成人の日:甘酒日和の梅の下で。
「おお、奇遇ですね」
近所に所用で出かけた帰り道、茶話屋に出会った。今日はいつもの矢絣の上に黒いポンチョを羽織り、片手に重そうな風呂敷包みを提げている。
「ああ、これですか? っと……これはお酒です」
包みを持ち上げようとした彼女は、その重さに負けてよろめいた。仕方なく私が代わりに持って行くことにする。
「すみません、ありがとうございます。助かりました」
手袋をした手を痛そうにさすりながら、彼女は頭を下げる。
それにしても、茶話屋がお酒とはどういうことだろう。巷の新成人たちの様子を見て、自分も飲みたくなってしまったのだろうか。
「ふふふ、別に私がいただく訳じゃありません。ある神さまに奉納するんですよ」
彼女は楽しげに口角を吊り上げた。
「それには面白い、そして内緒の
是非もなし。私がうなずくと、彼女はくるりと振り向いて一礼した。
「それでは。本日採れたての物語、ある神さまのここだけのお話。これより語らせていただきます」
… … …
今日のお昼どき、わたくし茶話屋が日課の物語採集をしておりますと、
梅の木の下の短い石段に腰かけ、お膝に頬杖をついて道を眺めるそのお顔を、長い黒髪がざわざわと撫でています。
「どうかされましたか?」
その様子がどうにもお辛そうに見えたので、私は思わず声を掛けてしまいました。すると神さまは顔を上げ、ぼそぼそとお答えになります。
「いや……人に話すようなことは何もない」
「そうおっしゃらずに。お話しになれば、少しはお気も晴れるかもしれません」
私が粘りますと、やがて神さまは諦めたようにため息を吐かれました。白いお顔とまっさらなお召し物に、梅の影がくっきりと落ちています。
「まあ、大した話ではないのだが、そこまで言うなら話すとするか。お主、口は固いな?」
「はい、石のように無口でございます」
「そうか……くれぐれも他言はするなよ」
「かしこまりました」
答えますと、神さまは遠くを見るような目をされました。私は一礼してお隣に腰かけます。日の光を吸った石段は、思いの外あたたかでございました。
「……十年ほど前のことだ。吾輩には友がいた。人間の友だ」
「ほう。どのようなお方ですか?」
「生意気な童だった。あまり自分の話はしないやつだったが、とにかく頭と口がよく回った」
「ほうほう。どうやって知り合われたのです?」
「あるとき奴が妙な男に追われているところに、偶然吾輩が行き合わせて……まあそれで、いろいろあって懇意になったのだ」
神さまは、懐かしそうに目を細めます。ご覧になる先を見れば、梅の木がその黒い枝を青空へと伸ばしております。
「それからの日々は楽しかった。奴は吾輩に、今の世の物どもについて教えてくれた。吾輩は人間に直に関わることは少ないゆえ、それらの話はすべて吾輩には物珍しかった。代わりに吾輩は奴に、古の世の話をしてやった。われらは毎日のように、この社のまわりで日が暮れるまで遊んだ」
しかし言葉とは裏腹に、神さまのお顔はだんだんと陰ってゆきました。
「だがある時、知り合って幾年かが過ぎたころ……」
神さまはそこで、黙りこんでしまわれました。
私はゆっくりとご様子を見ながら、言葉を選んで申し上げます。
「そのお方の身に、なにかあったのでしょうか」
「いやいや、そういうことではないのだ」
神さまが慌てたように手を振られると、その手のひらで梅の影がちらちらと揺れました。
「だが、奴の親が、仕事の都合で遠くへ越すことになってな。それで奴も、それについて行くと言いだしたのだ」
「それは……」
「ああ、仕方のない話だ。まだ奴は、中学生とかいう身分だったのだから」
ふうと息を吐いて、神さまは悲しげに笑われました。
「それに、吾輩がもっと力のある神であれば、我が霊を分けて奴についていってやることもできたのだ。だが吾輩は、この社にしがみついていなければ消えてしまうだろう」
「それでは……お別れをされたのですか」
私はためらいながらお聞きします。
「ああ。だが今日が最後という別れの日になって、奴が大泣きしてな」
神さまの笑いが苦いものに変わり、お顔にさす影がいっそう濃くなったように思われました。
「それで奴は、吾輩とずっと一緒にいたい、などと言いよった」
そして、ふいと顔を俯けます。
「無論吾輩は、奴に理を説いた。人間のお主と神の吾輩では、ずっと一緒にいるなど無理なことだと。いつか別れの日が来るというのは初めからの定めであって、それがたまたま今日になっただけのことなのだと」
私は、それこそ石のように、何も言えませんでした。
「だから、そのような言葉は、いつか会う大切な人間の為にとっておいてやれ、と」
神さまは、その手で顔を覆われます。
「しかし奴は諦めなかった。どうしたってあなたと一緒に生きるんだ、と言って聞かなかった。それで吾輩もとうとう、堪忍袋の尾を切らしてしまい、」
頭を膝の間に落とし、両手で抱え、
「子供が生意気を言うんじゃない、そんなことはせめて二十歳になってから言え、と言ってしまったのだ」
神さまは呻くようにおっしゃいました。
「すると奴は、そんなに言うならもういい、
おそるおそる、私はお聞きします。
「それで……それから、神さまはどうされたのですか」
「どうもせん。吾輩は本気で怒っておった。その時は、もうあんな阿呆のことなど知らんと思った。それゆえ走り去る奴を呼び止めもしなかった。しかし、」
乱暴に頭を掻きむしって、神さまは続けられました。
「日が経ち、気が落ち着くにつれ、あとからあとから後悔が湧いてきた。どうしてあんなことを言ってしまったのか。どうして最後くらい、笑って送り出してやれなかったのか。そうして後悔に溺れているうちにだんだんと、奴の言っていたことに縋るような気持ちになっていった」
神さまが嘲るように笑われると、花も葉もない梅の枝が、ぐらりと揺れました。
「神が人に救いを求めるなど、実に滑稽なことだ。だが吾輩は、奴が二十になって訪ねてくるのを、心待ちにするようになっていたのだ」
だが、と、糸が切れたように神さまは肩を落として続けました。
「だが、奴は来なかった」
「え—そのお方は、もう二十になっているのですか?」
「ああ、吾輩とて神だからな。信者の生まれた年と逝った年くらいは自ずから分かる。奴は辰年の一月十三日の生まれで、今もこの世におる」
神さまは片手を額に当ててうなだれます。黒い御髪が幕のようにお顔を覆います。
「そして昨年は亥年。すなわち奴は、ちょうど一年前に二十になった。そうと知っておったから、吾輩は昨年一月のあいだ毎日、こうして奴を待っておった」
私はそんな神さまを、じいっと見つめていました。
「だが奴が来ることはついぞなかった。吾輩は、我ながら未練がましいことを考えていた、奴は奴で今を生きているのだと思った。そして以来吾輩は社に籠り、梅が咲き、こぼれ、実をつけ、やがて葉を落とす様のみを眺めて、この
そしてふいと空を見上げられて、
「しかしまた一月が巡ってくると、どうにも我慢ができなくなり、気がつけば社を出てまたここに座っておった。奴が行った先は遠い。もう、来ることは決してあるまいに」
そうして神さまは語り終えました。
梅の枝のむこうに、空がただただ青く広がっております。
社の前の道を、振袖の一団が笑いさざめきながら歩み過ぎてゆきます。
私は黙って立ち上がると、社の前の小さな賽銭箱に小銭を放り、手を合わせました。そして、うなだれる神さまに声をかけます。
「本日は、お話しいただきありがとうございました」
「……うむ」
「心中、お察し申し上げます」
「……うむ」
「しかしどうか、神さまらしく、しゃんとしてくださいませ。そしてあと一日だけ、その方を待ってみられてはいかがでしょう」
私の言葉に、神さまはゆっくりと顔を上げます。
「……どういうことだ」
「いまこのお社に、今日が神さまにとってよい日になりますように、とお祈りしておきましたから。どうかまずご自身が背筋を伸ばして、よい一日を迎え入れてやってくださいませ」
思い切って言ってみると、神さまは噴き出してしまいました。
「馬鹿いえ、ここの社の主は吾輩だぞ。お主が吾輩に、吾輩の幸せを祈ってどうする。お主は大人しく、自分の幸せを祈っておけばよいものを」
「まあまあ、人に幸せを願われることも、たまにはあって良いのではないでしょうか」
言って、私は深々と一礼します。
「それでは、私は失礼いたします」
顔を上げてみると、神さまのお顔は、真昼の光に白く輝いておりました。
「ああ、達者でな」
社を立ち去った私は、帰り道を歩きます。
歩きながら、考えに沈みます。
あの神さまは、ご友人は自分のことをあまり話さなかった、とおっしゃいました。
生年についても「信者の生まれた年は自ずから分かる」などとおっしゃっていましたから、多分ご友人が直に話したことはなかったのでしょう。
それが何故なのかはわかりません。神さまのところにずっと遊びに来ていたことを考えると、なにか普段の暮らしに思うところがあったのかもしれませんが、それはもう、あの神さまにさえ知るすべはないのかもしれません。
考えつつ歩いているうちに、前方から見知らぬ方がやってきました。
スーツをぴしりと着たその方のお顔をよく見れば、目は利発そうに輝き、口はきっぱりと引き結ばれながらも、端のほうが少し笑っているように見えました。
そのまますれ違って、私は立ち止まります。
立ち止まって、また考えます。
−−しかし、だとすると、もしかすると。
きっとそのご友人は、自分の誕生日のことも、神さまに話さなかったのではないでしょうか。
そして、自分の誕生日になるとひとつ増える、年齢のことも。
神社などでは今でも、数え年で年齢を表します。生まれたときが一歳で、それから年を越すごとにひとつ、年齢に足していくのです。
辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、子、丑、寅、卯、ふたたび辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、そして子。
ふたつ前の辰年に生まれた人は、この子年には数えで二十一歳。
そして今日一月十三日に誕生日を迎えれば、いま満年齢で二十歳。
後ろの方で、神さまが声を挙げるのが聞こえました。
それはもう、私が聞いたことのないような、明るい声でありました。
… … …
茶話屋が語り終えると、物語店の見慣れた屋根がちょうど見えてきた。
「そんなわけでまあ、神さまの悲しいお話はもう終わりましたから、他言無用のお約束も少しくらい破っちゃってもいいかな、と思ったのです。でもあなたは、他人に話してはいけませんよ」
私は強くうなずく。決して他言はすまい、私は茶話屋とは違うのだ。
そんな私の思いをつゆ知らぬ彼女は、実に楽しそうに店の方へ歩んでゆく。
「そうそう、それで神さまに何かお祝いを差し上げようと思ったので、そのお酒を帰りに買ってきたんですよ。明日お参りして来ようと思います。今日これから行って水を差すのは、野暮ってものですからね」
そう言って彼女は店の戸を開け、私を差し招いて酒を受け取った。
「ここまで運んでくださり、ありがとうございました。実は、酒屋さんからついでに甘酒もいただいてきたのですが、あなたも呑んでゆきませんか?」
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