第25話 クマのぬいぐるみはまだ必要かな?

 久々の大学は、何だか懐かしく思えていた。思えば人生のほとんどをここで過ごしているのだ。この一年半がまったく違うものだったに過ぎない。

「変だよね。あれほど嫌だと思ったのに」

「――そうですね」

 それは翔摩も同じで、声が出ないほどのストレスを感じたというのに今はここにいるのが当たり前だと思ってしまう。それだけここが身体に染みついているということだろう。

「あっ」

 人気のない廊下を進んでいたら、目の前に瑛真の姿を発見して二人は止まった。その瑛真は何だか申し訳なさそうな顔をしている。

「案内してくれるの?」

 路人がここに戻ってくることは、暁良がここにいると伝えればすぐに来ると誰だって解ることだ。それが礼詞と決別したとしても変わらない。

「ええ。私もこんな形で手伝うことになるとは思ってもいませんでしたけど」

 案内と言われ、瑛真は困惑の笑みを浮かべてしまった。何だか急に路人が遠くなったように思うのは気のせいだろうか。やはり自分は路人の何も解っていなかったのでは。そんな不安が襲ってくる。

「まあ、ここに残っているのは大御所ばかりだからねえ。それで、暁良がこの大学に入れられそうになっているって?」

 まさかそんなことを考えるなんてと、路人は肩を竦めてしまう。これだから紀章のことを好きになれないのだ。何でも研究が総てで、それに周囲を合わせようとする。今も昔も、紀章の基準は研究しかない。

「それについてはあちらで」

 これは瑛真が説明してもどうしようもないと、紀章と穂波が待つ研究室へと二人を案内する。これから紀章と穂波がどう説得するのか。ここに礼詞とともに現れなかった路人に、瑛真は少し不安になる。

 自らの研究室では戻ると言っていたが、果たしてそれは本当にここで研究するために戻ることだろうか。佑弥の言葉に腹を立てて思わず言っていた、教授としての地位を捨てるためだけとはならないだろうか。

奇妙な沈黙のまままた廊下を進み、三人はあの紀章の研究室に着いていた。ここで様々なことがあった。というより、ここで総てを学んだというべきか。嫌なことが多く会った場所だが、ここしか戻る場所がないのは事実だなと自覚してしまう。そのせいか、路人は知らず緊張してしまった。

「行くよ」

 そんな緊張を誤魔化そうと、いつものようにのほほんと笑って横で同じく緊張した面持ちをしている翔摩に声を掛けた。せっかく不意打ちをして声が復活したというのにここでまた出なくならないか。路人は心配だ。しかしそれは不要の心配だったようだ。

「はい。俺も、ここしかないと解っていますから」

 今まであの研究室でこなしていた仕事の大半がここから流れてきたものだと今ならば解っている。それだけ紀章は心配し、一応は配慮してくれていたのだ。礼詞の最大限譲歩しているというのは、こういうところからも来ているのだろう。

 瑛真は二人の覚悟が決まったのを見届けて研究室のドアを開けた。するとそこには、穂波の姿だけがあった。

「あいつがいると、私も素直に話せそうにないからな。ちょっと外してもらったよ」

 そう言って柔らかく笑う穂波は、本当に路人と向き合うことにしたのだ。今までのライバルとして接するのとは違う、優しさが滲み出ている。

 しかし、穂波がいるとは思っていなかった路人は見事に固まっていた。あれほど会いたかったはずなのに、いざ会うとどうしていいのか解らない。思わず視線は床に落ちていた。それは駄々をこねてしまって気まずくなってしまった子どもと変わらない。

「城田は桜井とともに先にこの奥にある会議室に行ってくれ。そこに山名がいる」

 二人で話をさせてくれるかと言うと、翔摩と瑛真は頷いて出て行くだけだ。どれだけこの瞬間を路人が待っていたかは痛いほど知っている。 それを邪魔するようなことはしない。

「ずるいよね」

 二人が出て行き、穂波と二人きりになった路人はぼそっと言っていた。どうしてこのタイミングなのか。しかもあの科学者狩りをどうにかしろと偽名と代理人を使ってまで依頼してきたのも納得できない。いつもいつも、穂波は路人のことなんて考えていないかのようだったというのに。

「それは謝ろう。ここに来る時も、ちょっと騙してしまったな。テストが出来たら欲しがっていたクマのぬいぐるみを買ってあげると言って連れて来て、結局はそれすら買わずに別れてしまった。あの頃、ノーベル賞に繋がる研究で忙しかったといえば、今の君は納得してくれるだろうか?まあ、母親失格であることは自覚しているよ」

 穂波も向き合うと決めたはいいが、大人になってもまだ子どもっぽく振舞う路人にどうしたものかと悩む。23年もの間会わなくても、すぐにあの頃に戻ってしまったかのようだ。

「理解できるけど、納得できないよ。俺、クマのぬいぐるみばっかり買うようになったし」

「――すまない」

 今も持ってるよと、この間から持ち歩いている大きなものとは異なる小さなクマのぬいぐるみをポケットから取り出してまだ拗ねる路人に、穂波は苦笑しながら謝る。

「他にも色々とさ。ずっと我慢していたんだ。自分らしく生きることまで止めてここにずっといたんだ。いつか、あなたがもういいよって言って迎えに来てくれると思っていた。それはもう叶わないと思って、一年半前に飛び出した。もう、苦しくて仕方なかったんだ」

 穂波を前にすると、どうしてこんなにも素直に愚痴が言えるのだろう。それを不思議に思いながらも素直な気持ちの吐露は止まらない。

「本当に嫌だったんだ。あなたはずっと研究の場にいるのが当たり前だから解らないだろうけど、あちこちと競争し続けるのって疲れるし。自分でやったことが、実感を伴わないまま実現していくのも気持ち悪いし。解らないよね?俺は、自分が何者かすら解らなくなっていた」

 そこまで言ってようやく穂波を見ると、相変わらず柔らかな笑みを浮かべていた。こんなことを言えば怒り出すと思っていただけに、その反応に路人は言葉が続かなくなった。

「――そうだな。確かにずっと競争することが当たり前で、すぐに成果を上げ出した君すらライバルのように思うほどだ。でも確かに理解していることはある。今の、その穏やかな性格が本来の君だと、それはよく知っているよ。小さい頃は何でも興味を示して私を困らせてくれたものだ。ちょっと目を離すと違うことをし始めるし、かと思えば何かをじっと観察していたりするし。ああ、この子もまた科学者になるんだろうなと、そう思ったんだ。少し、君の成長を待つべきだと考えるのを忘れるほど、君はこの世の中を知りたいのだろうと思ったほどだよ」

 ここに連れてきたのはそういう理由だったのだと、穂波は僅かに困ったような顔になる。そこからずっと会えなくなり、路人は自分がここに捨てられたのだと思ったことを穂波は知っていた。それを利用してライバルだから会わないと伝えたこともある。でも、それは路人の邪魔をしたくなかったからだ。確実にキャリアを積めば、路人は自分が知りたかったことを得るだろうと、そう勝手に思っていた。

「知りたかったのは、ロボットじゃない」

「うん」

 むすっとして言い返してきた路人に、穂波はただ頷くだけだ。今はこの二十年分の我儘を聞く時だと解っている。

「人間の方が面白いよ。でも、俺に向き合ってくれる人はほとんどいなくなっていたね。どこに行っても、俺はもう一端の先生でしかないんだ。ただ暁良だけが違ったんだ。彼に出会えて、何かが変わった気がする。本当に無理なく、自分らしく振舞えるって思えたんだ。だから、彼に無理強いをするのは止めてよ」

「――それは」

 路人にじっと見つめられ、穂波はこれには頷けなかった。ここが苦しいという路人は、暁良なしに乗り切れるのか。

「大丈夫だよ。ずっと、やって来たんだもん。それに、友達として暁良と一緒に居たいんだ。ここに無理やりいてもらうなんて変だもん。あとちょっとの間だけ遊んでいたかったけど、戻れっていうなら戻るから」

 路人はそう言いながらも目線はまた床に戻っていた。本当に戻りたいのか。ここが懐かしいという感覚と自分の気持ちが違うところにあるのを、また自覚してしまう。ここしかないと思う気持ちもある一方で、どこか違う場所で今のように生きられないかと考える自分がいた。

 穂波に向かって気持ちを吐露したことで、余計にその矛盾が自分の中にあった。でも、もう戻らないという選択は、暁良のためにも出来ないのだと解っている。

「――解った。暁良君に関しては諦めよう。その代わり、ちゃんと出来上がる科学技術省での仕事もこなす。いいかな?」

 どうやればまた素直に気持ちを言ってくれるのだろう。穂波はまた出来てしまった溝に困惑しつつ、最も厳しい条件で訊く。

「いいよ。何をさせたいのか知らないけど、今までのようにやれって言われたことはちゃんとやる。無責任になれないって、ここで科学が嫌になったはずの宮迫にまで言われたくらいだからね」

 そんな佑弥もまた、無責任に総てを投げ出さないのだろうなと、そんなことを思ってしまった。ここで研究をするというのは、そういうことなのだ。なぜなら、ここは飛び級制度拡大とともに、ロボットや人工知能に特化して研究するために新たに作られた大学だったのだから。国立最先端理工大学。ここにいて学んで研究をしたりここで教授をするというのは、すなわち今の社会の普及に精を出すことでしかない。

「――クマのぬいぐるみはまだ必要かな?」

 一度態度を決めると頑なだなと、穂波は厳しい条件でも飲む路人にどうしたものかと悩んだ。だから、まだ果たしていない約束から訊ねてみる。

「プレゼントしてくれるなら、大事にする」

 路人はそこが妥協点だなと、いつの間にか笑みものほほんとした空気も消えていることにすら気づかずに頷いていた。

「どうする?君の飛び級は考えなくてもよくなったようだが」

 そんな会話をしっかり聞いていた紀章と暁良、それに翔摩と瑛真は複雑な表情だ。しかし紀章は暁良が選択することが総ての答えではと訊く。

「そんなの、決まってるだろ」

 まったくあのバカはと、暁良は溜め息だ。そして心配そうな翔摩の肩をグーで叩く。

「いてっ」

「声は出るようになったんだな。しばらく頼むぞ」

 暁良は笑うと、次に紀章に向き合った。すると紀章は静かに頷く。

「悪いな」

「今更だなあ」

 少し申し訳なそうに言った紀章に、あんたも不器用だなと暁良は笑うのだった。

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