌朝などはなおさらだ。昨夜は会社の飲み会があって、帰った時には随分と酔っていた。朝は和食の朝ご飯然としたものが食べたい、と言ったので、具体的には何が食べたいのかと問うと、夫は任せるとだけ言って、そのまま眠りについてしまった。


 よって、今朝の献立は、美枝子が考えた和食の朝ご飯然としたもの、とする。白米と味噌汁と、焼き魚と卵焼きと、それから、大根の煮付け。夫も満足だろう、と、独りごち、早速支度に取りかかった。




 窓の外がうっすらと明るくなってきた。


 米が炊けたらしく、ガス炊飯器の点火レバーがひとりでに戻る音がした。米の炊きあがった食欲をそそる匂いがするが、しばらくは蒸らさないといけない。


 その間に、夫に声を掛けてこようと、美枝子は台所を出て勝手口へと向かう。長靴を履いて外へ出ると、庇の下まで雪が吹き込んでなだらかな山を作っていた。雪面は朝日を受けてきらきらと輝いている。


 美枝子は、降り積もった雪の中へと足を踏み入れる。庭の段差などは雪面を見ただけでは判別できないほど平らになってしまっていたが、住み慣れた家だ。およその場所の当たりを付けて庭を進み、美枝子は手を差し入れる。柔らかな新雪を掘り起こすのは難しくないが、素手で掘り返すうちに美枝子の手は真っ赤になっていた。しばらく掘ってようやく、美枝子は手を止め、雪に穿った穴を覗き込んだ。


 雪の上に、はらり、と、髪が垂れた。


 細い中指と人差し指で髪をかき上げながら、美枝子は微笑んで語りかけた。


「――おはよう、あなた」

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