<世字熟語>

うまいどり。

頬に落ちた空の雫がどこか涙に見えることが。

「わかった。葉月はもうそっちにいるんだね。

 うん、今から行くよ。あぁ、いいよいいよ。タクシーか何か使うから。

 そうだね。大丈夫。分かった。じゃあまた後で」


母からの電話は少し長く感じた。

いつもなら通話代がもったいないだなんて言ってすぐ切ってくるくせに、こういう時はやっぱり不安になってしまうものなのだろうか。

殊乃ことのつかさに親心はまだ分からない。だが、今だけはその長電話が安心を与えてくれるようだった。


一人暮らしを初めてから一度も満足に洗ったことの無い布団から重い体を起こした司は、窓枠の外にある現実へと視線を向けた。

170と少しの展望に映ったのは重い雨が降る夕暮れ。

ざぁざぁと降りしきる雨は昨日確認した天気予報とは裏腹なもので、まるで司の心象を表しているかのようだ。

ここ、灰立はいだち市に越して来たのはつい最近のことであった。

それからというもの、やけに雨が多いように感じていた。おかげで洗濯物を干すのにも一苦労である。

・・・式が始まるまでまだ時間はあった。しかし、のんびりできるほどじゃない。

そう思い立ち上がると、ヘヴィ級の目眩が司の頭をエルボーで殴りつけた。


「う、ん」


頭の中がぐらりとするようで、思わず声が漏れてしまう。ボロいアパートの室内が視界の端から黒く染まっていく。

部屋の白壁にもたれかかることで何とか転倒は避けられたが、気分の悪さはどうしても拭えない。


「やっぱり、寝すぎるのは良くないな。」


最早寂しさで慣れっこになった独り言を呟きながら、司は洗面所へよたよたと体を向かわせていく。


「ふう。げ、こりゃひどい。数日でここまで・・・」


入居当時から備え付けられている汚れた鏡。そこに反射するのは手入れが施されていないおよそ世間様には見せられない顔だった。その顔が、まじまじと司を見つめ返す。

伸び放題の眉や髭も、もう少し伸ばせばファッションとして通用していたかもしれない。そんなことを思いながら、司は電動髭剃りで雑草を刈り始めた。

この時ばかりは短く切り揃えた黒髪がありがたい。美容室に行くのはどうも億劫だった。

ちくちくした感覚がして、どこかこそばゆい。日々の成長というのは煩わしいものだ。と、司は感じる。

髭を刈り終わってしまえば、あとは流れ作業。歯を磨き、顔を濡らし、タオルで水分を拭き取った。


「よし」


次は服だと意気込んで、司は押入れに向かう。途中、喉が渇いていたので冷蔵庫を開いてみたが、まるで空き巣に入られたかのように空っぽだった。

しかたなく自動販売機で買うことを念頭に入れ、司は冷蔵庫のドアを閉める。

押し入れから取り出した喪服に身を包み、高校で使っていたローファーを履いて外に出る。持ち物はスマホと財布だけ。

それと安物の黒い傘を一本。傘置き場にはビニール傘もいくつかあったが、黒の方が良い気がした。なんとなくだが、そういったイメージがあった。

建て付けの悪くなったドアをゆっくりと開閉し、司は外に出た。目的地は同じ灰立市内。とりあえず駅前に出ようと考えて、戸締りをする。

安い家賃で住む牢屋にも似たアパート。その階段に足音が寂しく響く。・・・予報外れの雨はまだ続きそうだ。






雨が降る中でのタクシー。司はそれがどうも好きだった。

窓で雨粒が踊るたび、不思議と心が落ち着くような気がするからだ。

車内から見る景色が蜃気楼しんきろうのようにぼやけるのも雨の日だけの特権。

見慣れた街は歪み、どこか現実感を失わせていく。

夢見心地な司を現実へと引き戻したのは、強めのブレーキと運転手の間延びした声だった。


「お客さん。着きましたよ」

「ありがとう」


料金支払いを手短に済ませ、司はタクシーを後にする。

傘を開いた司の目前に映るのは、喪服に身を包んだ関係者達と「殊乃ことのみこと葬儀式場」と書かれた立て看板だけだ。

ミコトというのは司の兄。司は、実の兄を弔いに来たのだ。

ここまで足を運び、看板が視界に入ると否が応でも"それ"を意識してしまう。


「兄貴・・・。」


司は誰にも聞こえないようこぼしながら受付に向かった。

その時、水を弾く小さな足音とともに凛とした声が司を呼びつける。


司兄つかさにい! ・・・遅かったね」


突然の来訪に少し驚いたが、相手が似合わない喪服を着た自分の妹だ。と理解した司は安心した様子で会話を進める。


「なんだ葉月はづきか。母さんは?」

「なにそれ? 久しぶりに会ったっていうのに、そんな言い方しちゃう?」


妹の葉月と会うのはかなり久しぶりだった。

だというのに、妹の様子はおかしいほど変わっていない。

だがそれこそが、司に"なつかしさ"という安心を与えてくれるようだった。

どこか人を小馬鹿にしたような冗談の言い方も、今はありがたい。

すらりと伸びた黒い髪、それを抑えるようにつけられた髪留め。

身長は・・・、伸びてない。あれだけ「いつか絶対司兄の身長をぬかすんだから」と息巻いていたが、結局それは叶わなかったらしい。

葉月も自分と同じく、長男であるミコトのことが大好きだった。・・・もちろん家族として。


「・・・ママは中に居るよ。呼んであげよっか?」

「いや、いいよ。LINEで済ませるから」


母ともだいぶ会っていなかった。別に会おうと思えば会えたが、あまりそういう気にならなかった。

やはり、久しぶりに面と向かうのは緊張するので会いたくないというのが本音だ。


「そ。まぁもうすぐ始まるし、あたしは中に入っとくよ。司兄は?」

「俺はもう少しここにいるよ」


まだ、中には入りたくない。司はそう感じた。

特に理由は見つからなかったが、胸を締め付ける妙な感覚のせいにしておいた。


「いつまでも外にいると風邪ひくから早めに入ってね?」

「わかってる」


司が俯いて会話を終えると、葉月は”ママ”のいる会場内へと歩いていった。

こないだ中学生になったばかりの彼女に今回の訃報はさぞ辛いものだろう。

そう考えていた司だったが、普通にしている妹を見て自分の方が引きずっているのかもしれないと思うと、何だか寂しかった。


ミコトは真面目で明るい人間だった。いつもグループの中心にいて、実の弟である司も兄が嫌われているところを見たことが無いというほどだった。

ミコトが中学生の時は、近所の奥様方、及び学校の女子でファンクラブが結成されていたし、身内だというのに司がブロマイドを買わされたこともある。

マラソンを走ればアンカー。成績は常にナンバーワン。・・・モデルの誘いが来たこともある。

勉強も運動も、当然人気も司は命に負けていた。ただ不思議と、司がそのことを妬ましく思うことは無かった。

それはきっとミコトの存在が司にとって心の支えになっていたからであろう。


だからこそ、ミコトの死は司の心を折るには充分すぎるものだった。

ミコトが死んだのは郊外。その頃、ミコトは就職か何だかで別の町で一人暮らしをしており、時々生活費が振り込まれる以外家族との接点は無かった。


「一人暮らしでお金も無いのに送金してくれるなんて・・・。無理してないといいけど」

と、司の母はしきりに言っていた。それを聞いていた司も、兄のことを心配していた。


そんな時、病院と警察からの連絡で司達は訃報ふほうを聞くこととなった。

死因は不明。ためらい傷がないことや、状況証拠から他殺ではあったらしいが、どうにも損傷が激しかったようで。かけつけた家族に許されたのは骨壷の形での再会だけ。

そんな兄の惨状に母は泣き崩れ、妹は喚き、弟である司は放心した。死んだ父も天国で悲しんでいたことだろう。


「兄貴が俺に悩みを打ち明けてくれたことなんてただの一度もなかった」


そんな事をぼそりと呟いて、司は雨と人とを避けて入り口へと進んでいく。

その時。司の後方から声がした。


「なぁ、そこの君」


その声に思い当たる節は無かった。

司はゆっくりと声がした方に首だけで振り返る。

それは、黒い人影だった。曇っていたことと影のせいか全てが黒に見えるのかと思ったが、

よく目を凝らして見れば、人影の身につける服や靴などが全て黒いのだと分かった。

葬式ということで喪服なのかとも思ったが、そうではない。

黒いパーカーに黒のパンツ。会場には似つかわしくないシルバーのネックレスとピアス。

そして、手入れもろくにされていない白い髪。煙を伸ばす咥えタバコ。

20代後半から30代前半の知らない人物が、靴を泥と雨に濡らして司をじっと見据えていた。


怪しい人影に司はたじろぎ、考えをめぐらせる。

兄の関係者か? それとも友人? なんて挨拶をしようか? 司が迷っていると、その人影はゆっくりと近づいてくる。


「殊乃司だな?」


黒い衣装の人影、黒衣こくいは呟くように小さく聞いた。

自分の名前を知られていることに少し驚いた司だったが、兄が自分のことを話していると考えれば合点がいった。

そもそも、これは兄の葬式なのだ。それに、家を出てからの兄の友好関係については一切知らない。兄の知り合いだと考えるのが妥当だろう。


司は黒衣に向き直り、会釈と共に言葉を返した。


「はい。そうですが、何か」


「すまないが付き合ってくれないか。少し、お前の兄の事で話がしたい」

「兄貴の、ですか」


司はこくりと頷き、了解の意思を示す。

願っても無いことだ。兄とはいえ、実家を出てからのことは何一つ知らない。

連絡を取り合っていたわけでもなかったし、たまに来る電話や手紙も不定期かつ不明瞭なもの。

兄がどういう友好関係を築き、どういう生活をしていたのか。

司には、それがどうも気になっていた。


「わかりました。ここじゃダメな話ですか?」

「ああ。少し離れよう。ここは人が多い」


そういって黒衣が連れ込んだのは、会場の裏手にある寂れた喫煙所だった。

閑散とした雰囲気と吸殻の少なさから、あまり人が来ない場所だとすぐにわかる。

喫煙所へと入った黒衣は傘を降ろすと、バサバサと片手で動かして雨粒を念入りに払った。

続くような形で、司も喫煙所へと入る。同じように傘を振るい、水滴を掃う。

黒衣は吸っていたタバコを錆びた箱の中にゆっくりと押し込み、淡々とした口調で語り出した。


「じゃあ話そうか」

「はい」







「え?」


司にはその言葉の意味がよく理解できなかった。まるで掴みどころの無いその言葉は、こうも続けられた。


「その上でお前に話がある。兄と、お前のこれからに関することだ」


空気が一気に重くなるような感じがした。・・・当然そんなことはないのだが、司にはそう感じられた。

まるで心臓病を患ったかのように動悸がする。息が荒くなる。殺した? 兄をこいつが?


「ち、ちょっと待てよ。あんた今なんて」


「聞こえるように言ったはずだが。私がお前の兄を殺したんだ。本当にすまないと思っている」

「お、お前ッ!」


突き出された司の両手が黒衣の襟を捕らえる。身長差は黒衣の方が少し上ではあったので、壁に押し付けるような形だ。


「・・・」


黒衣は動揺していなかった。こうなることを見越していたのか、はたまた驚きすぎて反応すらできないのか。


「お前が、俺の兄を殺したかどうかなんて知らない、ただ・・・」


司は喚く鼓動と同時に声を出す。


「葬式の真っ只中・・・、喪中の親族に向かって好き勝手ふざけたことぬかしてんじゃねェッ!」


司は掴んだ黒衣の襟を両手で引っ張り、自動販売機に叩きつけた。

内容物の飲料水がガラガラと音を立てて揺れ動く。それは兄の死というタブーに触れられた司が振り絞る、必死の抵抗にも見えた。


しかし、それでも黒衣に目立ったダメージは見受けられない。息も切らさず、焦りもせず、じっと司を見ている。


「なんだよ! その目は・・・っ!」


「すまない」


黒衣がそっと呟いた一言は、司をますます激昂させるのに充分なものだった。

司は怒りに任せて右拳を握り締め、黒衣を睨む。

その目には一粒の涙が浮かんでいた。


「あぁそうかい! あんたは俺のサンドバッグになってくれるんだな!?」


司はもう自分でも感情を抑えきれそうになかった。自分で何を言っているのかもわからずに、ただ口から脊髄反射で物事を話す機械と化していた。


「申し訳ないが、私はお前に殴られようとここに来たわけじゃない。話をしに来たんだ」


そしてそれに反するように、黒衣はなんとも冷静だった。

その対応、返答、態度が最後の一線を踏み越えるに足るものだったことに黒衣は気づいていたのか。司の中にある何かがプツンと切れる。


「話す!? 話すことなんか何もない! 帰れッ!」


司の拳が黒衣に向かって打ち付けられる。弧を描くようにして振られたそれは、すんでのところで黒衣に阻まれていた。


「・・・!」


突き出された右拳が、黒衣の左手で握りこまれていたのだ。

黒衣の力は想像以上に強いものだった。おおよそ成人男性を越えたその力に、司は抵抗が無意味なものであると痛感させられる。


「あぅ、ぐ・・・っ!」


筋力・体格に大きな違いは見られない。

しかし、その力は圧倒的に司よりも高度なレベルだった。

悔しさで声が漏れる。殴ることさえできず、ふざけた態度を示すこいつに報復することもできない。

いっそこうなったら頭突きでも。そう司が考えていたときだった。


「これ以上は無駄か」


ふと、黒衣が掴んでいた司の手を放した。司は好機と悟りもう一度拳を振り上げようとしたが、今回は殴ろうとすることさえ許されなかった。


「すまないな」


一瞬だった。黒衣がしゃがんだと同時に司の視界は回転していた。

黒衣の右足から繰り出される足払いは的確に司を宙に浮かせ、派手に転ばせていた。

柔術か、合気道か。はたまた司の知らない他の武道によるものか。

司は己の無力さを痛感する。


「痛ッ・・・」


司が顔を上げると、黒衣が蔑むように見下ろしていた。息を切らしている様子はなく、攻撃したことにうろたえている様子もない。

降り続く雨音の中、泥で汚れた司を見つめて黒衣は告げた。


「また来る。その時に話そう」


黒衣は傘を開き、踵を返して喫煙所から立ち去ろうとする。

すかさず司は体を起こして立ち上がった。節々から痛みを感じたが、見下ろされているのは気に食わない。


「二度と来るんじゃねぇ・・・次来やがったらぶっ殺してやる。殺人者め」


司は、およそ司らしくもない言葉遣いで去り行く黒衣を罵った。

それは暴力では勝てない時に人間が行う最後の抵抗。まさしく負け犬の遠吠えに似たものであった。


「本当に」


黒衣が足を止め、振り向いてぼそりと呟く。



「本当に殺せると思っているのか?」



「ひ、ッ」


司を睨みつけ、そう言い放った黒衣の表情は、冷たかった。まるで厚い仮面でもつけているように。

その言葉は司が生きていた中で、一番の恐怖だった。


幼い頃、動物園で初めてライオンを見た時よりも

いじめられていた妹を助けてぼこぼこにされた時よりも

ボールを追いかけてトラックに轢かれかけた時よりも

間近に死を感じる。そんな暗闇の恐怖だった。

司は、もう何も言えなかった。追いかける気にもならなかった。


怒りがおさまったわけではなかったが、”どうにもならない”ものだった。

赤子が大人に勝てないように、必然だった。


司は濁った眼で黒衣を見送った。司が動き始めたのは、黒衣の姿が暗い雨の中に溶け込んで、完全に見えなくなってからだった。


雨の中、会場に戻ると、焦った嬌声が司を呼び止めた。


「司兄! どうしたのその恰好!? なんかあったの!?」


葉月だった。落ち着いてまじまじと自分の姿を見る。

喪服はいたるところが泥で濡れ、頬には擦り傷。黒い髪にも所々に砂が付いていた。

・・・言われてもおかしくない格好だということに気づく。


「転んだ」


とっさに嘘をついた。なんとなく、黒衣の話はしたくなかった。

それは恐怖によるものだったかと言われれば確かにそうなのだが、葉月を悲しませたくなかったという感情の方が本意に近しいものだった。


「大丈夫なの?」


葉月が司の顔を覗き込む。

司は笑顔を作って、言い訳を重ねる。


「大丈夫。俺はいつもどおりだよ。ちょっと、兄貴がいなくなったことが信じられなくてさ。泣いてたんだ」

「司兄・・・。」


無理に作った笑顔にすぐに気づいた葉月は、もう何も言わなかった。


「心配かけてごめん、葉月。行こう」


そう言って司は妹の葉月とともに会場内へと足を進めた。

雨模様は勢いを増し、水溜りに落ちていく雫の一滴一滴がうるさく音を奏でている。

あぁ、もう何もかも消えてしまえばいいのに。と、司は蚊でも鳴くような声量で呟く。

流動するように蠢く世界は、まだ司を許してはくれない。




黒衣との邂逅の後、何事もなかったかのように式は進行し、その後は恙無つつがなく済まされた。

泥だらけだった喪服は会場側の意向と好意により、喪服の無償レンタルをしてもらうという形に落ち着いた。

式が終わった夜、自分の家へと戻り、軽食を済ませて寝た。


こんな時、一人住まいじゃなければ少しは豪勢な飯が出てくる可能性もあったろう。と司はまどろみの中で考えていたが、そういうわけにもいかない。

まず、実家だと今通っている高校には遠い。勉強をするにも、実家は何かと都合が悪かった。

高校の寮に住むという選択肢もあったが、人付き合いは兄と比べられるので苦手ということもあり、アパート暮らしを選んだのだ。

それと、兄に言われて指標となっていた言葉。


“自分が出来ることを最大限、合った舞台で魅せることが人生”


その舞台を探すに際し、実家では見つからないような気がしていた。

愚直と言われればそこまでなのだが、兄の残した言葉に殉じることこそが生きる意味だと司は信仰していた。

壁も薄いので何かと不自由だったが、家で騒がしいことをするような性質でもなかったので怒られたことはない。

そんな中、いつもどおり昼過ぎに起きてテレビを小音量で流している時だった。

ふと、鈍いチャイムが鳴った。ボロアパートのため、気を利かせたような音は出ない。ただうるさいだけの連続音。

久しぶりに聞いた呼び出し音に少し不信感を抱きつつも玄関に向かい、チェーンをかけて扉を開いた。


「お前は」


そこには、昨日の黒衣が立っていた。

一晩たっていたので慟哭どうこくを起こさせるほどの怒りは沸いてこなかったが、それでもおぞましい嫌悪感が勝つ。


「んだよ。兄貴と同じように、俺のことも殺しに来たってか?」


「話をしに来た。開けてくれ」


「嫌だね。帰ってくれ。それとも殺されたいのか」


ハッタリだった。・・・が、司の殺気、怒りは本物だった。

それに気圧されたのか、それとも無理だと悟ったのか、黒衣はやけにあっさりと踵を返す。


「仕方ない。お前に話す気が無いというのなら待とう。しばらくはな。また来る」

「どこの誰かも知らないヤツとは話さない。兄貴がよく言っていた。」


司の目にはまた涙がじんわりと浮かんでいた。兄のことを考えると、こいつを殴れないのが悔しくてたまらなかったのだ。


「確かにそうだな。なら私の現住所を渡しておこう。少しここからは離れているが、話す気になったら来てくれ。」


「いらねえ」


司はぶっきらぼうにそう言って、扉を音が鳴るよう強めに閉める。それを黒衣は聞いていたのか。聞いていなかったのか。

はたまた、無視したのか。郵便受けから軽い音が聞こえた。


「またな」


扉一枚挟んだ声を司は無視した。司には、返事をする気力も失せていた。

司はその足で布団へと向かい、倒れこむようにして寝た。

夕暮れの子供達は今日も元気いっぱいだ。それが無性に苛立いらだちを助長じょちょうさせる。

雨戸を閉め、部屋を暗くする。


「頼むからもうほっといてくれよ」


そう呟いて司は眠りについた。深い、深い、二度と覚めぬ夢を期待しながら。




次に起きたのは、夕暮れ時だった。

降り続いていた雨はもうとっくに止んでいたが、拭えない湿気がまだそこにべったりと染み付いていた。

ふと、司が携帯を見ると、通知で画面がいっぱいになっていた。

何故だろう。アプリケーションの通知は鬱陶しいので基本切っているし、今日はバイトを入れていないハズ。

学校は今日も休みをもらっていたはずだ。

・・・そんな考えを消し去るように、着信音がけたたましく鳴り響いた。


「はいはい」


画面を操作し、電話を開く。母からだった。

恒例行事でもある「もしもし」の一言を発するよりも前に母の声が届く。


「葉月がいなくなっちゃった・・・!」


その声は悲痛と、不安と、焦燥で満ちていた。


「は? どこか行ってるんだよきっと。心配しすぎなんじゃないの?」

「違うの! 昨日の夜からいないのよ! 深夜、コンビニに行ってくるって言ったっきり帰ってきてないの!」

「深夜!? 連絡は!?」

「あったら連絡してないわよ! あんたの所来てないの!?」


そこから先はよく覚えていない。司には、母の声もよく聞こえていなかった。

電車が通過する音と踏切のサイレンだけが遠く響いていた。

まるで、カウントダウンを刻むかのように。

通話終了のボタンを押すと同時に、司は歯を噛み締める。


「あの野郎ッ!」


急いで郵便受けを覗く。

そこに入っていた型紙には、居住区と思わしき住所が殴り書きされていた。


「葉月・・・」


殺そう。生かしてはおけない。捕まるだとかそんなことはもうどうでもいい。

司は、生まれて初めて『人を殺す』という覚悟を決めた。


「待ってろよ」


殺意に押し出されたような形で司は外に飛び出した。

チカチカと点滅する薄汚れた蛍光灯が、不安そうに司を重く照らしていた。

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