Epilogue

いってらっしゃい:さくら色に向かって

「ちょっと動かないでよ。直しにくいじゃない」

「だから直さなくていいって。ちゃんと結べてただろ」

「結べてなかったわよ。あんなんじゃ横着バレバレでみっともないわ」

 玄関前が騒がしいと思って覗いたら、声の主は白坂と沢だった。なんと二人ともスーツ姿だ。

 わずかに灰がかったジャケットとタイトスカートを美しく着こなす白坂。髪を肩横で緩くまとめ、やや高めのヒールを履いている。

 一方、沢は黒のシングルスーツにネイビーのネクタイ。ワンポイントにシルバーのタイピン……といきたいところだが、今、そのタイピンは白坂のポケットに一時避難させられている。

 なぜかと言えば、白坂が沢のネクタイを結び直しているからだ。普段からスーツに慣れていない沢は「スマホで動画を見ながらやった」と言っていたが、その出来があまりよろしくなかったらしい。沢の首元でせっせと両手を動かす白坂はあれこれ文句を言っている。

 こんな風に二人が正装しているのは、今日が彼らの卒業論文の発表日――学位審査会の当日だからだ。年末年始をほぼ丸々費やして書き上げた分厚い卒業論文を、二人はその期日である一月十三日に、事務局へ提出した。しかし、卒論を冊子として提出したら、それで晴れてめでたし卒業、というわけではない。後日、その内容を何枚かのスライドにまとめ、各分野の教授たちの前で発表しなければならない決まり。学位の審査としては、むしろこっちが本番と言える。このために一日貸し切られた学内の講堂、その広い会場の正面でマイクとポインタを持って臆さず分かりやすく、自分の研究の成 果を見せるのだ。この記念すべき日は一月二十四日。二人の最後の戦いの日――いや、二人の努力が身を結ぶ日だ。

 そこに通りかかる一人の姿があった。

「やあ、いよいよだね」

 沢のネクタイと格闘していた白坂が、その声を聞いて振り返る。

「あれ、蓮川先生!? 審査会は、もう朝から始まってるはずでは……?」

「最初の方は、私の専門とはあまり関係のない分野だから、いなくてもいいんだよ」

 現在の時刻は午前十一時。沢と白坂の発表は、十一時三十分と四十分から十分間ずつ行われるが、審査会そのものは八時半から始まっている。別の研究室の生徒が既に何人も発表を行っているはずだ。蓮川だってこの学部の教授の一人。内容が専門と離れているからといって、審査する側として聞いていなくてよいのだろうか。

 僕がそんなことを考えていると、白坂もちょうど訝しげな顔をしていた。僕に顔があったならば、まさにあんな表情をしていたはずだ。

「それより、君たちに面白い話があってね」

 しかし蓮川は、そんなことを気に留める様子もなく話を始めた。

「なんて言ったかな、君たちの実験会を邪魔した企業があっただろう? 一昨日、そこから謝罪の電話があったんだ」

「謝罪?」

 沢と白坂は揃って蓮川の方を見た。それは、二人としては気になる話題だったからだ。

「うむ。本来なら、君たちに直接謝ってもらうべきだと思ったんだが、それでまた君たちの貴重な時間を奪うのもナンセンスだろう。勝手ですまないが、私の方で話をつけさせてもらった」

 一昨日といえば、沢も白坂も発表の準備でキリキリしていた頃だろう。謝罪と時間なら、迷わず後者を選択したに違いない。

「俺は、もう気にしてないです」

「ははは、沢くんは心が広いね」

 この場合、世辞ではなく本当に気にしていないのが、沢の美点なのだろう。

 一方、白坂についてはなかなか口を開かない。

「それでも一応、あんなことになった事情くらいは把握できたから、話しておこうかな」

 蓮川がそう切り出すと、おずおずと視線を落としながら白坂が言った。

「あ、それは……たぶん、私の家の人が……」

「ああ、そのあたりはもう知っているんだね。では、沢くんもかな」

 蓮川が穏やかな視線を向けると、沢は軽く頷き、白坂が続けた。

「逆に、私の方こそ、すみません。身内の事情なのに……」

「いいや、君が謝るようなことではないよ。それに、結果的に良いこともあった。今回の件が収まって、これまでずっと我々とは折り合いの悪かった研究室相手に、貸しを作ることが出来た。これからはそうそう、表立って我々を目の敵にすることもなくなるだろう。そして、これらの話をまとめたのは、君の両親だ」

「……え?」

 蓮川の口から出た言葉に、白坂は思わず目を丸くする。

「知らなかっただろう? 伝えなくてよいと釘を刺されたが、伝えてはいけないとは、言われてないものでね」

「でも、私の父と母は……」

「普段、あまり話し合うことはないそうだね。いかんよ、家族のコミュニケーションは大事だ」

 冗談めかして言う蓮川の様子に、しかし白坂の理解は追いついていないようだ。固まったまま沈黙している。

「ただね。少なくとも、君のお父さんとお母さんは、君が自分で決めた道を応援している。二人は、君が思っているよりは、君のことを見ているようだよ」

 蓮川は白坂に向かってはっきりとそう告げると、とても爽やかな笑顔を見せた。

「ま、色々あったが、雨降って地固まるというやつかな。今日の発表は、君の両親も見にくるらしい。一般からの聴講名簿の中に名前があったよ」

 まるで自分のことのように嬉しそうな蓮川。やがて彼はその両手で、丁寧に白坂の手を掬い上げた。包み込むようにしっかりと握り、次に、沢にも同じように握手をする。

「じゃあ、良い晴れ舞台となるように、精一杯頑張りたまえ。沢くんはスーツが似合っていないと減点されるかもしれないから、白坂くんにしっかりチェックしてもらいなさい」

 そうしてやはり嬉しそうに「はっはっは」と高く笑いながら玄関を出て去っていった。

 沢と白坂は、しばらくそのまま動けずにいた。漂うしんとした空気に、僕も移動のタイミングを失う。窓の外から飛び立つ小鳥の鳴く声と、風に舞う落ち葉の音が聞こえる。

 白坂は無言でまた沢のネクタイに手を伸ばし、結び直しの続きを始めた。

 すると沢は抵抗することなく、大人しくやや上を向いて首元を広くする。そして言った。

「……よかった、よな?」

 白坂は静かに答えた。これ以上にない、安堵を湛えた表情で。

「……うん。よかった。すごく」

 そしてまた少しの無言の時間を経て

「はい。できたわ」

 キュッという音を最後に結び直された沢のネクタイ。沢はその感触を確かめるように二、三、首を動かすと「おう。サンキュ!」と明るく笑った。

 うん。二人とも、良い表情だね。さて、そろそろ行く時間なんじゃないのかい?

 すると沢は、まるでその問いかけに答えるかのように僕に気づき、こちらへ歩み寄ってくる。

「お、シータ。お前もあとで誰かに連れてきてもらえよー。俺の完璧な発表を見せてやるぜ!」

 うんまあ、たぶんみんな冷やかしに行くだろうし、そりゃ僕も見るけどさ。くれぐれも調子に乗ってヘマをしないようにね。

 自信満々の足取りで玄関に向かっていく沢。先に行ってしまう彼に続くように白坂も駆け出し、それでもちゃんと、僕の前で一度しゃがんでくれる。

「じゃあ、行ってくるね。シータ」

 うん。行ってらっしゃい。

 白坂は扉を開こうとする沢に追いつき、やがて二人は、並んでその先へと歩いていった。



 作中、次の書籍を引用させて頂きました。

『The Door into Summer』(Robert A. Heinlein著、Del Ray Books、一九八六年発行)

『夏への扉[新訳版]』(ロバート・A・ハインライン著、小尾芙佐訳、株式会社早川書房、二〇〇九年発行)

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