第9話 シプリノール硫酸エステル
路人と一緒にロボットの置かれた部屋に戻ると、サプリの分析に出ていた万結が戻っていた。
「どうだった?」
のほほんとした調子に戻った路人が訊くと、先生の指摘通りでしたと万結の顔が厳しいものになる。
「じゃあ」
本当に毒が仕込まれていたのか。暁良は拍子抜けすると同時に、誰にでも可能という意味があっさりと解って困惑した。これでは誰がやったか。証明できないのではないだろうか。
「ただ、出てきた成分はシプリノール硫酸エステルというものです。これについてどう考えますか?」
万結は物質名を読み上げて困った顔になる。一体どういう毒なのか。何一つ解らない暁良は猛毒なのかと固唾を飲んだ。
「へえ。それってやっぱり青魚のヤツから出てきたの?実際に含んでいるのは鯉類のはずだけどさ」
しかし路人の質問でおやっとなる。鯉類に含まれる?フグとか明らかに毒のあるものではなく?
「それだけでなく、しじみのものにも入っていました。一つでは致死量にいかないと感じたのでしょうか?」
一応、犯人は魚介系に絞っていた。そんな律義さを発揮していると万結はより一層困惑の表情だ。しかし、何一つ解らない暁良からすれば魚介類で統一している意味もまた不明でしかなかった。
「なあ。どういう毒なの?」
健壱が部屋に入ってきたのを確認し、暁良はそっと路人に訊いた。どうせこの部屋の連中は自分を路人の弟子だと思っているようだし、馬鹿な質問をしても許される。
「ああ。シプリノール硫酸エステルは鯉類の胆嚢に含まれている物質だよ。毒としてより、滋養強壮があるとの勘違いの方が有名かな。鯉の胆嚢を食べると元気になるっていう民間療法があるんだ。けど、摂取するのは間違い。胃腸障害や唇、舌のしびれ、手足の麻痺を起こす。重症になれば死亡する例もあるんだ」
さらっと説明され、暁良は工学と物理だけじゃないのかと呆気に取られた。しかし、色々と解らない部分がある。
「じゃあ、サプリとして取ろうっていう発想が生まれてもおかしくないってこと?」
民間療法で滋養強壮に効くといわれている。それが実は毒だった。何だか変な話だ。
「まさか。さすがにサプリのように高濃度にして摂取してはダメだって、作っている人も解るよ。だから不自然な物質として白川さんは挙げたんだ。青魚にしたのは、単に犯人の性格を反映したものだろう。嘘が下手ってところかな。あまり大きくぶれたものだと勧められなかったってところだね。それにシプリノール硫酸エステルが検出されたのならば、異様にサプリを飲んでいたのも理解できる」
路人は真相が解りやすくなったぞと笑うが、暁良はさっぱりなままだ。それは周囲も同じようできょとんとしている。
「あの、先生。どうしてそれを摂取したこととサプリが繋がるんです?」
暁良の質問に答えたのだから自分も大丈夫だろうと、翼が次に訊ねた。
「だって、胃腸障害を起こすんだよ。元気になると思って取っているもので、身体を悪くしている。しかも食べられない状態だ。この状況ですぐにサプリを疑えば何の問題もなかったんだろうけど、サプリ好きだった被害者は他のサプリも飲んで補えばいずれ元気になるって思ったんだろうね。それが死を遅めたわけだけど、蓄積した物質を体外に排出するほどではなかった。そういうわけだ」
様々なものを足して、何とかしようとする。人間って何だか不思議だなと暁良は思う。
「じゃあ、犯人の予定では今日ではなくもっと早くに死ぬはずだったってことか」
ただ解ったのは、その不思議な行動が死期を遅めたというわけだ。犯人は焦っただろう。
「そこで、サプリの時間まで登録されているこのロボットの登場ってわけさ。できればシプリノール硫酸エステルを優先的に摂取してほしい。そこで不正アクセスし、青魚としじみのサプリを取る時間を操ろうとしていたんだ。ちょっといいかな」
そう言って路人は瑛真からタブレット端末を受け取り、過去の予定についてチェックし始めた。
「ああ。バグの起こる二週間前の予定では青魚としじみに関して、夜寝る前に飲むよう登録されているね。他の物質に阻害されずに体内に吸収させるには寝ている時間が最適だと判断したようだ。この頃のお母さんの様子はどうだった?」
路人はそう健壱に訊く。この中で誰がちゃんと美弥の行動を見ていたか。それをさっきの母親が好きかという質問で知っているからこそである。
「どうって。化粧が濃くて、しかも色っぽい感じの――ひょっとしてふらついていただけ?」
丁度不倫疑惑が持ち上がっていただけに、そのせいだと思っていた健壱は唖然とした。あのなよっとした女性らしい動きだと思っていたものは、手足の麻痺が起こったせいだったのではないか。
「そうだろうね。この頃は効果的に影響が出ていたはずだ。化粧が濃かったのは、胃腸障害で肌の色が悪くなっていたせいで無意識に濃くしていたんだろう。しかし他のサプリを止めていないから、なかなか症状は重症化しなかったってところかな。でも、これだけ長期間取っていたのだから身体にどんどん蓄積されてしまう。死んだのが今日だったのは単なる偶然。ベッドの上にいたのは、おそらく体調の悪さがピークに達したせいだろう。あれは急性腎不全が起こることが知られている。おそらくそれにより意識不明に陥り死亡した。これが真相だよ」
路人はそう言って悲しそうな顔をする。誰にも気づかれずに、誰にも体調不良を相談できずに亡くなった。それが、母親に対して何らかのコンプレックスがある路人には傷つく内容だったのだ。
「路人」
「大丈夫。さて、死んだ理由は明らかになった。問題は誰がサプリの時間を都合のいい時間に移動させたかだよね。過去一か月を振り返ると、丁度一か月前にはもう夜に青魚としじみは夜に取ることになっている。バグの発生のせいでずれたのは別に考慮する必要はない。これは一か月前から始まっていた事件だからね。どうなの?何があったの?」
路人はタブレット端末を瑛真に返して集まった面々の顔を睨みつけていく。
「何があったって、不倫は事実よ。見たこともないアクセサリーを付けていたんだから」
そこに、事態をややこしくするかのように亜莉沙が部屋に入って来て訴える。せっかく不倫疑惑は消えたかと思われたのにと、暁良は頭が痛くなりそうだ。しかし、何もないのに毒の入ったサプリを勧めるはずがないのだと気付いた。やはり原因は不倫?話によると美弥はこの会社にとって大事な人物だった。殺す理由は、そういうものにしかないのだろう。
「不倫ねえ。ねえ、あなたはこの中で誰が真面目で不倫をすると思う?」
人の感情に配慮することは、路人には出来ないのだ。ストレートにそう翼に問いかけたので暁良は卒倒しそうだった。
「その。こういうロボットに侵入して時間を操作したという点まで考慮すれば」
呆気に取られた翼だったが、すぐに独り思い当たると視線を動かす。その先にいたのは、三宅慎也だった。疑われていた一人に落ち着いたというわけだ。
「――俺は」
「ああ、そういうことなんだ。うちの旦那じゃなくてすっきり」
言い訳をしようとする慎也より早く、路人以上のマイペースさを発揮して亜莉沙が笑う。それで緊張の糸が切れてしまったのだろう。慎也が怒鳴り始めた。
「そうだよ。あの女、旦那が相手してくれない欲求不満を社員に求めていたんだ。そりゃあ、経営権を握る奴だから誘いに乗るよな。ちょっとはいい思いをさせてくれるんじゃないかって。それなのに、やるだけやってポイ捨てだぞ。しかも普段は何もなかったかのように振舞う。それでこっちがその話を持ち出すと首にするぞって脅してくる。最低の女だ」
人には色々な顔があるというが、美弥という人も相当だったんだなと暁良は悲しくなった。それは路人も同じようで、もう帰ろうと言ってさっさと歩きだす。
「おい。有名人のあんたに勝手に出ていかれたら困るんだよ。ここで何があったか言わないって担保を」
身勝手な慎也はそんなことを喚いて路人の肩に手を当てた。しかしそれが間違いだ。ぶわっと白い粉が広がり、続いてぼんっという音がする。
「科学者狩り対策用の」
網の中に納まった慎也を見て、暁良は自分もこうだったのかとその間抜けさに恥ずかしくなる。しかし、路人があのリュックを持っていたおかげで一件落着だ。
「だから人間は嫌になる。どいつもこいつも自分勝手。あの人だって――俺が有名人?そんなのどうでもいいよ。過去のことだし」
路人は背負っていたリュックを下すと、そのまま部屋を去っていった。翼がぺこぺこと頭を下げて礼を言うのも聞いていない。
「あの人ってのが、お母さんだろうか」
後味の悪い事件はこうしてあっけなく幕切れをしたが、暁良の中には謎が大量に残るままだった。
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