苦しきことのみ多かれど
神韻縹渺に弾かれて
「明日は10時にリハ入りですね。はい、現地集合で。それでは失礼します」
Roul B.のマネージャーである東條さんと、明日の予定を最終確認する。スマホ越しの東條さんの声には、いつもの張りがなかった。敏腕女性マネージャーとして有名な彼女だけど、2daysライブの初日公演後とあっては、疲労も気苦労も溜まっているのだろう。
東條さんとの電話を切ってから、慌てて運転席のシートを起こした。少し先の人混みに、白いパーカーに身を包んだRoul B.の姿を見つけたからだ。
「やれやれ、なんと気の抜けた変装でしょうね」
僕の口から、思わず独り言が漏れる。出待ちのファンを煙たがる彼女は、動員客の一人に成りすまして鮮やかな脱出劇を決め込んだのだ。フロントに縫い付けられた大きなポケットに、華奢な両手を押し込んだままで歩く姿は、どこか勝ち誇っているようにも映った。
「やっぱウケる。あの
送迎車を見つけた彼女は、後部座席に乗り込むなりそう言った。路上駐車をしていた心苦しさもあって、僕は取り急ぎ車を走らせる。
「少女漫画みたいだよね。運命の再会っていうか、このまま禁断の恋に落ちたりとか?」
「冗談はやめてください。新人運転手の
LIVE後特有の、奇妙なハイテンションのRoul B.を宥めた。フロントミラーに映る彼女は、直前のセリフには似つかない陰鬱な表情で街並みを眺めている。この職についてまだ二カ月程度だけど、前のドライバーが辞めてしまった理由は何となく察しが付いた。
「東條さんから、素晴らしいステージだったと聞いております」
「……そう。スタッフが良かったからね」
「主役はあなたですよ。今日は存分に体を休めてください。それから喉も」
くたびれた笑みがミラーに咲く。何故だか痛々しさの滲む笑顔が、僕の胸の中をざらつかせた。
かつては表現者だった僕らの中で、彼女だけが日の目を見ている。ほんの数十分前まで、Roul B.は光のカーテンに包まれていたはずだ。なのにどうして、ただの有象無象でしかなかった僕なんかよりも枯れそうに笑うのか。
「はいはい。喉は大事ね。あ、そういえば成川ってタバコやめたの?」
「ええ。あなたのドライバーを務めるにあたって、就業規則のひとつでしたので」
「私は気にしないのに。ステージで炊くドライアイスに比べたら百倍マシ」
いつもより饒舌な彼女が、座席の隙間からにょきりと顔を出す。至近距離に迫った彼女の、艶のある唇ばかりが視界に眩しかった。
「あなたが良くたって、東條さんが許しませんよ。それに禁煙する良い機会です。生活が苦しくて、タバコ代も馬鹿になりません」
「貧乏ヒマなし……か。映像の方は? もう辞めちゃったの?」
Roul B.の、少しだけ躊躇いがちな口調。生乾きの傷に触れる時のような逡巡が、逆に空気をひりつかせる。
「……続けています。あくまでも細々とですが。あれは金にならなくて、今は趣味の範囲です」
「ん。続けてるんだね。それなら、良し」
対向車線のライトで、彼女の表情が読めない。何とも言えない空気で溢れそうな車内。彼女の自宅までの道程が、これまでよりも長く感じられた。
沈黙に支配される前に、僕は言い訳を始める。
「あれはね、嗜むくらいで丁度良いんです。作業に没頭すると、身嗜みが疎かになりますから」
「疎かってレベルじゃなかったでしょ。昔の成川は、もっさもさのロン毛にヒゲ塗れの顔で、今だから言えるけど、ちょっと臭かった」
顔を赤らめる僕を見て、Roul B.が笑う。
大口を開けてお腹を抱えて、あの頃のろうるみたいに、笑う。
「言ってましたもんね。社長と同席された最終面接の時に、誰だか分からなかったって」
「そうそう、痩せたもんね。こんなのZeRahuじゃないって思った!」
砕けた雰囲気になってきたところで、Roul B.のマンションが視界に入ってきた。はっと我に返ったのか、それ以降の彼女は無機質な業務連絡以外を口にすることはなかった。
マンションのエントランスへ、白いパーカーの後ろ姿が飲み込まれたことを視認してから、僕は東條さんの電話を鳴らす。いつでも3コール以内に電話に出る東條さんは、まさにマネージャーの鏡だ。
「はい。今しがた無事に送り届けました。え? そうですね、普段通りですよ。特に変わった様子は」
「分かりました、お疲れ様。気を付けて帰宅してください」
カーステレオのスイッチを入れて、Roul B.の新曲『腐海のつぼみ』を選曲する。ヘヴィーなギターのリフレインと、彼女の高音域の歌声が絡み合う素晴らしい曲だ。いつもの難解さを捨てた生々しい歌詞が、音のうねりと合わさって聴く者の感情を揺さぶる。
「……それでも僕は、この曲のMVが気に入らないんですけどね」
誰にも聞こえない負け犬の遠吠えを漏らす僕は、ZeRahuを名乗っていた頃の何倍もダサい人間だった。
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