プトレマイオスの天球儀船
櫛名 剛
第1話 日常:移民船団
見渡す限りの宇宙。
いつも部屋の窓から見える、暗くつまらない景色とちがって視界をさえぎるものはなく、さまざまな色と形からなる銀河が、星海のキャンバスに彩りを添えていた。
不思議と立っている感触はあった。
「うわあ!」
「すごい……」
その場にいた誰もが同じ反応を示した。
天城キアラも、その中のひとりに含まれていた。
しかし、なかには足をすくませ、その場に座りこむ者もいた。
「手、ぜったい放さないでね――」
少女が訴えるように、じっと見つめていた。
黒髪の少女は両脚をWの形にしてぺたんと座るような格好で、キアラの右手を両手で強く握りしめている。
「大丈夫だよ。見えないだけで床はちゃんとあるし、空気もあるだろ」
「わ、わかってるけど、それでも怖いものは怖いの!」
その瞳は涙ぐみ、恨めしさがにじんでいた。
リアルスティック・ホログラムが室内に作り出す宇宙空間は、現実と見わけがつかないほど精緻であった。
「あらあら、
下は八歳から上は十五歳まで。二十五人の生徒を前にして、教師になって二年になるシンディが心配そうに言った。
「は……はわ……」
はい、と言いたかったのだろう。答えようとするも目をつむってしまった琴音のかわりにキアラは答えた。
「大丈夫です、シンディせんせい。続けてください」
「そう? もし気分悪くなったらいつでも言ってね。それでは始めましょう――」
宇宙全体が螺旋を描くように、ぐるりとまわりはじめるや、キアラは平衡感覚を失った。そんな彼をあわてて引き止める琴音――もちろん、母親ゆずりの青紫色の瞳は閉じたままだ。
その間にシンディは右腕を伸ばすと人差し指で、ある一点を示した。
「眼下に見える青い星が今、私たちが向かっている地球です。この地球に来るまでに私たち移民船団〈ノア〉は千五百年の旅を続けてきました。ではここで問題です。リントさん」
「はい!」
キアラの背後から元気な声がした。
先日、十二歳の誕生日を迎えたばかりのリントは、琴音よりもふたつ年上の女の子で、髪型がセミロングからツインテールに変わっていた。
「私たちが住んでいる移民船『ノルン=サン』号の人口は現在、何人でしょうか?」
「えぇっと……、三万人です」
「正解。それじゃあつぎの問題。フィリッツくん」
「はい」と、キアラの斜め後ろに立っていた少年が返事をする。
フィリッツはクラスのリーダー的な存在であり、キアラにとって面倒見のいい頼れるお兄さんだ。
フィリッツは、シャツとズボンがひと続きになっているジャンプスーツを着ていた。
ジャンプスーツは、〈船民〉――移民船の全住民に支給される数少ない服飾品で、船内での役割や年齢によって色分けされていた。
十六歳未満の一般船民はライトブルー。先生であるシンディは、十六歳以上のライトグリーンを着用している。さらにシンディは、ジャンプスーツの上に袖のないロングジャケットを羽織っていた。
このロングジャケットは、十六歳になると成人になった証として与えられるものだ。
「それじゃフィリッツくんには、移民船の説明をお願いしようかな」
「先生、それってもう問題じゃありませんよ」
「いいでしょ? ここらでひとつ、年長組の威厳を見せないと。ね?」
「はあ……わかりました」
フィリッツがそう返事する間に、シンディは左手首に付けた腕時計型の端末を操作して、宇宙空間に巨大なスクリーンを映しだした。
スクリーンには、巨大な
フィリッツの説明によると、コロニーシップの全長は三八〇〇メートルあり、距離をおいて航行しているため後列の船は視認できない。
移民船団ノアを形成しているコロニーシップは全部で十二隻。
そのうち二隻は食料プラントと工業プラントに特化しており、千五百年という長旅を支えている。
船団をまとめているのは、〈ノルン移民船団統轄委員会〉と呼ばれる組織で、委員会のメンバーには〈エージェント〉と呼ばれるAIも何体かいる。
寿命のないAIを委員会に含めていることは、大きな利点があった。過去に起きた失敗は繰り返したくないものだ。医療制度や社会制度などあらゆる分野において、彼らは歴史的な観点から的確なアドバイスを提供する。
フィリッツの説明が終わると今度は、地球についての授業がはじまった。
なにもない空間に複数のスクリーンが浮かびあがった。
「うわぁ」
キアラは目を輝かせた。
スクリーンに映っていたのは、いずれも本や動画でしか見たことのない大自然だった。透きとおるような
そして、見たことのない生き物たち。
「みんないい? 少し地球に降りてみましょう――」
つぎの瞬間、キアラたちは草原に立っていた。どこまでも緑が続く大地。見あげれば青空に白くてふわふわしたものが浮いている。
あれは鳥という生き物だ。
雲だ。
空と大地が切れているけど、あれはなんで?
皆、興奮した様子だった。
「琴音、見てみなよ」
「ん? 終わったの?」
「ちがうって、ほら。見ればわかるよ――」
「こわくない……よね?」
琴音はうっすらと目を開けた。
「すごい……」
「だろ?」
「うん……きれい……」
「先生。地球にはあとどれくらいで着くんですか?」とフィリッツは言った。
「ノルン移民船団統轄委員会によれば、あと十年と言われています」
「あと十年か――」フィリッツは感慨深げに言うと、「待ちきれないね」と、フィリッツと同い年の女の子が笑う。
「それじゃみんな。今日はここで青空教室といきましょう」
やったー、と声をあげる生徒たち。みんな地面に座り込んだ。
キアラはなにげなく、その辺に咲いている小さな花に手をのばしてみた。蜜蜂が飛び去っていく。
感触はなかったが、花はキアラの手に合わせて、ゆらゆらと動いた。
そのときだった――。
サーッと窓のカーテンを閉めたかのごとく、あたりが薄暗くなった。
鮮やかな黄色い花びらの上で、ぽつりと水がはじけた。
キアラの腕にも水玉がぽつぽつとはじけた。
「キアラ、空が……」
琴音の声に導かれるまま空をあおぐと、上空から水玉が次から次へと落ちてきた。
水玉は琴音の髪でぶつかって消えてなくなるが、濡れたようすはない。
「雨だ……」キアラはつぶやいた。
歓声をあげる生徒たち。
雨は本格的に降りだし、ザーッという音があたりをつつみこんだ。
空に向かって、キアラよりも年下の男の子がふざけて口を開ける。それを見て女の子たちが笑っている。
「あはっ。おもしろ~い。なんか不思議」
「うん」
興味津々の琴音に、キアラがうなずいてみせると――、
とつぜん目の前が閃光に包まれた。
笑い声が消えた。
直後、ドォーン! と空が爆発した。
「キャーっ!」
叫び声はひとつではなかった。琴音の小さな黒い頭がキアラの胸に飛び込んできた。
ゴロゴロと轟くような残響がキアラの腹を震わせた。
まわりの子どもたちも、その場に座り込んだり、両耳をふさいだりしていた。
「な、なんだ……」
内心、じつはキアラはびびっていたが、だきしめていた手で琴音の背中をぽん、ぽん、と叩いて「大丈夫」と強がってみせる。
「みんな、落ち着いてね。これは雷よ。すぐにまた晴れるから、安心して」
そう言ってシンディが、怯えている生徒一人ひとりに声をかけていく。
彼女が琴音のところにやって来たとき、キアラは訊ねた。
「せんせい、雷って?」
「キアラくんたちは、この授業を受けるのは初めてだから知らないのは当然ね。宇宙船と違って地球は――」
灰色の雲は遠ざかり、空がまた明るくなっていく。
陽の光を浴びながら、シンディは雨と雷について、小さな子たちにもわかるように解説していく。
琴音はキアラにしがみついたままだ。
どれも聞いていて、わくわくするものだったが、いまひとつ実感が湧かない。
なぜなら船の中はいつも同じだからだ。寒くもないし暑くもない。
廊下で太陽が輝くことも、みんなが集まるリラクゼーション・ホールに雨が降って、びしょびしょになることもない。砂はあるにはあるが、砂嵐を起こすほどの量はないだろう。
草原に座って聞いているみんなも似たようなことを考えていたのか、
「空気が乾燥するってどういうこと?」
「汗で全身がベトベトになるの? そんなのいやよね」
と、口々に言っている。
「なんか、地球で生きるのって大変そうだな。ぼくたち、そんなところで生きていけるのかな」
誰かが言った。
「そうね。でも、なにもない船の中よりも楽しそうと思わない? たとえば冒険とか」と、シンディは答えた。
「キャプテン・ヴェガ!」
少し離れた場所に座っていたキアラと同年齢の男の子が叫んだ。
「ヴェガね――」フィリッツがキアラのほうを見てニヤリとすると、「僕たちのヒーローだね。星々を旅してお宝や強力な力を手に入れ、ノルンの神々と協力して、邪神から世界を救うってヤツ」
「ああ! ヴェガ、かっけーよな」
キアラは力強く拳を握って立ちあがった。
「ちょっとキアラ。はずかしいでしょ」
琴音がキアラのスーツを引っ張り、無理やり座らせる。クスクスと笑い声があちこちから漏れ出ていた。
「それじゃあ、午前の授業はおしまいにしましょう。午後はそのヴェガに関するお話です」
「え! ほんとうに!」
キアラは立ちあがった。
「あ、また」と琴音。
「う~ん、キャプテン・ヴェガというよりもノルンの神々についてのお話かなぁ」とシンディは微笑んで見せた。
「え~……」
キアラは口をとがらせた。
残念ね、とでも言いたげにシンディはぽんと手をたたいた。
大草原は一瞬にして、白い壁に囲まれた部屋に変わった。
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