第21話繰り返す

 人は往々にして間違いを繰り返す生き物だ。少なくとも、僕は一度では学習できるような器用な人間ではないし、失敗したことには後で気づいて後悔する人間だ。


 きっと、要領が悪いんだと思う。


 だから、起きがけにこんなことを考えていることもまた、間違いのひとつなのだ。


 でも、今日は朝から自分の悪いところを考えてしまうなんていう、ちっぽけなネガティブ要素を吹き飛ばすような出来事が起こった。


 赤い糸が見えないことに気が付いたのは、目が覚めて窓を開けた時だった。視界を埋め尽くすように張り巡らされた赤い網が、綺麗さっぱり見えなくなっていれば、嫌でも気づいてしまう。


 僕の世界から、赤が限りなく少なくなった瞬間だった。


 元に戻ったという表現が正しいのだろうけど、僕は生きて来た人生の大半を赤が支配していた。それに赤い糸が見えなかった幼い頃の記憶なんてほとんど残っていない。だから、鎖に縛られることないこの世界は、僕にとっては新しい光景で、まるで別の世界に来たみたいだ。


 なぜ、赤い糸が急に見えなくなったのかは分からない。そもそも、赤い糸が見えるようになったことも謎のままなのだから、もしかしたら長い夢でも見ていたのかもしれない。


 頭がおかしい人間が、妄想で生み出した虚像。元々、赤い糸なんてものは存在せず、自分の親を見て、仲が悪い人通しは赤い糸が繋がってなくて、仲よさそうに見える人通しは繋がっている。そういう風に脳が勝手に見せていただけなのかもしれない。


 いずれにせよ、今となっては確認の仕様がない。


 でも、できることなら、僕の勝手な妄想であってほしい。


 昨夜、彼女と触れていた右手が熱を帯びる。今でも、彼女の手の温かさ、触れた感触は鮮明に残っていて、思い出すだけで心臓がきゅっと締め付けられる。


 初めての感覚に焦りと戸惑いが先行する。


 でも、僕は分かっている。

 きっと、これは恋と言うのだろう。


 今すぐ顔を見たいし、会話もしたい。触れて、その温もりを感じたい。

 むず痒くて、考えないようにしても、気がつくと彼女を脳裏に浮かべている。


 これを恋と呼ぶのなら、なんとも迷惑な感情だろうか。でも、悪い気はしない。

 高三にして初恋。遅すぎるにも程がある。


 一度は起こした体をベッドに放り出した。


 赤い糸の見えない天井は真っ白で、部屋を見渡すと、昨日とは何も変わっていないはずなのに、なんだかスッキリしてしまったような、面白みが欠けた簡素な部屋だ。


「いい加減にしてよ!」


 また、下では両親が朝っぱらから近所迷惑も考えずに夫婦喧嘩を巻き起こしているようだ。


 昨日、なぎの両親にぶつけた言葉をそのまま自分の親に言えたら、どんだけ変わるのだろうか。口を挟むなと逆上してくるかもしれない。もしかしたら、また怪我をしてしまうかもしれない。少なくとも、和解に至るようなことは万が一にもないだろう。


 なぎは花火を見れただろうか。ちゃんと、また来たいと思いながら帰路についただろうか。


 桜坂は――


 ……どう思っただろうか。


 また、彼女のことを考えている。


 今なら、愛衣の気持ちが分かるかもしれない。きっと、愛衣もこんな風に悶々とした思いで毎日を過ごしていたのだろう。


 彼女の気持ちが分かったのなら、やっぱり昨日のことは謝らなければならない。彼女にうやむやな支援をしていたにも関わらず、最終的には彼女の意志と覚悟を踏みにじるような言葉をかけてしまったのだから。


 赤い糸の見えない僕は、ほんの少しだけ前向きになれているような気がした。




「おはよう。昨日ぶりね」


 後ろから声をかけられる。もちろん、それが誰なのかは考えるまでもない。


 学校のさらに図書室で、僕に声をかけるのは一人しかいないのだから。


「おはよう。桜坂」


 隣に座る彼女に鼓動が早くなるのが分かった。それでも、僕はこの感情を表に出すべきではない。


「夏休みだってのに、どうしてみんな学校に来るのかしらね。私もその一人だけど」


 話しながらもテキストに目を走らせ続ける彼女に感心しつつ、要領の悪い僕は手を一度止めた。


「そりゃ、受験生の夏だからね。みんな補講なり、自習で学校はうってつけだよね。おかげで自習室はパンパンだったけど」


「そうね。もう、半年で卒業だものね、私たち」


 なんとなく、周りを見渡す。この校舎ともあと少しでお別れと思うと、なんだか感慨深いものがある。


「まあ、学園祭とか色々残ってるから。そう言えば、今年は三年だからやっぱり劇とかやるのかな」


 この学校には、三年生は学園祭でクラスごとに劇を披露する慣習がある。なんでかは知らないけれど。


「どうせ、私も篠原くんも裏方か脇役でそこまでやることはないと思うわよ」


「だろうね。主役なんかは幸田とかに任せればいいんだよ。というか、僕のクラスは幸田が主役で間違い無いと思う」


「雲宮くん、人望あるものね」


 桜坂は、昨日のことをどこまで知っているのだろうか。幸田の名前が出て来ても、昨日のことには一切触れてこない。


「それにしても、大学生になっている自分は想像できないなぁ。桜坂は簡単に想像できるけど」


「誰しも、自分の将来ってのは想像しにくいものよ。私だって、自分のことは想像し難いけど、篠原くんの大学生活なら容易に思い浮かぶわ」


「そういうものかぁ」


「そういうものよ」


 昨日までと、なんら変わらない会話。これでいい。僕はこれで満足だ。


 夏休みの図書室は騒がしい。学校の中で一番静かないつもの空間とは違い、先生が何人かの生徒にホワイトボードを使って勉強を教えていたり、教室を夏期講習で使われていて、行き場のない、普段図書室を使わない人もたくさん来ている。


 さながら、いつもの教室のような雰囲気だ。


 そんな空間の端で、僕と彼女はぽつぽつとたまに言葉を交わしていた。


「そう言えば、僕赤い糸が見えなくなった」

 

 この言葉を聞いての彼女の反応は、実にわかりにくかった。わかりにくいというか、それまでと全く態度を変えないものだから、どう思ったのか判断はつかなかった。


 ただ、テキストから目を離し、僕の方を向いたのは、それがただの雑談ではないと考えたからだろう。


「今日から?」


「そう。起きたら、一本も見えなくなってた」


「突然、消えるなんて不思議な力ね」


「見えるようになったのも突然だったから、そこまで驚きはしなかったけど」


 彼女は天井を見ながら、ペンで下唇を突く。


「確か、赤い糸が見えるようになったのは、両親の喧嘩で怪我をしてしまった次の日よね? でも、今回は怪我したわけでもないし、もしかしたら、強い心の動きで見えるようになったり、見えなくなったりするのかもしれないわね」


「昨日は、色々あったからね」


 昼のチャイムが鳴り響く。夏休みなのだから、チャイムが何かの終わりを告げるものではないのだが、みんなぞろぞろと図書室から出て行く。


「見えなくなって、どう思った?」


「良くも悪くもないよ。強いて言うなら、赤いチョークの文字が見やすくなったくらいかな」


 彼女は笑みをこぼす。


「面白い表現ね。でも、今なら篠原くんも恋ができるんじゃないかしら」


 僕は彼女から目をそらす。


 大きく伸びをすると、別校舎から淡く吹奏楽部の演奏が聞こえて来た。


「さあ、どうだろうね。でも、僕は桜坂にだって恋はできると思うよ」


 人は間違いを繰り返す生き物。そして、自分の変化を他人にまで押し付けるおこがましい生き物だ。


 だから、僕は言った後に気づいて、そして後悔する。


「……無理よ。いえ、無理って決めつけているだけだとは思うのだけど、それでも、やっぱり私には恋はできないと思うの」


 窓の外に目を向ける彼女の右手は、喉元に触れていた。

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