田舎暮らし、はじめました 1 【ファンタジー&まさかの恋愛!?】
特別に何か強い理由があったわけではない。
例えば私よりも三歳年下の若造が、ただ男だというだけで上司になったとか。しょっちゅう客ともめごとを起こす武闘派な店長が、更衣室のゴキブリに悲鳴を上げて私を呼びに来るとか。
そんなのは些細なことで、きっと理由じゃない。
ただ何となく急に思い立った。
「今月いっぱいで退職します」
「ちょ……
「急にじゃありません。ちゃんと一か月前ですから」
最低限の引継ぎだけすれば、あとは有給休暇を使える。
私の仕事を引き継いでくれた可愛い後輩は、ちょっと涙目になっていた。
ごめんね。仕事大変だと思うけど頑張って。
送別会は断った。店長と若造が陰で何と言っているかを知らないわけじゃない。
手続きもお別れも一か月たてば全部が終わる。振り込まれた最後の給料を確認すれば、会社との縁は完全に切れた。そして私は狭いアパートに別れを告げる。
手にキャリーバッグと一枚のチラシを持って。
――田舎暮らし、はじめませんか?――
チラシの一番上には、飛び跳ねるような元気な字でそう書かれていた。
【急募】パン屋の店員
住み込みでパンが作れる人を募集します。
仕事:生地作りから焼き上げるまで。
経験者優遇(趣味程度で大丈夫です)
給与はパンの売り上げによる歩合(最低賃金は保証)
家賃・電気・水道代は村で負担します。
山の中の世間から隔絶した集落ですが、月に一度は市内に行くバスがあります。
週休二日、初年度の有給は年に十日。
最低一年間は辞めずに働いてくれると嬉しいです!
最後に何だかとっても切実な要望がある。田舎だから求人に苦労するんだろうな。
月に一度しかバスがないので、今日は村の人が駅まで迎えに来てくれることになっていた。
駅で待っていると、目の前に停まった軽トラから同じ年くらいの男の子が弾むように降りてくる。同じ年で男の子って言うのもおかしいけど、その言葉がぴったりの可愛い雰囲気の人だ。そして私を見てにっこりと笑った。
「えーっとー、もしかして、
「あ、はい。星見村の方ですか?」
「ですです。わー、来てくれるのが可愛い方で、嬉しいなあ」
いやいや、きみの方がどう見ても私よりも可愛いですよ。柔らかそうな栗色の髪がくるくるっと巻いてて、童顔だけど背は結構高い。こっちをじっと見られて、恥ずかしくなってしまう。
「荷物はこれだけですかー?」
「あ、はい。残りはもう言われた方法で送ってて……」
「ですです。ちゃんと受け取ってますよー。あ、申し遅れました。僕、村役場に勤めています
「柊くん……」
本当にそんな呼び方で良いんだろうかと思いながら口の中で呟いたら、にかっと笑って手を挙げた。
「はーい。じゃあ藍ちゃん、星見村に出発しますよー。狭いけど、乗って乗って!」
柊くんの乗ってきた車は軽トラだった。キャリーバッグは荷台か。私は狭い助手席に乗り込んでシートベルトを締めた。
「あ、そうだ。これをつけてもらえますかー?」
「可愛い! ペンダント……を私に?」
「いや、えっと、藍ちゃんが可愛いから僕からのプレゼントって言いたいんですけどそうじゃなくってですね、いや、いつかプレゼントもしたいですけど、これはその、あの、」
しどろもどろになりながらの説明をまとめると、星見村は山奥で、すごく方言がきついらしい。大きな青い石のペンダントは村の外から来た人を見分けるためで、これを付けてる人にはゆっくり標準語でしゃべるようにしてるとか。
「いろいろと変わった村なんですよー。ちょっと遠いから、それまでに説明しますね!」
柊くんが言うには、村の人口はおよそ百人。人里離れた山の中というのに意外と大人数で驚いた。なるほど、だからパン屋の店員を雇っても成り立つのか。
パンを買いに来るのは村人だが、私の仕事は作ることで、売るのは柊くんがやってくれるらしい。つまりパン屋は村の直営。
貰えるのは最低賃金だろうけど、家賃と水光熱費がかからないのはいい。お金を使う場所もほぼなさそうだし。
「インターネットは繋がってるんですけど、宅配は村までは来てくれなくてですね。普通の通販はできませんが、欲しいものがあれば村役場でまとめて買いに行きますから。何でも僕に言ってくださいね、何でも!」
「あ、はい。じゃあお願いします」
「了解です、藍ちゃん。お願いされましたー」
何を言っても楽しそうな柊くんだが、さすがに男の子には頼めないものもある。月に一回バスが出るというので、そのときにまとめ買いすればいいだろう。
駅からしばらく走ると家もない山道に入り、だんだんすれ違う車も少なくなってきた。さらにそこから舗装されていない脇道に入り、その道もどんどん狭くなる。車一台通るのがやっとで、きっと前から来てもすれ違えない。
そんな山道を上ったり下ったりしながらしばらく走るとトンネルがあった。
「ここまで遠いでしょー。しかも道が分かりにくくて、普通の宅配屋さんだと辿り着けないんですよ。引っ越し屋さんも頼めるのは藍ちゃんが使ったあの会社だけなのですです」
「不便ですね」
「うーん。そうだけども、案外そうでもなくて! みんな楽しくやってますよー。藍ちゃんも気にいってくれるといいんだけどなー」
トンネルは狭くて暗くて少し怖い。
けれど出口の光の洪水を通り抜けると、その先の景色に圧倒される。
色とりどりの綺麗な花が咲き乱れ、その真ん中をまっすぐ、石畳の道が通っている。遠くに小さく見える家々はどことなく洋風で、カラフルな屋根が可愛い。まるでおとぎ話の世界に紛れ込んだみたい。
「きれい……」
「ですです。僕もここから見る星見村が大好きなんです」
村の入り口の一番端に立っているのが村役場らしい。他の家よりはずいぶん大きくて立派だけれど、役場というより普通の家に見える。
軽トラはその駐車場に入れた。そこから先に、車は入れないのだという。
村役場に入ると一階のリビングのような部屋で転居と仕事の契約の書類を書いた。体格のいい「お母さん」って呼びたくなるような女の人が、にこにこしながら書き込むところを教えてくれる。
「こんな田舎に、よく来てくれたねえ」
「いえ、あの、すごく素敵な村だと思います」
「こりゃあ嬉しいね。分かんないことがあったら何でも聞いておくれ」
「はい。あの……パンはいつから作れば?」
「さすがに引っ越しの荷物を片付けないといけないだろうから、それが済んで出来るだけ早くってことでいいかい?」
「もちろんです。あの、材料とかは」
「それはこちらで準備してるよ。前任者の残したレシピもあるからね。じゃあ家まで案内しよう」
村の中の道は石畳で、車が一台通れるくらいの広さはあった。通りに面して二十軒くらいの家が建っていて、近くで見るとますます素敵だ。
どの家も本当に可愛い!
ちょうど真ん中に赤い屋根の家があって、そこが私が住むパン屋だった。
「向かいの家が八百屋で、その隣が肉屋だよ。魚は時々行商人が売りに来るくらいで滅多に食べられないけどすまないねえ」
「あ、いえ、大丈夫です」
「そうかい?向こうの人間はみんな生魚が好きだって聞いてたんだけど」
「生魚……刺身ですか?」
「そうそう。ははは。ここには刺身はないけど、ああ、そうだ。どうしても魚が食べたかったら柊に言いな。川でとってくるから」
お母さんは、どうやら柊くんのお母さんらしい。
その他に両隣に鍛冶屋と薬屋があって、そのほかの必要なものは村役場で手配すればいい。
何とも牧歌的でとても日本国内にあるとは思えない。
けど、ここが今日から私の家になるんだ。
嘘みたい。
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