第5話本当の愛

 春にしては冷たい夜風に身を縮め、街灯のない道を一人歩く。

 真っ暗な世界に一人取り残された気分だ。もちろん、周囲の建物からは温かみのある光が漏れ出しているため、完全に視界が黒というわけではない。しかし、こうして一本の道に前にも後ろにも人が見えないと、この明るい建物の中にも、実は人がいないんではないんだろうかと思う。


 普段はこんな馬鹿げた妄想はしないのだけれど、今日は珍しくテンションが高いようだ。

 胸のつっかえが取れたとまでは言わないが、秘密を共有する人ができたということだけで、暗闇に赤外線レーザーのように交錯する赤い糸もさほど気にならなくなった。


 なぜ、彼女に本当のことを話そうと思ったのか、自分でも分からない。ただ、彼女が僕の話を信じてくれそうな気がした。きっと、それだけのことだ。


 客がおらず、暇を持て余してる眠そうな店員がいるコンビニを曲がると、すぐに自分の家が見えてくる。

 玄関のドアをそっと開けると、いきなり気分が悪くなった。気持ちを逆立てるような母親の罵声が、身体の芯を貫いたのだ。

 でも、母親が罵りを吐き出した相手は僕ではない。


 続いて、今度は父親の反論する大声が聞こえてきて、僕はそっとドアを閉めた。外では、猫の喧嘩するけたたましい鳴き声が響いているが、家の中よりはましだ。


 ため息を一つ吐き出し、来た道を戻る。そして、三軒隣の玄関のインターホンを迷うことなく押す。


「はーい! どなたですか?」


 インターホン越しにノイズ混じりの高い声が聞こえて来る。


「あの、実笠ですけど……」


「実笠くん!? 今、開けるわね。ちょっと、待ってて」


 少し待つと、玄関のドアが開き、エプロン姿の女性が姿を表す。随分と急いでくれたようで、こわばった表情だ。


 彼女は僕の顔を見るなり、一つ息をつき、安堵の表情を浮かべた。そして、僕の頭をぽんぽんと軽く触ると、何も聞かずに家にあげてくれた


「ありがとうございます。……お邪魔します」


 リビングに入ると、四人がけのソファーに寝転がり、スマートフォンをいじる同級生と目があった。


「おー、実笠。また逃げて来たのー?」


「……愛衣。急に来たのは僕だけど、もう少し恥じらえよ」


 愛衣は不思議そうに自分の姿を見直す。ショートパンツに薄いTシャツ。細い四肢が大胆に覗き、Tシャツは少しめくれてへそが見えている。男子高校生が喉を鳴らすには十分すぎる服装だ。


「何言ってんの。昔は一緒にお風呂も入ったじゃん」


「いつの話ししてんだよ。ったく、幸田にこの姿を見せてやりたいよ」


「ちょっと、幸田くんに変なこと言ったら、本気で怒るからね!」


 ソファーに乗っかった愛衣の足を押しやり、開けたスペースに座る。


「冗談だよ。あいつ、日曜の試合は九時からだってさ」


「九時かー。早いなぁ。私、あんま朝早いと化粧馴染まないんだよね」


「学校より遅いだろ」


「あ、それもそうか。なんか、九時って聞くと早く感じるけど、学校って言われるといつも通りか、って感じだよね。ってか、なんで学校ってあんな早いんだろ。ウチの家、お父さんの方が家出るの遅いんだけど」


 本当、外でも内でもよく喋る幼馴染だ。

 ずらずらと止まらない語りにあーとか、それなーとか、適当に相槌を打つ。はたから見れば、失礼極まりない態度も、僕と愛衣の間ではこれが普通なのだ。


 別に僕は愛衣の話を聞いていないわけじゃないし、聞きたくないわけじゃない。そして、愛衣も僕の話を聞きたいわけじゃなく、話を聞いてもらえればいい。互いの性格を分かっているからこその会話の形だ。


 こうやって自分の家に帰らず、愛衣の家にお邪魔するのは週に二回くらいの頻度だ。前までは頻繁に訪れるのは申し訳ないと感じて、こういった夜は通学路にある土手に座ったり、コンビニで時間を潰していたのだが、一度警察に補導されてしまってからは、愛衣の母親にウチに来るように強く言いつけられてしまった。


 愛衣の母親も僕の家庭状況は重々理解してくれているため、快く歓迎してくれる。


「ほら、二人ともご飯できたから、早く来なさい」


 当たり前のように僕の分まで用意してくれる愛衣の母親には、本当に頭が上がらない。

 卓を三人で囲み、手を合わせた時、愛衣の父親が帰って来た。額に深くシワが刻まれた堅物な顔で、他人を寄せ付けにくい人ではあるが、僕は愛衣の父親を見ると心が安らいだ。


「おや、実笠。来てたのかい」


「お邪魔してます」


「ゆっくりしていけ。ここは、お前の家でもあるんだ」


 愛衣の父親はそれだけ言い残すと、着替えるためにリビングを後にした。

 夕食を食べ終わると、風呂に入らされ、愛衣の部屋に押し込められた。しばらくすると、愛衣の母親が僕用の布団をもってきた。


「朝ごはんはどうする?」


「一度、家に戻って着替えるんで、大丈夫です。ありがとうございます」


「そう、分かったわ。ゆっくり休みなさい。おやすみ」


「おやすみなさい」


 愛衣の母親は僕の頭をぽんぽんと軽く触って、部屋を後にした。


 撫でられたところが、やけに暖かい。

 

 しばらくすると、風呂を上がった愛衣が部屋に戻って来る。その後は、互いにくだらない会話を繰り広げ、二十三時を回ると、愛衣が電気を消す。


 いつも通りの流れで、いつも通りの生活。しかし、いつもであればすぐ睡魔が襲って来て、そのまま身を委ねるのだが、今日はなぜかなかなか寝付けなかった。


 しばらくすると、愛衣の寝息が小さく聞こえて来た。


 幼馴染と言えど、年頃の男女が一緒の部屋で横になっている状況は、人によっては羨ましいと感じるのだろうか。

 部屋に漂う一本の赤い糸に目を奪われる。


 愛ってなんだろう。


 父親は僕を苛立ちのはけ口として利用し、母親は父親に利を取るために表面では僕に良くする。僕が――僕の人生そのものが、赤い糸で繋がっていない者同士から生まれた存在だ。

 僕の家庭が極端で、必ずしもこういった結末になることはないと分かっている。それでも、愛っていうものは、人の一生でとても大事で、重要なものなんだろう。


 愛衣の家族は僕に確かに愛を注いでくれているだろう。当たり前のように接してくれる母親も、寡黙ながらも我が子のように受け入れてくれる父親も、僕を愛してくれている。


 でも、これは本物の愛ではない。この家族が、僕の立場を知っているから注がれるものだ。

 もし、僕が赤い糸で結ばれた両親から生まれた子であるなら、きっとただの、娘と仲のいい近所の子として見られていたはずだ。それに、僕が彼らの愛を素直に受け入れられずにいる。申し訳なさと、本来の僕の家庭状況が、愛を妨げるのだ。

 愛は片道では成り立たない。


(心のどこかでは少なからず、人を愛することへの関心とか、愛される期待を持っているから赤い糸があるんじゃないかしら)


 脳裏に桜坂琴音の言葉が響いた。


 僕はまだ本当の愛を知らないでいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る