第21話
伯爵が帰宅したのは、午前四時頃です。
伯爵はいかにも、俺バンパイアだぜーという風に、軽やかに窓から帰宅しました。
しかしその様子は、一目で普通でないと判る状態でした。
伯爵は酷く憔悴していました。
顔はいつにも増して青褪めており、髪は乱れてボサボサです。
普段はビシッと決めた一張羅も、今はヨレヨレのシワシワです。
何より小夜子が驚いたのは、伯爵の至る所に真っ赤な血液が付着していた事です。
「伯爵様……。貴方は一体何を……?」
震える声で問いただす小夜子に、伯爵は応えません。伯爵は今にも崩れ落ちそうな程、気力を失った状態で呆然と立っています。
真夜中の外出、付着した血。これらの状況を踏まえて、他に答えが出る筈がありません。
「血をお吸いになったのですか……?」
伯爵が唇を噛みました。
「吸ったのでしょう!?血を!」
小夜子が声をあげても、伯爵は一向に応えません。と言うより、応える気力がないと言った方が正しいでしょうか。
「どうして!?どうしてそんな事をしたの?街に出て狩りなどをしたら、貴方の身に何が起こるか判らないのですか!?あれ程人前に出てはいけないと言ったのに……。馬鹿!伯爵様の馬鹿!死に損ないのもうろくジジイめ!」
小夜子は涙目になりながら伯爵へ訴えます。何故泣いているのかは、自分でもよく判りませんでした。
「すまない……」
伯爵が口を開きました。
「すまないじゃ済まないわよ!このポンコツバンパイア!」
あまりの感情の高ぶりに、親父ギャグを口走った事にも気付きません。
「馬鹿!アホ!マヌケ!嘘吐き!スカポンタン!」
「…………」
「唐変木!M字ハゲ!高木ブー!うわーん!」
もう何が何だか判らなくなり、怒りながら泣いてしまいました。
どうしてこんなに怒りが湧くのか、どうしてこんなに悲しいのか、脳味噌ヒートアップした小夜子には理解できません。
ただ、信用していた伯爵が裏切った事に、小夜子はただならぬ衝撃を感じたのでした。
ポカポカとボディーブローをかます小夜子の手を、伯爵は弱々しく掴み上げました。
「すまない……。君を裏切ったのは事実だ。しかし私は血を吸ってはいない」
伯爵が口にしたやっとの弁解に、小夜子は多少平静を取り戻せたようです。
「それはどういう意味ですか?」
今まで立っているのもやっとと言うくらいヨロヨロだった伯爵は、グッタリと椅子に腰掛け、小夜子にこう説明しました。
「確かに私は、眠る君を置き去りにし街へ狩りに出掛けた。意識したのではない。本能に誘われるように、夜更けの街を飛んでいたのだ。気が付くと私は若い女が眠る部屋へと侵入していた。しかし女の首筋に噛み付こうとした時、頭の中で小夜子が止める声が聞こえたのだ」
小夜子は怪訝な顔で聞きます。
「勿論、幻聴の類に決まっているだろう。しかし確かに聞こえたのだ。小夜子が私を止める声を。私は目を覚ました。危うく本能に飲まれ、君を裏切ってしまうところだった。ところがその瞬間、女が目を覚ましたのだ」
伯爵がシャツの胸元を緩めます。
「ああっ!」
小夜子が驚くのも無理はありません。伯爵の胸元には、何か鋭利なものでざっくりと切られたような傷跡が付いていたのですから。
まだ新しいその傷からは、生々しい血液が滲み出ています。
成程、伯爵の顔や服に付いていた血は、伯爵に襲われた者の血ではなく、伯爵自身の血だったのです。
「私の姿に驚いた娘は、とっさに机の上にあったナイフのような物を私目掛けて振り下ろしたのだ」
机の上にナイフがあるなんて危ねーな。と思いましたが、恐らくカッターナイフか何かでしょう。
「私はそのまま、どうにか窓から脱出し、城へと戻って来たのだ」
大体の話は掴めました。やはりボケの伯爵でも、バンパイアの本能は残っており、きっとその本能に誘われるが儘、乙女の生き血を求めて狩りへと出掛けてしまったのです。
しかし、僅かに理性が残っていた伯爵は、自分の本能に飲まれないよう必死に抵抗したのです。
そして、小夜子との約束を思い出した伯爵は、どうにか娘を襲わず未遂で済ませたのです。
「そうでしたの伯爵様。酷い事を言って申し訳御座いませんでした」
「いや、いい。私こそ君との約束を破り、狩りへと出てしまった」
「だけど人を襲っていないのでしょう?だったらギリギリセーフじゃないですか」
伯爵は鮮血に染まるシャツを手で押さえたまま、ぐったりと項垂れています。
「それより、早く傷の手当てをしましょう」
「構わん。私はバンパイア。この程度の傷、暫く眠れば完治するだろう」
どうやらバンパイアさんの自然治癒力は、人間を凌駕するものらしいですね。
「判りました。でもせめて包帯くらいは巻かせてください。簡単な救急道具なら日本から持って来ているので」
もしもの時にと持ってきた救急セットが、意外なところで役立ちそうです。
小夜子は鞄から消毒液と包帯を取り出します。
「イテテテ……こら、痛いぞ小娘!」
「そう言われるとますます痛くしたくなります」
伯爵はリアクション芸人よろしく、消毒液がしみる痛みに悶絶しています。
誇り高きバンパイアであっても、この地味な痛みには弱いようです。
ヒイヒイ言う伯爵の傷口に、包帯を巻きつけます。
じっと包帯を巻かれる伯爵が、不意に呟きました。
「小夜子よ。ずっと此処に居てはくれないか……?」
こんな時、ドラマや映画のヒロインならどう答えるでしょう。
伯爵の手を握りニッコリと微笑んで「ええ、喜んで」とでも答えるのでしょうか。
沈黙する小夜子に、伯爵は気まずそうに声を掛けます。
「すまない。今の言葉は忘れたまえ。怪我を負ったせいか、少々弱気になっていたようだ」
伯爵のかさかさした手が、やけに目に付きます。皺だらけで、今にも力尽きそうな痩せ細った手。
それは、伯爵の生命力が僅かにしか残っていないように感じさせるものでした。
彼は確実に、老いているのです。バンパイアの命の源である鮮血に飢えた彼は、最早死に果てるのを待つだけの、生きる屍のようです。
こんなにも老いぼれた姿で傍に居て欲しいと縋る彼を見て、小夜子はなんだか不思議な気持ちになりました。
憐れむような同情するような、胸の奥が苦しくなる気持ちです。
「伯爵様。私はもうじき、日本へ帰らなくてはなりません。一生お傍に居るお約束は出来ません」
「判っている」
「けれど、今こうして苦しんでらっしゃる伯爵様も救いたいのです。私は一体、どうすれば良いのですか?」
小夜子の白い手が伯爵の皺だらけの手を握ります。
伯爵の手には、生きた人間の温もりが伝わりました。
温かい、血の通った人間の温もりです。
「……笑わないで聞きたまえ」
「すべらない話でなければ笑いませんけど」
「君がこうして、近くに居る間、私はとても満たされているのだ。君の表情を眺め、時には私を救いたいなど温かい言葉をかける君が傍にいる間、私は血を吸いたいという衝動に襲われないのだよ」
小夜子は不思議そうな顔で伯爵を見詰めます。
「何故こうなのかは判らない。しかし君と過ごしてから、私の腹は減らなくなったのだよ。満腹なのだ。バンパイアの源である鮮血を吸わずとも、私の肉体から精力が尽きる事は無かったのだよ」
伯爵の手が小夜子の黒髪を撫でました。それはまるで、愛おしい恋人か、親が我が子へする仕草のようです。
「私は、君を失うのが怖くなった。遠く海を越えた祖国へ帰るという君の言葉を聞いて、何故だか恐ろしく不安な気持ちになったのだ」
伯爵の撫でる手が止まりました。
「君が私の元を離れていく……。そう感じた時、今まで満たされていたものが全て消え失せるような気がした。急激な渇望に襲われたのだ。そうして気が付いた時には、私はもう街に繰り出し、見ず知らずの女を襲おうとしていた」
ここまで聞き終えた小夜子は、もうたまらない気持になって、伯爵に優しくハグしました。
彼にどんな言葉をかけていいかは、判りません。
ただ、弱々しく震える伯爵を両手で包み、今度は小夜子が伯爵の髪を撫でました。
「今晩はずっとお傍に居ます。安心してお眠りくださいまし」
最早今の小夜子にとって、伯爵と同じベッドで眠る事に何の嫌悪感もありませんでした。
小さい頃、一人で眠るのがやけに怖かった夜、母親が添い寝してくれた事を思い出します。
あの時のように、伯爵も少しは安心してくれているでしょうか。
「ご気分はいかがですか?」
「ふふ、不思議だな。君がこうやって来てくれたお蔭で、今ではすっかり落ち着いている」
本当に不思議です。もしもバンパイアが血に飢える感覚が人間の空腹と同じなら、一度渇望したのに再び満たされるなんてありえない事です。
何故伯爵は満たされたのでしょう?不思議ですが、これ以上問いただしても伯爵の負担になるだけです。
小夜子は横たわる伯爵の横で、静かな眠りにつきました。
翌朝待ち受ける運命など、なんの知る余地も無しに……。
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