学祭:パステルサンセット②

 日に日に大学は色づいていた。時折、気紛れのように学内カメラの記録を見るにつけ、実際に窓から外界を見下ろすにつけ、その変貌は明らかだった。この一、二週間で無骨な建物はきらびやかに、殺風景な通りや広場は華々しく飾られている。それらはまさしく、全学生の胸の内に蓄えられた、きたる学祭への期待そのものだろう。

 これは僕も、本番に備えて直に野外を回る装備を検討すべきかもしれない。河村に足回りの改良を進言しておこう。だってお祭りは是非、自分の足で楽しみたいもの。

 しかしそんな外の世界とは対照的に、我が研究室は今日も通常運転だ。まあ、平日なのだからそれも当然。実験室では、沢と白坂が頻りにやりとりを交わしていた。

「せっかく別々のグループになったのに、結局一緒に実験するんだよなぁ」

「文句言わないで。私だって同じ気持ちよ」

 ついこの間のこと。二人はこの研究室の各グループに正式に所属することとなった。沢は梅田の、白坂は伏屋のグループに。しかし、所詮は研究室の中の話。別のグループといっても、一緒に実験をするのは珍しくもなんともない。特に二人は、両グループの橋架けのようなテーマを持っているため、どうしてもともに動くことが多いのだ。

 そんな二人は相変わらず、一緒に実験をすることに好意的ではないようだった。

「俺、どうせ一緒に実験するなら、別の人がいいんだけどなぁ」

「よく梅田先生とやってるじゃない」

「お前な、あれはあれで大変なんだぞ。一緒にやるなら、断然、橋原先輩みたいな人だろ」

「お前じゃないって言ってるじゃない。それに、橋原先輩は私たち伏屋グループの方でしょ。私とあなたみたいにテーマが近いわけでもない。一緒に実験する機会なんてないと思うけど」

「そんなのわかんないだろ。あるとき、実験中の橋原先輩のところに颯爽と俺が現れて、お手伝いして差し上げるっていう」

「妄言を吐いてる暇があったら手を動かして」

 身振り手振りを交えて語る沢に向かって、白坂はぴしゃりと冷静に言い放った。その間も、白坂の手は淀みなく作業をこなしている。

 いい感じの妄想に水を差された沢は、密かに「ちっ」と舌打ちを漏らしながら実験台に戻る。

「つってもさ。こっちのグループで選んだら残りは河村先輩だろ。あの人、昼間いないじゃん?」

「あなたが誘えば、そのときくらいは昼に出てくるんじゃないの。仲、良いんでしょう」

「え、俺と河村先輩って仲良いのか? 普通じゃね?」

「……知らないわよ」

 河村は基本的に、理論や計算の側面から研究をしている。どちらかと言えばそういった理由から、彼が誰かとともに実験をする機会は少ないかもしれない。

 ちなみに二人からの言及がなかった樋尾については、梅田グループでも伏屋グループでもなく、蓮川教授の直属となっている。無論、蓮川はほとんど不在なので、彼は完全に一人で動く。

 それからしばらく二人は言葉を交わさず、黙々と工具やネジの鳴る金属音だけを響かせた。その様子を見ながら僕は実験室の中を動き回り、時折二人の足を小突くなどしてちょっかいをかける。すると白坂は「しょうがないわね」とでも言うように少しだけ微笑み、沢の目を盗んで僕の上にいくつかのネジを並べて相手をしてくれた。一方、沢は足先を器用に上下させ、僕の動きに合わせてリズムを刻んだ。

 ややあって、二人の作業台から離れたところにある扉が開く。現れたのは伏屋だった。

 それとほぼ同時、白坂が沢に向かって言った。

「ねぇちょっと。あなたもしかして、この分光器の構成、弄ったりした?」

 白坂が、手に持った精密ドライバーの先で、機器の一部を指し示す。

 沢は横から首を伸ばしてその部位に視線を落とすと、なんでもないことのように答えた。

「ああ、そういや昨日、ちょっと中身変えたかも」

「何、勝手なことしてるのよ……」

 聞いて、白坂は額に手を当てうなだれる。

 分光器とは、光をその性質――周波数や偏光方向などによって分けて計測する機器だ。薄膜フィルタやミラーなど精密部品が使われるため構造的に繊細で、外的要因に対して敏感でもある。確かに、素人が考えなしに弄れるようなものではない。

「この部分は先週、実験を始める段階で伏屋先生に調整してもらったじゃない。私たちが触っていいところじゃないのよ。壊れちゃったらどうするの」

「ちゃんと説明書見ながらやったさ。それに、梅田先生がいつも言ってるぜ。『研究は冒険だ!』って。思い付いたことがあったらやってみたいじゃん。楽しそうだし」

「あなたの冒険に私を巻き込まないでよ……。だいいち、こんなの意味のないリスクじゃない。なんでわざわざ、変える必要のないところを変えたのよ」

 白坂が溜息混じりに尋ねる。すると沢は白坂の手からドライバーをひょいと取り上げ、さきほどと同じように先端で機器を指して説明した。

「だってさ。前はここ、機器に光が入ってからディテクタまで、かなり複雑なルートを通っていたんだ。でも、もっと簡単でいいと思って。その方が場所もとらないし、処理も早い」

「そ、そうかもしれないけど……だからってあなた、無断で弄ることに抵抗はないわけ? この機器、一応こっちのグループの管轄なんだけど」

「別に悪戯してるわけじゃなし、効率化してるんだからいいだろ。れっきとした改良だって」

「うん、効率化はいいことですね」

「うわっ!?」

 実は、沢と白坂が機器を覗き込んでいる間、扉から入ってきた伏屋が様子を伺おうと近くに来ていた。二人が話している内容についても、途中から耳に入っていただろう。傍で待機していた僕は伏屋の接近をちゃんとわかっていた。しかし二人は、気づいていなかったようだ。

「ふ、伏屋先生!」

「なんだ居たんすか! 居たなら居たって言ってくださいよ!」

「あはは……結構普通に近づいたんですが……あれ、僕ってそんなに影、薄いですか?」

 白坂と沢が二人揃って抗議すると、伏屋は苦笑いで自虐を吐いた。けれど伏屋はすぐに気を取り直し、二人の間に立つ。そうして件の機器を一通り眺めると、今度は優しい笑みを見せた。

「なるほど。これを沢くんが?」

 向けられた視線に、沢はたじろぎながら答える。

「えっと……まあ、はい」

「そうですか。確かにこれは効率化ですね。素晴らしい改良です」

 しかし沢は、伏屋の言葉をやや遅れて理解したのか、徐々に笑顔になって声を張った。

「マジっすか! やっぱ!? そうですよね! ここ、なんでか知らないけど、すごくぐるぐるしたルートになってて」

「そうですね。こういう光の通る道筋のことを、光路(こうろ)と呼びます。今回の実験においては、回り道をするより、沢くんの組み立てた光路の方がシンプルでいいですね」

「やっり! あれ……でもじゃあ、なんで元はあんな……えっと、光路? になってたんすか? 先生は、知っててあのままにしたんですよね?」

「まあ、この分光器は割と汎用型でして、今後の実験に使う場合を考えて、調整できる部分を残しておいただけです。繰り返しますが、この実験では必要ない部分。よく気がつきましたね」

 伏屋の称賛に、沢は随分と気を良くしたようだった。さきほどよりも明らかに張り切って、沢が実験台に向かい直る。こうして見ていると、伏屋は誉めて伸ばすのがとても上手だ。

「ですが、沢くん。白坂さんの言っていたことも、とても大事なことで、これから装置を変えるときは、教員の誰かに必ず一声かけるようにしましょうね」

「はーい」

 沢の返事は、本当にわかっているのか疑問ではあったが、元気だけはとにかくいい。

 その後も伏屋は二人の実験に立ち会い、細かな部分も含めて和やかに指導をした。お調子者の沢は始終テンションが高いまま、騒がしいことこの上なかった。もちろん、その相手をしたのは全て伏屋だ。結局、実験が一段落し「俺、用事あるんで一旦抜けまーす」と言って消えるまで、ほとんど途切れることなく喋っていたように思う。

 しかしその一方で、白坂はまったくの逆だった。伏屋が来てから、彼女はずっと不機嫌そうな顔をしているばかりで、作業はするものの一切口を開かなかったのだ。原因は、伏屋にあるわけではない。ほぼ間違いなく沢の方だろう。なぜなら彼が実験室を去るときも、白坂はその背中を、目の端で睨んでいたくらいだから。

 まあそれでも、沢はまったく気にしない。この二人は相変わらず……沢が喋れば白坂は黙る。白坂が見れば沢は無視。二人の周波数は、まるっきり合っていないように思えた。



 実験室は、うってかわって静かになった。まあ沢がいなくなったのだからそれも頷ける。再び訪れた小さな金属音だけの空間は、僕の移動に伴うモーター音をいつもよりも大きく感じさせる。僕は二人の邪魔にならないよう、部屋の隅で待機モードに移行した。

「白坂さん」

 作業中、伏屋がふと、口を開く。

「はい」

 すぐに白坂は、手元に落とした視線を上げる。

「その光路を開放するには、先にこっちを閉じてからの方がいいですね」

「え……」

 白坂は伏屋の指が指し示す部位を見、次いで再び、自分の手元を確かめる。

「あ……そうですね」

 伏屋のアドバイスの意図に気づいたようだ。素早く指示通りに機器を操作する。その白く細い指先は、ぎこちないながらもとても丁寧に動いた。

 隣で伏屋が小さく頷くのがわかる。

 けれど同時に、僕のカメラは白坂の表情もとらえていた。白坂は、一見してそうとわからないほど、わずかだけ眉を下げ、伏屋に指摘された部位を今も見つめている。あれはきっと『なんで言われる前に自分で気づけなかったんだろう』と考えている顔だ。しばらく白坂がそうしていると、再び伏屋から声がかかった。

「白坂さん」

「は、はい」

 白坂はまた、ピンと背を張って振り返る。

「ここでの研究は楽しいですか?」

「え?」

 けれども伏屋の次なる問いかけは、白坂にはとても意外なものだったらしい。一瞬、きょとんとして、何を答えたらよいのかわからないという顔になった。

 それでも白坂なりに考えを巡らせたのか、沈黙からややあって、ゆっくりと口を開いた。

「えっと……楽しいかどうかは、まだわかりません。でも、自分でやるって決めたことだし、頑張りたいとは思っています」

「白坂さんは努力家ですね」

 伏屋が微笑む。しかし白坂はやんわりと首を横に振った。

「そんなことないです。私、まだ全然知識ないし……実験も、あまり上手じゃなくて」

「それは当たり前のことですよ。今年入ったばかりなんですからね。それに実験に関して言えば、白坂さんは十分上手な方です。もちろんまだ、『新人にしては』と付けざるを得ませんが」

「でも今も、手順を一つ忘れて……」

「慣れればミスは減っていきます。一人の人間が、常に全てを見通すことはできません。今のようにフォローし合えばよいのです。ですから、研究をする上で自分と違う視点を持っている仲間というのは、とても大事なものなんですよ」

 そこまで聞くと、白坂は伏屋を覗き込むように、俯いていた顔を起こす。

「あいつと……沢叶夜と、仲良くしろって意味ですか?」

「ああ、そう聞こえてしまいましたか。もちろん、そういう意図も、ないではないですが」

 伏屋は申し訳なさそうに頭をかく。そしてわずかに皺の刻まれ始めた目元を綻ばせて言った。

「ただ純粋に、人と一緒に実験するのは、楽しいですねって意味ですよ」

「楽しい……ですか」

「そうです。沢くんじゃないですが、やっぱり研究は、楽しくないとね」

 この壮年の穏やかな研究者が、まるで少年のような笑顔で沢と似たようなことを言ったのは、確かに僕としても意外だった。だから白坂としても、少なからず驚きを感じたことだろう。けれど伏屋が言うと、それも正しい気がするから不思議だ。

 ちょうどそのときだ。静かになった実験室に、壁の向こうから大きな声が響いてきた。

「だからグラフのデザインがダセェんだよ! やり直しだ!」

 聞き違えすら疑わないほどの大きな声。105号室から廊下を抜けてここまで届くそれは梅田のものだ。となれば、次に返るのは、だいたい想像がつく。

「はぁ!? グラフがダサいから報告書再提出って意味不明なんだけど!?」

 沢の驚きと怒りの混ざった表情が、目に浮かぶような抗議だった。

「研究は芸術だ! 報告資料は愛をもって作れ! 大事なのは何より愛だ!」

「ふざけんな! そんなわけわからん理由で俺の努力を無下にするのか!」

「実際に報告内容がわからんのだから仕方ないだろう!」

「わかるわ! ちゃんと見ればわかるわ! 二秒でわからんって言うんじゃねぇよ! あとその性格で愛はマジきつい!」

「んだと! おいちょっとツラ貸せ貴様!」

 罵倒の応酬に乗ってバンバンと机か何か叩くような音もする。随分と血の気の多いやりとりだ。やがて乱暴に扉を開ける音がすると、一段階クリアになった沢の捨て台詞がまた聞こえる。

「絶対嫌だね! 俺、今から用事あるし!」

「用事って何だ用事って! どうせバイトだろ! いい加減に……」

「夏子先輩のパシリです!!」

「ああ!?」

 沢を追いかけてきたのだろう、梅田の声も先ほどより近くに聞こえるが、そこで虚を突かれたように押し黙る。

「よし……それやり切ってから報告書な。いいか、ちゃんと戻ってこいよ」

 そして最後の梅田の落ち着き払った棒読みは、露骨に藤林を意識したものであった。

 梅田は藤林が少し苦手。沢はその事実をどこかで知ったのかもしれない。藤林の威光を借り、上手く事が運んでニヤッと口の端で笑った……かどうかまではさすがに僕にもわからないが、それから沢の駆けていく足音を最後に騒動は収まった。

 実験室の白坂と伏屋は、いつの間にか固まってそれらに耳を傾けていた。そうしてなんとも絶妙な雰囲気の沈黙が流れ、その末に白坂が戸惑いながら問う。

「……楽しいっていうのは、ああいう感じのこと……なんでしょうか」

 すると伏屋は苦笑を漏らす。

「あはは……どうでしょう。楽しいにも、色んな形がありそうですね」

 その後の二人の実験には、さきほどよりも和やかな様子が感じられた。他愛のない会話が、所々で混じるようになったのだ。

「沢くんの用事というのは、藤林さんのお手伝いのことだったんですね」

「みたいですね。そういえば前も、手伝わされてたまらないって言っていました」

 確かにここ最近、沢はちょくちょく研究室を抜けては、荷物を持って学内に繰り出している。藤林はまた就活で顔を見せなくなってしまったが、沢が手伝いを継続しているあたり、彼女とよく連絡を取っているのかもしれない。早くも彼女の子分といった感じじゃあないか。

「はは。さっそく藤林さんに巻き込まれましたか。白坂さんも、何か言われているんですか?」

 伏屋がそう尋ねると、しかし白坂は少しばかり気落ちした様子で答える。

「いえ、私は特に何も……。私、藤林先輩とほとんど話したことがないから……向こうとしても頼みにくいのかな、って」

「んー、そうですかね。藤林さんはあまりそういうことを気にする人ではないので、きっとそのうち、何かあると思います。これは注意が必要ですね」

「注意って……もしかして伏屋先生も、巻き込まれた経験が?」

「ありますよ。いつだか最高のハンバーガーを自作すると言って生まれた試作品をみんなでひたすら食べる羽目になったり、助っ人で参加する鳥人間コンテストの理論計算をさせられたり、通学時間の短縮に私のデスクの後ろの窓からロープを使って出入りしていた時期もありました」

「え……」

「彼女は本当に、トンデモ人間ですからね」

 とんでもない人間だ。むしろ人間か?

 いや、それはともかく。声の調子や仕草で白坂を気遣い、笑顔を引き出しながら実験をリードする伏屋はさすがといったところだろう。まあ、肩肘張っては逆にミスも増えるというものだ。白坂にはもう少し、気楽さも必要だろうと思う。

 さてさて、ともあれこの調子ならもう、特に心配はなさそうだ。僕はゆっくりと扉の方へ移動し、その隙間からお茶部屋のホームスペースへと戻った。



 夕刻。陽の落ち切った藍色の空の下、沢が研究室に戻ってきた。

 一息つきながら扉を開けて入ったところで、駆け出していく河村とすれ違う。その際、互いの肩がぶつかりそうになると、河村が大仰に身をよじらせて回避した。

「おっとおっと!」

 あまりの豪快な避けように、若干ぼーっとしていた沢も思わず驚いて河村を見る。

「おわっ! 河村先輩じゃないっすか。ちっす」

 普段は気怠げな河村にしてはかなり軽快な身のこなし。その理由は、何やら脇に抱えた大きな箱にありそうだ。

「おー、沢。ごめんね、ちょっと急いでて」

「珍しいっすね。何かあったんすか?」

「いや、僕今日、オフでさ。これから出かけるの。研究室には荷物取りに来ただけなんだよね」

 回避の衝撃を恐れてか、河村は答えながらもその場で箱を下ろして中身を確認し始めた。ゴソゴソと覗き込んでいる箱は銀色で、その独特の外観は、僕にも少し見覚えがある。

「え、オフって……でも今日、水曜っすよ? 平日も平日、週のド真ん中じゃないっすか。しかもこんな時間から出かけるって……」

 沢の質問と同時に確認が終わったのか、河村は「ふぅ」と安心の表情を見せた。そして次の瞬間、溌剌な声とともに箱から何かを取り出した。黒く角ばった大きなそれを、顔の前まで持ち上げて構える。

「いやいや、だからいいんじゃーん! 余計な人がいなくってさ!」

「……それ、カメラすか?」

 河村がパシャと一枚、返事とともに撮影する振りをする。かなりゴツめの一眼レフカメラで、見るからにこだわっていそうな装備がいくつも見受けられた。

「いえーす。沢も光の研究室にいるんだから、カメラのことくらい詳しくないとね。そうだ、今度じっくり教えてあげようか?」

「まあ、そっすね。時間のあるときにでも。てことは、これからそれで何かを撮りに?」

「そそ! 北陸の方にさ、花の綺麗なところがあんだよねー。この時期は藤! しかも白藤ね!それを前乗りして、明け方の人のいない時間を見計らって撮影すんの! さらに上手くいけば、日の出寸前の淡い光に照らされた白藤と、いい感じに薄れゆく星空のコラボレーション! くーっ! テンション上がるー! これは絶景壁紙コレクションの筆頭となること間違いなし!」

「……マジっすか。藤の写真? 明け方の? そのためにわざわざ今日、この時間から?」

「当たり前さ! 時期、天候、その他諸々、条件が揃う日なんて滅多に来ないんだよ。これを逃すわけにはいかない。僕のカメラは、この世の美しいものを撮るためにあるんだから! あっと、やば。そろそろ行かないと、僕の完璧なタイムスケジュールが。じゃーね!」

 河村はポケットに入れたスマホで時刻を確認すると、忙しなく荷物を片付けて扉へ向かう。そうして手を振って研究室から出ていく彼の姿は、随分と輝いているように見えた。

 一人ぽつんと残された沢は、呆気にとられて口を開けている。

「……すげ。別人みたいなテンションだな」

「お前も騒いでるときはあんな感じだぞ」

 そのとき思いがけず沢の呟きに反応したのは、ちょうど廊下を通りかかってお茶部屋へと向かう梅田だった。

「先生。いやまあ、そうかもしれませんけど」

 沢の足は自然と彼女のあとに続いて部屋へと進んでいく。そして、既に白衣を脱いで腰かけていた梅田の、テーブルを挟んだ向かいに座った。

 僕もこっそり、滑り込むようにお茶部屋に入る。

「てか、河村先輩ってカメラが趣味だったんすね」

「ん、ああ。なんだ、知らなかったのか」

 梅田は椅子に深く腰掛け、足を組んでくつろぐ。時間的に、仕事がひと区切りついたのか、集中力が切れたかのどちらかだろう。一旦口をつけたマグカップを置いて彼女は言った。

「この日のためにあいつ、最近は土日もずっと出席してたんだ」

「え、土日もっすか? 休みなしで?」

「まあ別に、今回が初めてじゃないけどな。前は確か、紅葉をバックに廃線を撮りに行ってたぞ。どうでもいいけど、無駄にロマンチストなんだよ。男のくせに」

 梅田は「まったくもって理解できん」とでも言いたげに肩をすくめる。

「へ、へぇ……結構ガチなんすね」

「結構っつーか相当だ。ありゃホントに、ガチガチのカメラオタクだよ」

 沢は素直に感心の意を示し、同時に何気なく、テーブルに置かれた菓子の包みに手を伸ばす。

「んで、そのガチなカメラを、この研究室に置いてるんすか?」

「らしいな。宝物だから、いつでも眺めたくなったときに眺められるようにって、例のエナジードリンクタワーの後ろに隠してあるんだ」

「はあ……なんでそんなところに?」

「さあな。けどお前も、間違ってもあれにだけは悪戯するなよ。壊しても簡単には弁償できない。想像よりも桁が一つ多い上に、値段に表れない手間までクソほどかかってる」

 梅田も、決して嫌味でそう言っているわけではないようだった。梅田は色々と雑学にも詳しい。その梅田が言うのならば、本当にあのカメラは相当なものなのだろう。

 それを聞き、沢は椅子の背にもたれ天井を仰ぎながら「そりゃあ、すっげーなぁ」と答えた。

「何か一つ、 打ち込めるものを持ってるってのは、本当に大事なことっすよね」

 沢の表情は見えなかったが、その声音は思いのほか真面目なものに、僕には思えた。多趣味な彼の矜持と響き合うところでもあったのだろうか。

 けれども、それを境に沢が何も言わなくなったので、部屋には少しの沈黙が流れる。昔からホワイトボードにかけられている誰かの土産のドアベルが、微風に揺れて音を立てた。

 ややあって梅田がマグカップの残りを喉の奥に落とし込むと、思い出したかのように尋ねた。

「それよりお前、藤林のパシリから今戻って来たのか?」

「そうっすよ。あ、遅いって言いたいんすか? でもあれ、結構大変なんですからね。大きな折りたたみの机で台作って装飾して、学祭当日まで邪魔にならないように近くの建物に隠しておくんです。だいたいの場合は、その建物に知り合いがいるから配慮してもらえるけど、そうじゃない場合は交渉から。そんなのが全部で十ヶ所近くもあるんですよ」

「……お前も大変だな。まあ、同情はしないが文句もないさ。ちゃんと戻ってきたことだしな。けどお前、毎週この時間はバイトじゃなかったか? 確か、バッティングセンターか何かの」

 その質問に、沢は意外そうな、あるいは感心したような表情を見せる。

「へぇ。梅田先生、よく覚えてたっすね。俺、バイトたくさんやってんのに」

 僕からしてもそれは同意見だった。沢は非常に多くのバイトを掛け持ちしているし、それでなくても、サークルなどの他の用事で姿を消すことだって少なくないのだ。

 たとえば僕のような機械であるなら、そういった沢の複雑なウィークリールーチンを記憶していても不思議はないだろう。しかしそれを梅田が……素晴らしい記憶力と観察眼だと言える。

 ただ、それも梅田にとっては普通のことらしい。適当に流してまた尋ねる。

「当然だ。お前だって一応、腐ってもグループメンバーだからな。で、行かなくていいのか?」

 すると沢は、憎まれ口にも珍しく反応を見せず、あっさりとしたトーンで答えた。

「あれは辞めました。もう飽きちゃって」

「はあ? お前、こないだもそんなこと言って、いきなりバイト辞めてただろう」

「そうでしたっけ。まあ、そうかもしれません」

「いいのか、そんな無責任で」

 基本的に、バイトを突然辞めるのは良くないことだ。言うまでもない。当日来ると思っていた人が急に来ないとなれば、店にも、店の人間にも迷惑がかかる。ひいては客にも同様だ。

 もしかしたら梅田は、そんな当たり前のことを軽く諭そうとなんてしていたかもしれない。

 だが、しかしながら。

 結論から言えばそうなはらなかった。梅田の開きかけた口は、沢の最後の返答で再び閉じた。

「よくないっすね。でも、飽きちゃったら終わりですよ。いくら最初は楽しくっても、つまんなくなっちゃったら、もう全部終わりです」

 沢の言葉は乾いていたのだ。いつもの楽しそうな沢の口から出たとは信じられないほど、その言葉は冷めていた。はたから聞いている分には、おそらくわからなかっただろう。でも沢の見せた絶妙な表情の変化と声の渇きは、その場にいた梅田と、そして僕に、奇妙な違和感を感じさせるに十分なものだった。そんな沢の姿は初めて見た。

 その空気の変化に、沢自身は気づいているのか、いないのか。しかしそれ以上は続けることなく、パッと椅子から立ち上がった。部屋の扉に手をかけ「だーからわざわざ研究室まで戻ってきたんです。約束通り、報告資料直しますよーっと」などとおどけて出ていってしまう。

 やや戸惑い気味の梅田と僕を、そのままお茶部屋に残して。

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