二人:コンプリメンタリーカラー②

 ある朝のこと。お茶部屋のホームスペースから目覚めると、学生たちが集まっていた。

 樋尾、河村、沢、白坂の四人だ。彼らは揃ってホワイトボードを見つめている。

 そしてそのホワイトボードには、とても黒のマジック一本で描いたとは思えないほどの素晴らしい景色――佇む踏切に満開の桜並木から散花降り注ぐワンシーンが再現されていた。

 皆が口々に感想を漏らす。

「すっげぇ! アーティスティティックですね!」と沢。

「いやぁ、春だねぇ。ティが一個多いねぇ」と樋尾。

「夏子先輩ですね。いいなー。今度どこか教えてもらお。就活してて見つけたのかな」と河村。

「綺麗ですけど、左上にある血文字風の『I'LL BE BACK!』が気になります」と白坂。

 人間四人も集まれば、着眼点も四通りだ。ちなみに僕は、芸術に関しては門外漢なのでノーコメント。これを残した人物については知っているが、まあ、のちに嫌でも語るだろう。

 突然現れた早朝のファンタジックアートに緩んだ空気を、樋尾がパンッと手を叩いて整える。

「さて。これはこれである種の欠席届として……あと、この場にいないのは、橋原さんだね。確か、振替授業だっけ。代わりは河村に頼んだって聞いたけど、あってる?」

「はい。今回だけ彼女と僕の順番を入れ替えました。なので、今日が僕で、次回が彼女です」

 今日、皆が朝早くから集まっているのは、週に一度の“輪読会”があるからだ。輪読会は研究室の学生全員で同じ教科書を読み、単元ごとに当番制で解説をしながら進めていく勉強会。当番の人は教科書の内容について事前に理解し、資料を作成。周囲はそれに対して質問や意見を述べていくのだ。目的は、参加者全員が内容についてよく理解すること。教員は参加しないが、これも立派な学生としての単位である。

 今回は河村が司会と解説を行うらしい。二年目ゆえか、彼も慣れたご様子だ。白坂はただ黙々と資料や教科書に目を落とし、樋尾はラフな姿勢で軽く頷きながら聞いている。沢はちらちらと僕の方を見ていて注意散漫だ。おい、ちゃんと聞けよ。

 そして、かく言う僕も、是非、成長した主人のご高説を賜りたいと思っていた。あまり動き回るのも皆の邪魔になってよくないので、全員の顔が見える定位置を早々に陣取り清聴――もとい省電力モードに切り替え、河村のやや張った声に、静かに耳を傾けた。



 輪読会は二時間続いた。終了時刻はいつもまちまちで、すんなり一時間ほどで終わることもあれば、難解な内容で昼まで縺れ込むこともある。つまり今日は平均的であったと言えよう。

 その輪読会の終わりがけ、お茶部屋に准教授の伏屋が入ってきて、沢と白坂を呼び止めた。

「ちょっと、いいですか。すぐ終わりますので」

 伏屋は二人にテーブルに着くよう促し、穏やかに尋ねた。

「どうですか? 研究室にはもう慣れたましたか?」

「はい」

「えっと、まあ」

 白坂と沢が順に答える。

「僕の名前は、もう覚えて頂けましたか?」

「……伏屋瑞樹ふしやみずき先生です」

「はい。ジェンダーフリーな名前なんです」

 白坂の正当に、伏屋は嬉しそうに柔らかく微笑み、続ける。

「今日は、二人に今後の話をしようと思いまして。普通、こういう話はトップの教授からするものなんですが、うちの教授はあんまり研究室に居なくて……というか日本に居なくて……。教授はすごく変な人で、見たら絶対わかると思うので、そのうち挨拶しておいてくださいね」

「……はあ」

「わかり、ました」

 学生が教員に『今後の話』なんて言われたら、身構えるのは当然だろう。それを聞いて、僕もなんとなく先の内容に予想がついた。研究室に通う学生それぞれに与えられる、研究テーマについてのこと。彼らにとっては卒業のかかった大事な問題だ。

「まあ、そう堅くならないでください。ひとまず、白坂さんは僕の、沢くんは梅田先生の下に就くことになっていますね。この研究室は光の研究をしていて、今はどちらのチームも、光が人間に与える影響について調べています。僕のチームでは自然科学的な側面から、梅田先生のチームでは社会科学的な側面から。前者には化学や生物学なんかの知識が要りますし、後者には統計学や心理学の知識が要るでしょう。各々で必要に応じて勉強するようにしてください」

「はい」

「うげ」

 伏屋の説明に、白坂と沢は見事に真逆の反応を見せる。伏屋はそれを気にした様子もなく、また柔和で優しい笑みを浮かべた。

 そこからは、研究の内容についての話となった。研究概要や今後の予定など、新人の把握すべきことはとても多い。白坂はともかく沢の表情が少しずつ曇っていくあたり、それなりに難しい内容なのだと想像できた。そして、短いながらも濃密な話の末、最後に伏屋はこう言った。

「細かいことは追々わかっていくと思うので、心配しないでください。それよりも先に言っておきたいのは、どちらのチームも研究の根差すところは同じだから、データを共有するということです。君たち二人の卒業論文でもそうなると思います。つまり君たちは一蓮托生。人間関係、これ第一。是非、仲良くやるようにしてください」

 ただ、そこで二人の表情が固まったのを、目敏い僕は見逃さなかった。

「そんなところです。最初は練習実験から始めるといいですね。準備と説明は梅田先生にお願いしてあるので、二人で授業等の予定を調整して、一緒に、協力して取り組んでください」

「……はい」

「……うげ」

 一応返事はしたものの、最初と比べて明らかに二人の周囲には淀んだ空気が立ち込めている。

 伏屋はそんな彼らの様子に、気づいているのか、いないのか。やがて立ち上がり、キッチンで自分のマグカップにコーヒーを注ぐと「じゃあ、僕はこれで」と残して去っていった。

 重々しい沈黙。僕は耐えきれず早々にお茶部屋からの退散を決め込んだが、やや神妙な顔つきをした二人は、その後もしばらく立ち上がろうとせず、気不味い着席をしたままでいた。



 正午過ぎになると、僕は退屈凌ぎに研究室を出た。先日、河村に施してもらったアップデートを試してみたくなったのだ。彼はあのとき、移動と方向転換のアルゴリズムを更新するためのプログラムを僕に与えたが、実のところ、それと同時にもう一つの改良を行った。

 名付けて壁走り。これにより僕は、機体を壁に吸い付けながら進むことができる。そう、気分はまるでスパイダー! 地味な更新プログラムより、こっちの方がよほど前衛的で有用だ。

 しかし、いきなりそこらの外壁を伝って落下でもしたらあわやスクラップだし、無闇に目立つのも好ましくない。したがってまずは、研究室近くのひとけのない廊下で試験運用である。

 走行しながら壁に寄り、右半身を乗り上げて順調に垂直走行へ。しばらく体勢を保ちながら徐々に上昇。屋外を見渡すことのできる窓までたどり着き、僕はやがて、自身の手にした力の大きさにおののいた。

 ふっ……これは、素晴らしい!

 その優越感に浸るため、僕はしばらく窓際を進みながら外界を睥睨して回った。ジロジロ、ジロジロ、と春の心地良くも気の緩んだ光景をカメラで捉え、のち――何やら緩みきった顔で寝転がっている人間を発見した。

 沢だ。彼の横たわるベンチの隣に、同じ学科の友人と思しき者もいる。二人はある建物の屋上で昼食を摂っていた。

 僕は戯れに、そこに向かってズームをかける。そして彼らの唇の動きに合わせて、会話を再現してみることにした。

「だからさ。俺は楽しいこと以外、したくないんだよ!」

「うわ、出た出た! 沢のトンデモ理念!」

 沢の発言を、その友人が手を叩いてゲラゲラと囃し立てる。

「俺が高校三年に上がったときのことです。尊敬すべき名も知らぬ先生が集会で言いました。『君たちには、受験までに一年ある。今から一年あれば、どんな大学にも合格できる!』って」

「ああ、その話は何度も聞いたよ。んで、先生に呼ばれてきた東大生も、それに賛成したんだよな。まったくテキトーな話だよ」

「そうか? 俺はむしろ至言だと思ったぜ。つまりは一年あれば、大概のことはそこから挽回できるってわけだ。だから俺は、一年より先のことは考えない!」

「そりゃまた豪快な屁理屈だねぇ」

 友人はそう言いながら、手にしたサンドイッチの包みを開いて口に放り込む。そして続ける。

「一年より先のことは考えない、か。いやぁでも、ある意味、清々しいわ」

「わはは、くるしゅうないぞ。もっと讃えよ」

「ホントお前、それでよくこの大学入れたよ。ここ、結構偏差値高いのにさ」

「実は俺、天才だから!」

 ベンチから起き上がって高々と胸を張る沢に、友人は大袈裟に肩を竦めて笑う。

「ま、天才かどうかは知らねーけど、その勇気と行動力は認めざるを得ないよ。入学から今まで三年間、バイトにサークルの掛け持ちは当たり前。ときにはライブハウスでバンドの助っ人やるわゲーセンに入り浸って徹夜するわ。他には、ボーイスカウトとかもやってたっけか?」

「あー、やったやった。合コンも腐るほど行ったし、パチンコやスロットもやった。あと、ワケわからん資格もいくつかとったよ」

「よくもまあそれだけ……下世話な趣味から意識高そうな社会貢献まで、雑食にもほどがある」

「だって、楽しそうだなって思ったんだよ。楽しいことだけが、俺の人生の絶対正義だ!」

「お前の人生、毎日パラダイスだな」

「おうよ! エブリディパラダイス! 就職も結婚も何もかも、明日じゃなければ明後日でもなく、来週や来月でもなければ、来年でもないのだ!」

「っはは。違えねぇ、違えねぇよ」

 友人は膝を叩いてまた笑う。そうしてひとしきり空に向かって声を上げたあと、息をついて沢に向き直った。

「とすると、だ。沢は進学組か?」

「ん?」

 その突然の質問に、沢はきょとんとする。

「進路だよ進路。沢の誇り高きポリシーでも、来年就職するつもりなら、就活は無視できないだろ? 今それをしてないってことは、大学院修士課程にご入学かと」

「ああ、まあそうだなー。俺のパラダイスはモラトリアムを前提に成り立ってるからなー」

「たいそう歪んだパラダイスだぜ」

 まったくだ。僕も全力で同意する。

 とはいえ実際に彼らの所属する学科では、大学院へ進む学生は多い。それは沢の言うような自立の先延ばしという理由からではなく、学科のカリキュラムが半ば大学院への進学を前提に組まれたものでもあるからだ。一年生から三年生までの授業でいかに知識を蓄えても、四年生の一年間だけ研究室に属して何事かを成すのは難しい。多くの真面目な学生は、今しばらく研究を続け、学問の深淵を覗こうと考えるのだ……とまあ、建前上はそういうことになっている。

「大学院の入学審査って面接だけだろ。んなの、あることないこと喋っとけばいいし楽勝楽勝」

「確かに、面接はよっぽど落ちないだろうな。あ、でも沢の場合、まず卒業が危ういだろ。これまで単位はほとんどギリギリ。授業はすぐサボるし、テスト勉強もロクにしなかったはずだ」

「授業の単位はなんとか取ったよ」

「お、ご立派。けどさ、今回の研究室ってやつは……かなり厄介そうだぜ?」

「そうなのか?」

 尋ねる沢に、友人はたいそう気の重そうな表情で答える。

「ああ、朝は早くて帰りは遅い。しかも俺は、土曜まで毎週出てこいって言われてんだ」

「……マジかよ」

「起きて研究、飯食って研究、寝て起きてまた研究。なんなら忙しい時期は、寝ずに飯も食わずにひたすら研究。先輩は、修行僧になって悟りでも開いた方がマシだって言ってた」

「うわー……それ聞いて楽しくなくなってきた。元々楽しくなさそうだと思ってたけど、さらに楽しくなくなってきた。研究とかやりたくねー」

「ちょうどさっきも、研究室の同期とげんなり話してたところだよ。もう既に挫けそうだって」

 それを聞いた沢の顔にも、わかりやすく『挫けそうです』と書かれていた。

 沢の表情を覗き込んで少し気を晴らしたのか、友人は空になったサンドイッチの包みを握ってポケットに詰めた。そのまま立ち上がって伸びをする。

「んー。ところでよ沢。同期っていえば、お前んとこ、白百合さんいるだろ?」

「白百合さん?」

 聞き慣れない名前だったようで、沢は立ち上がった友人を見上げた。

「そ、白坂凛璃。苗字の白と、名前の凛璃が百合のリリーで、白百合さん」

「ああ……あの楽しくなさそーな女。つか、なんだよそのあだ名」

 そう答える沢の様子は、さきほどまでと比べて露骨に嫌悪を滲ませていた。

「なかなかに言い得て妙だろ? 色白美人で超高嶺の花なところも由来の一つ。家は近郊の高級住宅街の豪邸で、周辺の親戚含め、揃ってガチガチの政治一族。父親は現職の参議院議員。おそらく彼女の将来もそっち方面」

「スーパーお嬢じゃねぇか。そしてお前らはストーカーか!」

 確かに。なぜ彼女の身辺情報をそれほどまで熟知しているのか。

「いやぁ、顔の広い沢なら、俺なんかよりも詳しいもんだと思ってたけど……知らないとは意外だな。だって、あーいう人間は、そうはいないものだろ。噂は自然と入ってくるよ。家柄は明らかに政治関連なのに科学系の学科に来てるってのも、かなり周りの好奇心を掻き立ててる」

「……ふーん」

 興味のなさそうな沢に対し、一方の友人は、そこでニヤッと笑みを作る。

「厳格だぞー、きっと。すげー真面目だし。たぶん沢の冗談はひとっつも通じない。はてさて、キミは仲良くやっていけるかな?」

「う……やめろよ。最近それ、ちょっと悩みの種なんだよ」

「へへっ、沢にもついに悩みなんてものができたか。ざまーみろ。それでも白百合さんと同じ研究室は羨ましいね。ウラヤマシネ」

「おい、二つ目のは悪口だぞ!」

「おっと、つい本音が。学科のみんなの総意が」

 割に合わないその嫉妬の声に対し、沢は顔をしかめて友人へ抗議する。

 しかし友人の視線は沢ではなく、胸ポケットのスマートフォンへと向いていた。睨みつけられていることを気にする素振りもなくあっさりと言う。

「さてと。俺、そろそろ研究室に戻るわ。昼からミーティングやるって言われてて。お前もサボらずちゃんと行けよ」

 そうして歩き出すとぞんざいに片手を振り、彼は沢の前から去っていった。



 沢は気づいていないけれど、実はその去った友人と入れ替わりで、沢に近づく人物がいた。

「悪かったわね。楽しくなさそうな女で」

「っうわああぁぁぁ!」

 突然背後で声がして驚いたのか、沢は両目を見開いて叫ぶ。そして勢いのまま振り返り、声の主を見上げて言った。

「お、おまっ! 白坂!」

 そのとき沢が手にしていた菓子パンは見事に地面に落下したが、白坂は素知らぬ振りで沢の横に立つ。会話だけができるくらいの、人二人分ほどの間隔を空けて。

「ええ、どうせ楽しくない女よ」

「……聞いてたのかよ。つーかどっから現れた」

「あなたの友達が下りたのと、反対側の階段から。あと、聞いてたんじゃなくて聞こえたの」

 沢はその答えに少しだけ黙り、渋い顔をして砂にまみれた菓子パンを拾い上げた。やがてぶっきらぼうに口を開く。

「……お前、この屋上のことよく知ってたな。普段、誰も来ないのに」

「だってここ、研究室を出た先の廊下から丸見えなんだもの」

「廊下……? ああ、あの非常階段に繋がってるだけの」

「そう。例のお掃除機械を追いかけてたら、ここが見えたの」

 ん? それってもしかして僕のことじゃないか? 研究室を出てくるとき、誰にも見られていないことを確かめたつもりだったが……よもやつけられていたとは。

 あと、一応訂正しておくが僕は……。

「シータのことか。あいつ、見てくれはあんなだけど、実は掃除はしてないらしいぜ」

 そう、僕は断じてお掃除ロボットじゃな――

「何よそれ、詐欺じゃない」

 ひどいっ! 白坂、その言い草はあんまりだ! 言うに事欠いて詐欺だなんて!

「じゃあ何であんなに動き回ってるの?」

「知らね。でも楽しいからいいじゃん」

 あ、あいつら……機械でありながら自我に目覚めた選ばれしこの僕に向かって言いたい放題……いや、待て、しかし。待つんだ僕。ここで僕がいくら怒りに任せてオイルを沸騰させたところで、離れた場所にいる彼らには、伝わるはずがないのも事実。わかっている、わかっているよ。僕はいたって冷静だ。熱くなりすぎると回路が焼ける。

「……はあ」

 そうやって僕が、窓際で寂しく憤怒と戦っているうち、屋上では白坂が溜息を零した。続く言葉は、下を向いた彼女の口から、吐き捨てるように放られる。

「なんでもかんでも楽しいからって……」

 それは当然、離れて座る沢の耳にも届いたことだろう。眉の歪んだ沢の顔が、僕には見えた。

「なんだよ。悪いかよ」

「別に。でも、私はそういうの好きじゃないわ。あまりに快楽主義的な発言は、人間の底が知れると思うから」

「はん、大きなお世話だ」

 沢はベンチの上で大仰に足を組んで答える。

「お前こそ、あんまりずっと仏頂面だと陰気に見えるぞ」

「私は……」

 沢の随分と投げやりな言葉に、白坂は静かにそう呟いた。少しして、その大きく切れ長の目をゆっくりと沢に向け、淡々と告げる。

「私は事実、陰気だもの。あなたが思っているほど、誰も彼も馬鹿みたいに明るくないのよ。昼よりは夜が好き。白よりは黒が好き。太陽よりは月が好き。そういう人だっているんだから」

「うわ……開き直りやがった」

「美人で高嶺の花が陰気じゃないっていう法則はないわ」

「自分で自分のこと美人判定って、お前、相当性格悪いぜ」

「あなたたちが言っていたんじゃない。それに、他でもよく言われるもの。だから客観的事実でしょ。統計分析は研究の基本よ」

 それを聞いた沢はゲェと吐き真似をして嫌悪を示す。

「研究研究って、とんでもねぇクソ真面目」

「そうよ。私、真面目なの。だから、嫌々ながらもあなたのことを呼びにきたのよ」

 対して白坂は、まったく意に介した様子を見せなかった。それでも、発言に見え隠れしていた敵意は、いつしか前面に表れている。

「練習実験、伏屋先生から二人でやるように言われたでしょう。あなたの気分に合わせていたら、終わるものも終わらないわ」

「根拠のない言いがかりはよしてもらおうか」

「それが友人から卒業を危ぶまれている人の台詞? 根拠なんてそれで十分よ。お願いだから私を巻き込まないで」

「お、お前……」

「ああ、あとそれ。その『お前』っていうのも、やめてくれるかしら」

 白坂は言うと、沢から一時も外さなかった鋭い視線を瞼で遮り、踵を返して歩き出した。

「用はそれだけ。じゃあ、私は先に戻るから、昼食を摂り終えたら来なさいよ」

 階段を下りていく白坂は、もう沢の方へは一瞥もくれない。そのはっきりとした振る舞いは、凛々しさと冷たさの二つを掛け合わせたような印象を、相手に抱かせる。

 沢は、白坂が自分の視界から消えてさらに数秒、手元に視線を落として憎々しげに呟いた。

「……ちっ。今ので俺の昼飯、パーだけどな……」

 それから、もはや食べられない菓子パンを手に、仏頂面でベンチを立った。



 僕は理解した。あの二人、仲、わっるっ!

 しかもどうやら、元々仲が悪かったという感じじゃあない。ほぼ初対面であの喧嘩腰。もはや天性の不一致を感じる。一蓮托生×呉越同舟=絶体絶命!

 確かに考えてみれば、あの二人は性格も振る舞いも完全に正反対で、共通項は僕を軽視していることくらいときたもんだ。非常に腹立たしく、そして早くも手の打ちようがない。伏屋はよくあの二人に向かって「仲良く」などと言えたものだ。これでは先が思いやられる。

 僕は壁から降りつつもそんな思案をし、一足先に研究室へと戻る。あの二人を見て妙に気疲れしてしまったので、お茶部屋のホームスペースで休憩でもしようと目論んだ。

 けれども、お茶部屋の扉をくぐったところで、横から声をかけられた。

「よ、シータ。ちょうどいいところに」

 同時にコトッと、ボディへの重量を感じる。

 見上げるとそこには樋尾がいた。そして僕の上にはティーカップ、しかもおそらく中身入り。

「紅茶淹れたんだけど、淹れ終わってからコーヒーの気分になっちゃったんだよね。代金はどっちの分も払ったから、それ、誰かにあげといてくれるかな」

 そう言うと、樋尾はマグカップを片手にそそくさと去っていってしまう。

 僕は思わず溜息をつく気分だった。

 この研究室では、お茶部屋に様々な飲み物が備えられている。ポットではお湯が沸き、コーヒーはワーカホリッカーをカフェインで助ける。紅茶はしばしの休憩を優雅なティータイムに変えるし、酒は言わずもがな、百薬の長たるその力で癒しを与える。実のところ、それがこの場をお茶部屋と呼ぶ所以であって、皆がこれらを自由に持ち出してよいことになっているのだ。ただし、どれももちろんタダで湧いて出るわけではないので、利用者が都度、相応の代金を納めていくルールである。

 樋尾はコーヒーも紅茶もよく嗜むが、気分屋なので今みたいなことも珍しくない。面白がって僕の上に初めて飲み物を置いたのも彼だ。河村が「零れたらどうするんだ」と抗議をしていたこともあったが、今では僕の静粛かつ安定した走行性に感服したのか何も言わない。

 さて、休憩しようと思ったけれど、こんなマヌケな格好でホームスペースに戻るのも憚られるし、紅茶が冷めないうちに引き取り手を探しに行こう。普段紅茶を好んでいるのは誰だったかな、と僕は記憶を検索しながら部屋を出た。



 104号室を訪れると、伏屋と、もう一人が机に座っていた。

 背中まで伸びる明るい色の髪が緩くカールしていて、春らしいパステルイエローのワンピースに身を包んでいる女生徒。ふわりとした印象が非常に女性らしさを際立たせる、その正体は。

 この研究室で唯一無二の可憐な花――橋原唯花はしはらゆいか嬢、その人である。

 現在M1。河村と同期で、伏屋率いるグループで研究をしている彼女は、ここではまさにアイドル的存在である。思わず僕のシグナルランプも黄色にパカパカ光るというものだ。

 ただ、そんな彼女もやはりこのおかしな研究室にいるくらいだから、隠し種の一つや二つ、持っている。以前、ここら一帯をなんとなしに徘徊していたのだが、その際たまたま、本当にたまたま、彼女のバッグの中身が見えてしまったことがある。財布や化粧道具、アクセサリ等のお洒落なアイテムに混じって見えた無骨なそれは、僕の知識が正しければ、スタンガン。

 なぜ彼女がそんなものを所持しているのか。当時の僕は可能な限りの推測をしたが、どうにも先にメモリの限界が訪れたので、そっと記憶の片隅にしまうことにした。あれはいったい何だったのだろう。もしかしたら僕は機械でありながら、夢なんてものを見たのだろうか。

 いや、まあ、うん。そんなことはどうでもいいか。今の僕の使命は彼女にこの紅茶を届けることだ。彼女は紅茶がとても好きなのだ。

 橋原は僕の来訪に気がつくと、わざわざ椅子から降り、淑やかに屈んでから声をかけた。

「あら、シータちゃん。何かご用?」

 そう。あなたに、是非、この紅茶を。

「これを私に? 」

 僕は小刻みに前後して肯定を示す。

「そう、どうもありがとう。ありがたく頂くわね」

 橋原は、その名の通り花のような笑顔を浮かべると、僕の上に乗るティーカップを両手で丁寧に取り上げた。そうして可愛らしい桃色の財布を取り出し、数枚の硬貨を代わりに置く。

「じゃあこれ、お代。余ったら寄付でいいわ。ふふっ、河村くんは、あなたにこんなことまでプログラムしたのね」

 彼女は嬉しそうに僕のボディを撫でた。

 すると、ずっと書類に目を落とし続けていた伏屋が、僕らに気づいたようで顔を上げる。

「ん? 橋原さん、どうかしましたか?」

「はい。シータちゃんが紅茶を持ってきてくれたので」

 橋原の机に置かれた紅茶を一瞥すると、伏屋は目を細めて僕を見る。

「そうですか。君は、なかなか気が利きますね」

 えへん!

 そこで伏屋も小休止をとることにしたらしい。デスクワーク用に掛けていた眼鏡を外す。

「そういえば橋原さんは、新入生の二人とはもう話しましたか?」

「ええ、はい。それなりには」

 橋原は答えながら椅子に腰かけ、くるりと身体を回転させて伏屋の方を向いた。

「どうでした? 初めての後輩は」

「とてもいい子たちだと思います。沢くんはとても明るくて、すぐみんなと仲良くなっていました。まだ研究の方は知らないことも多いみたいだけど、梅田先生に、実験のやり方とか、色々教えてもらっていましたよ」

「ああ……梅田くんもなかなか賑やかな方ですが、そこに沢くんが加わるとなると……計り知れないものがありますね」

「そうですね。樋尾先輩が上手くとりなしているのを、よく見かけます」

 最近の沢は、以前ほど無謀な脱走を試みたりはしない。それでも、梅田と何かを行えば高確率で騒動を引き起こしている。大声を張り上げて口論をしていることもあれば、沢が梅田をおだてて、二人して暴走していることもあるのだ。まったく平和な光景である。

 次いで伏屋は、もう一人の新人についても橋原に尋ねた。

「白坂さんはどうですか?」

「彼女は、とても真面目ですね。もう既に何度か、研究についての質問を受けました」

「そうですか。仲良くなれそうですか?」

「打ち解けるまで、ちょっと時間のかかる子だなとは思いましたけど、私から積極的に声をかけていこうと思ってます。席も隣同士だし、女の子の後輩は、とても嬉しいので」

 橋原はそう言うと、胸の前で手を合わせ微笑む。

「はい。是非、そうしてあげてください」

「すごく可愛いですよね、白坂さん。先生もそう思いませんか?」

「え?」

 気になることを聞き終えた伏屋は、仕事に戻ろうとしていたようだ。しかし橋原に突然そう尋ねられ、少し驚いたような声を出した。

「え、ええ、そうですね。綺麗な子だと思います」

 平静を装い、伏屋はゆっくりとそう答える。

 すると橋原は「ふふっ」と笑って伏屋に言った。

「大丈夫ですよ、奥さんには言いませんから」

「橋原さん、教員をからかうものではありませんね。前に頼んだデータの解析、見ましょうか?」

「あら、残念です。解析結果はもうすぐ見せまーす」

 そんな二人の会話を背に、僕は進行方向を廊下へ向けた。

 よかった。どうやら沢と白坂は、お互いはともかく、それぞれではそれなりに上手くやっているようだ。沢は相変わらず来るのが遅ければ帰るのは早い。白坂は歓迎会の日もあまり周りと話さないままに一次会で帰った。そんな話も耳にしていたところだったから、今の橋原の話は、僕としても安心できる。まあ欲を言えば、沢にはもう少し真面目に、白坂にはもう少し気楽になってもらいたいところだが、悲観せず気長に眺めていくとしよう。もしかしたらそのうち、二人が、二人を足して二で割ったくらい、ちょうどいい感じになるかもしれない。

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