第7話暗闇

 最近、図書室は放課後が一番騒がしいかもしれない。

 騒がしいと言っても、図書室なので他の教室や校庭のような大声が飛び交うのではなく、ただひたすら本と本の間を二人の会話が絶えずすり抜けて行く程度だ。


「篠原くん、本当にテニス上手だったのね」


 もう二人以外誰もいない図書室で、桜坂さんがカウンターを挟んでノートに何かを書きながら言った。


「だから、あれは相手がそんな上手くなかったのと、幸田のおかげだよ」


 僕と愛衣が糸で繋がっているのが彼女にバレた日、幸田は無事に試合には勝ったものの、物足りなかったようで、なぜかテニス場の端で行われている、誰でも参加できるレクリエーション試合に、勝手に僕とダブルスで応募してしまった。


 その流れで、中学生ぶりに一試合だけテニスをやらされたわけだが、おかげで、二日経った今でもまだ腕が筋肉痛だ。


「相手だって本大会で勝ち進んでいた人たちだったじゃない。私、篠原くんは運動が苦手そうって思っていたから、少し感心したわ」


 喉を痛めているのか、不自然に一つ小さく咳をして、彼女は書き終わったノートを掲げて見せてきた。ノートにはみみずのようなぶれぶれの線で描かれた絵。


「これ、もしかして僕と幸田?」


「そっ、この前の試合」


 最初は堪えていたものの、彼女が自信満々に言うものだから、思わず吹き出してしまった。


「ははっ、桜坂さん絵が苦手なんだ」


「む、そんなに変かしら。……いや、確かに下手くそね」


 二人には広すぎる図書室に二つの笑い声が流れる。


 彼女――桜坂琴音は話せば話すほど、印象が最初と変わっていく。

 物静かで表情が乏しいと思えば、二人ではよく喋るし、普通に笑いもする。思いの外ロマンチストで、今しがた発覚した絵が苦手。


 普段は僕と同じように空気を演じている彼女の、みんなが知らない一面を垣間見れていることにちょっとした優越感を覚える。

 空気を演じているといっても、演じきれていないわけだが。


「桜坂さん、今日昼休みに告白されてたでしょ」


「えっ……?」


 驚いたように少しだけ固まる彼女。


「僕が見たわけじゃないけど、幸田が偶然見かけちゃったって。あれ、うちのクラスの男子」


 彼女は空気になろうと努めている。しかし、優れすぎた容姿がそれを許さないのだ。

 彼女と知り合いわかったことがある。彼女は実は結構モテるのだ。一緒に歩いてたりすると、彼女に視線を向ける男子がちらほらいることに気が付いた。

 

 彼女本人が気が付いているのかは謎だが、意外とこういうのは自分では気づきにくいことだ。


「ああいうのは、よくあるから、言ってしまえば日常茶飯事だと思うことにしてるの」


 OKしたいとは思わないの? と喉まで出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。詳しく理由は聞いていないが、恋愛やそういう類のことに対してある種の嫌悪感に近いものを抱いている彼女にとって、この言葉は地雷そのものだろう。


「ちなみに三年になって、何人に告白された?」


 彼女は目線を宙に彷徨わせる。そして、少し照れたようにノートで口元を隠す。


「……四人」


「わお、幸田越え」


「本当にたまたまよ。最近はなぜかそういうのが多いだけ」


「まあ、確かに新学期で、この高校ともあと一年だからね。みんな、最後の青春がしたいんでしょ」


「だからって、話したこともない人に突然告白するというのは、どう考えても無謀そのものじゃないかしら」


 ふっと、窓から差し込む西日が沈み、教室が一層暗くなった。最近は、これが下校の目安になる。日が沈むと、先生たちが最終の下校を促しに教室を見回りに来るのだ。


「桜坂さんは、どうして僕にこうやって構ってくれるの? 僕はただ、家になるべく早く帰りたくないからこうしているんだけど」


 教室の電気が届きにくい薄暗いカウンターの向こうで、彼女の表情が固くなった気がした。

 数秒の沈黙が図書室の本来の姿を取り戻させる。


「おーい、まだ残っているのか。もう、下校の時間だぞー。早く帰れー!」


 ドアから半身出した体育教師が、静寂を破って、すぐに去っていった。


「私がこうやって、篠原くんと話しているのは、私が話したいからよ。もちろん、分かると思うけど篠原くんのことが気になってるからとか、そういうのじゃなくてね。篠原くんって、私の話をしっかり聞いてくれるでしょ? 聞き上手って言うのかしら」


「人と話したいから、僕に付き合ってくれてるってこと?」


「ちょっと違うかな。会話する時間って私にとって貴重だから、どうでもいい人とはむしろ話したくないの。篠原くんは、なんでか分からないけど話しやすいのよ。出会いがナンパだったからなのかしら」


 そう言って、彼女は意地悪く笑った。


「よく分からないけど、とりあえず今日は帰ろっか。あの先生、二回目は怒って来るし」


 図書室の電気を消し、ドアに手をかける。


「私の夢はね、ここで大きな声で叫ぶことなの」


 開けかけたドアから、手が止まった。


「あ、こっち向かないでね」


 彼女の小さくも力強い声が鼓膜を揺らす。


 僕は前を向いたまま、問いかける。


「別に図書室だからって、大声を出せないわけじゃなくない? 例えば、別に誰もいない今叫んでもいいわけだし。もちろん、モラルというか、そういうのを考えると、ちょっとできないかなってなるけど」


 返事は帰ってこない。

 本当に今ここで叫んでやろうかと考えた瞬間、彼女の小さく息を吸い込む音が聞こえた。


「私、一年後には喋れなくなるの」


 嘘ではない。その力強い声が、それを物語っている。


 思わず振り向いてしまった。


 そこには、暗闇でひどく悲しそうな顔をしている彼女が立っていた。

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