第8話檻の中

「喋れなくなるって……卒業するから、僕ともう喋れなくなるって意味じゃない……よね?」


 先程までの怯えたような悲しげな表情に真顔の仮面をした彼女は、静かに頷いた。

 なぜだろうか。彼女と会話ができなくなることに恐怖を覚える自分がいる。まだ、それこそ出会って間もない、言ってしまえば他人のことのはずなのに、どうして僕はこんなに怯えているのだろうか。


「病気ってこと? あまり知らないけど失声病とか……」


「少し違うのだけど、まあ似たような病気ね。徐々に声が掠れていって、最終的には一切声が出せなくなるらしいわ。ほら、私よく咳払いみたいなのするでしょ?」


 見本を見せるように、彼女はわざとらしく咳き込む。


 思い返すと、確かに彼女は不自然なタイミングで、小さくではあるが咳をする癖があると思っていた。しかし、まさかその癖だと思っていた行為が病気のせいだなんて、全くの予想外だ。


「昔から医者には言われてたのだけど、最近喉に何かがつっかえてるみたいな感覚になるの。医者曰く、これから徐々にひどくなるって」


「治らない……の?」


「今の医学では無理だってはっきり言われたわ」


 彼女はお手上げと言ったように肩をくすめる。


 繋げる言葉が見つからない。

 せっかく、彼女が仮面を着けてまで重い空気にならないように努めてくれているのは分かっているのに、あまりの衝撃に脳の回転が追いつかない。


 必死に言葉を振り絞ろうとする僕に、彼女は優しく微笑んだ。


「篠原くんって、他人に興味ないように見えて、すごく気を使って色々考えてくれるのね」


「……そうかな? 自分では分からないや」


「そうよ。私が聞かれたくないことはちゃんと言葉を飲み込むし、かけて欲しい時にちゃんとふさわしい言葉をくれる。それこそまるで心を読まれてるみたいだわ」


「そんなの……」


 微妙に開けられたドアの隙間から、廊下のひんやりとした空気が足を撫でる。


「持っていたら、会話なんて必要なさそうで便利ね。本当に喉から手が出るほど欲しいわって、私が過去に言ったセリフを使って笑いを誘おうとするのも、その言葉の意味が今になってちゃんと分かってしまったから、私が嫌な思いをしないように飲み込むのも、ちゃんとその人のことを考えているからできることよ」


「僕は……そんなできた人間じゃないよ。ただ、昔からこの煩わしい赤い糸が見えてしまうから、人と関わることに怖がっているだけ」


 放課後の図書室に一本の赤い糸。この赤い糸さえ見えなければ、きっと僕は彼女に恋をしていたんじゃないかと思う。

 でも、僕と彼女の間には虚空が存在するだけで、僕の赤い糸は彼女と逆方向に向かってなびいている。


 だから、僕はまた自分の気持ちに蓋をする。


 彼女も僕も運命という牢屋に閉じ込められた無罪の囚人だ。


 自由が奪われた狭い籠の中で、檻越しに会話をする関係。


「おらっ! お前らもう下校時刻だと言っただろ! いつまで残ってるんだ!」


 廊下から怒号が響いてくる。でも、僕はそんなことを気にしてはいなかった。

 

「もう、私はあんな風に叫べないの。大きな声で、神様の馬鹿野郎って叫んで、暴れたいのだけれど……。だからね、私の夢は静かなこの空間で大きな声で叫ぶこと。悪いことしたいだけの変な女なのよ」


 いつの間にか、僕の手は赤い糸を掴むように胸の前で握りしめられていた。その無意識が、また僕を苦しめる。

 

「さっ、もう帰りましょ。今日は少し喋りすぎたわ」


 彼女は固く握りしめた僕の手を優しい手つきで解くと、そのまま手を取って背を向けた。

 僕は、ただ引っ張られるようについて行くことしかできなかった。


 これは弱みの見せ合いだろうか、それとも、運命を恨み合う会だろうか。


 違う。


 これは、傷の舐め合いだ。

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