第9話
家路に着くまでの間、伯爵の脳裏には得体のしれない不気味な思念がぐるぐると渦巻いていました。
変質した街、突如自分の前に現れた日本人の少女。伯爵の身の回りで今、不可解な出来事が点のように散らばっているのです。
そしてその点が一つの線に繋がる時、伯爵は余りに恐ろしく残酷な運命を知らなくてはならないのです。
数々の不可解な出来事に、伯爵は軽い混乱を覚えました。
ともかく今は城へ戻る事が大切です。安息の場に戻り、ゆっくりと現状を整理しなければなりません。しかし、逸る気持ちを抑えて城へと帰宅した伯爵は、大層頭を抱えました。
人が何かに行き詰った時、誰かに答えを導き出して欲しい時、どうするでしょう?もし身近に相談出来る相手が居るのなら、躊躇せずその人に相談を持ちかける筈です。
少なくとも人間がそうであるように、バンパイアもまた、思考に行き詰った際は誰かの意見にすがりたくなるようです。
ところが、今の伯爵に頼れる相手など居ません。何時だったかこの城には寵愛した美しい娘が居ましたが、今この城に居るのはあの憎きぺしゃんこな鼻のちんちくりん日本人娘だけ。
よりによってあんな小娘に頼るなんて、これでは伯爵の面目丸潰れです。
それでも街の異変についてどうしても知りたい伯爵は、暫く悩んだ末不服ではありますがあの娘に話を伺おうと思いました。
自分が戻った事に気付いているのか気付いていないのか、未だ静かに小部屋の中に居る小夜子に、出来るだけ平静を装って静かに声をかけました。
コンコン、とノックする音が響きます。
「娘、起きているか」
間髪入れず、小夜子が応えます。
「伯爵様!お戻りになったのですね。偉くお早い狩りですこと」
伯爵は小部屋に設置された小窓を開いて、小夜子の顔を覗きます。
「狩りは中止になったのだ。それより……少し訪ねたい事がある。その……話を聞いてくれないか?」
小夜子はニッコリ笑って応えました。
「ええ、喜んで。でも条件が御座います。此処から出してくださいまし。こんな窮屈なお部屋に居るんじゃ、伯爵様とのフリートークも弾みませんわ」
今更こいつが逃げ出す訳がない。そう感じた伯爵は、速やかに小夜子を小部屋から出し、上質なソファへと座らせたのでした。
「さて……訪ねたい事なのだが」
「どうぞ。なんなりとおっしゃってくださいな」
伯爵はたどたどしく口を開きます。
「君が持っていたあの……光る小さな板のような物。もう一度あれを見せてくれないだろうか?」
「光る小さな板?スマホの事でしょうか」
最新式の携帯電話も、こんな言い回しをすると一気にダサくなるものです。
「どうぞ。なんなら触ってみても宜しいですわよ」
小夜子はワンピースのポケットからスマホを取り出し、伯爵に渡しました。
「ふむ。念の為聞いておくが、これに触れたからと言って指が焼け焦げる訳ではなかろうな?」
伯爵は警戒しているのか、素直に受け取ろうとしません。
「平気ですよぉー、ほら!」
小夜子は伯爵の手を取り、その細い指先をさっとスマホの画面に触れさせました。
「わああああ!急に触れるなあああ!うわあああ!」
リアクション芸人も真っ青なナイスリアクションです。
(あれ?もしかしてバンパイアさんって、光るものに触れちゃまずいのかしら?ヤッベー。怪我させちゃったかも)
あまりのリアクションに一瞬そんな不安が過りましたが、どうやら伯爵は臆病風に吹かれただけのようです。伯爵の指は焼け焦げる事もただれる事もありません。
「伯爵様!お気を確かに!ほら、見てくださいな。何とも御座いませんわよ」
まるで注射が終わっているのにまだ痛い痛いと泣きじゃくる子供をなだめるように、優しく語りかけます。
「ん?そ、そうか。なあに少しばかり警戒しただけだ」
今更平静を装ってももう遅かろう。
伯爵は何事も無かったように小夜子のスマホをまじまじと覗きこみます。
「これは……。実に不思議だな。一体何がどうなっているのだ?」
恐る恐るスマホの画面を指先で突きます。
「おおっ!?」
(あ、スマホの画面ってバンパイアさんの指でも反応するんだ)
小夜子が呑気な事を考えている間に、伯爵の様子はみるみる変貌していきます。
「なんだこれは!う、動いたぞ!まるで生き物のように!」
「伯爵様、落ち着いてくださいまし。害はありませんのよ。これはこうして、指で動かすのです」
「おおお……。シュッとなったぞ、シュッと……」
最早最新機器についていけない、時代遅れのお爺ちゃん状態です。
「伯爵様、私に聞きたい事って、このスマホの事ですか?」
「すまほ?ああ、すまほとか言うのか、その道具は。いや、違う。私が知りたいのはそれではない。いや正確に言うと、私が知りたいのはそれを始め私が見た事もないものが何時の間にか世に存在するという事だ」
「えーと、つまり伯爵様はスマホのような最新機器をご存知ないという事ですね?」
「……先程街へ降りて行った」
「狩りの具合はいかがでしたか?」
「街中にこれと同じような妙な光を放つものが点々と置かれていた」
なにやら神妙な面持ちです。
余りにも深刻な様子の伯爵を見て、小夜子も思わず40歳童貞独身男の結婚相談に乗るような心境で(どんな心境だ)真剣に耳を傾けました。
「遠目では人間がかがり火か何かを焚いている程度にしか見えなかったのだが、近くで見ると違う。まるで太陽を硝子瓶に閉じ込めたような、激しくおぞましい光を放っていたのだ」
さあて、何と返事しましょうか。
賢明な小夜子はすぐに察しました。恐らくこの伯爵、スマホどころか電気も知らないのです。人間がここ数年で発明した文明器具の数々を、コイツは一切把握していないのです。
そりゃかがり火なんてレベルの話をしている奴に、いきなりスイッチ一つで明かりがつく電気の話をしたところで通じますまい。
「ついでにもう一つ聞きたい。人間共が大きな動く鉄の塊のような物から出てきたが、あれは一体何なのだ?」
「伯爵様。ざっくりし過ぎです。そんな少ないヒントでは答えが出る訳ないでしょう」
「いちいち小生意気な娘だな。先程街で見掛けたのだ。あれは……馬車のようにも見えたが、やけに異様な形をしていた。その上酷く耳障りな唸り声も上げていたし、喉を焼く様な異臭と煙まで巻き上げていたぞ!」
ご丁寧な説明に、漸く小夜子も何を指しているのかが理解できたようです。
「ああ、もしかしてそれって、車の事?」
「車?とすると、あれは馬車の仲間なのか?しかし馬が居なかったぞ」
「半分正解。車ってところは当たってますけど、あれは電気自動車。電気で動く車です」
「電気だと!?なんと、人間め。電気をそのように利用しているのか!」
「あのー、盛り上がっているところすみません」
「どうした?娘よ」
「お聞きしたいのですけど、伯爵様って電気をご存知ないのですか?こんなに人間の傍に住んでいらっしゃるのに?」
「馬鹿め!この私が知らない筈なかろう。電気は自然界が作り上げた超常現象だ。やすやすと使いこなせるものではない」
「そうじゃなくて、ええと確かに電気は元を辿れば自然の物ですけど、それを科学として、文明として開発した電気というのはご存知ないという事ですか?」
伯爵はなにがなんだかさっぱりという顔をしています。
「伯爵様、エジソンってご存知?」
「会った事はない」
(私だってねーよ)
「十九世紀を中心に、電気を使った発明品を多く生み出した発明家です」
「十九世紀?」
伯爵はますますきょとんとしています。
「今は十八世紀であろう?」
二人に流れる沈黙……。
「今は二十一世紀です……」
「え?」
「今は二十一世紀です!」
またしても流れる沈黙……。
小夜子はハッと気付きました。そもそも今までの伯爵との会話の流れ、どうも不自然な点が多過ぎるのです。
いくら人里離れた森の奥で生活しているとはいえ、ここまで現代文明を知らずに生活できます?
大体さっき狩りに出掛けたという事は、少なくとも小夜子がこの地へ出向く以前から伯爵は狩りを行なっていた筈でしょう。
では、実際にバンパイアが人を襲う事件が起きたら、どうなりますでしょう?
各メディアは一斉に事件を報じ、ニュースや新聞では『怪奇!現代に現れたバンパイア!?』とネタにしまくり、インターネットでも大きな話題になるに決まっています。
しかし、この街の人間は皆バンパイアなど昔話程度にしか思っていません。かつて居たかもしれないけど、そんなのただの伝承に過ぎない、と。
つまり、仮にこの地に本物のバンパイアが居たとしても、彼らはとっくの昔に滅びてしまっていて、今は伝説だけになっている筈なのです。
では、今目の前に居るバンパイア伯爵は、一体何者……?
「おい娘!何故口を開けたまま固まっている!今が二十一世紀だとか言ったな。笑わせるな!今は十八世紀。どうすれば三百年も先へ行ってしまうと言うのだ?ほんの一眠りしている間に、それ程時が経ってしまってはたまったものではない」
小夜子はまたまたピコーン!と閃きました。今日の小夜子はやけに冴えています。
「伯爵様、今ほんの一眠りしている間に、とおっしゃいましたね?」
「それが何だというのだ」
「伯爵様、私今とても重要な事に気付いてしまったような気がします。ああでも、これを伝えてしまっていいものかとは思うのですけれど」
「何を勿体ぶっている。早く言いたまえ」
「じゃ、言わせて頂きます。伯爵様、私と貴方が最初にお会いしたのは、このお城の地下室でしたよね?あの時伯爵様は気付いたらあのお部屋に立ってらっしゃいました。でもそれまで、一体お部屋のどちらにいらしたのですか?」
「棺桶の中に決まっておろう。バンパイアは棺桶に入って眠りにつくものだ」
「やっぱり……。でもあの地下室に棺桶は一つしかなかった。という事は、伯爵様はあの棺桶の中でお眠りになっていたという事ですよね?」
「当り前であろう」
「でもあの棺桶、ちょっとおかしな感じだったんです。周りが太い縄でぐるぐる巻きになっていて、その上香草や大蒜など、バンパイアさんが苦手であろうものがこれでもかっていうくらい巻き付けられていたんです」
「私が目覚めた時は、そんな物無かったぞ」
「はい。というのも、それを私が壊してしまったんです。故意ではありませんよ?ちょっと足元不注意で。それで、棺桶に張り巡らされた、まるで封印のようなものを解いてしまったのです」
「封印?」
「以前、古い書物で読んだ事があります。かつてヨーロッパで猛威を振るっていたバンパイアは、数多くのバンパイアハンターの手によって滅ぼされたと。……あ、勿論私はフィクションとして受け止めていたのですけど。それはいいとして、その方法の殆どが心臓に杭を打ち込み霧散させるという情もへったくれも無いようなものだったのです。しかしごく一部だけ、身を滅ぼすのではなくその身を丸ごと封じ込めるといったものだったのですって」
「成程。一部の同胞達はバンパイアハンターの手によって葬り去られてしまったと言う訳か。まあそれも本人の運命だろう」
やけに余裕ぶった高飛車な発言に、小夜子はこれでもかというくらい声を張り上げました。
「まだお気付きになられないのですか。このマヌケ!」
「誰がマヌケだ!」
「つまり!すっかり絶滅したと思われるバンパイアも、実はまだ現世に残っていたという事なのですよ。それが何の為かは本にも乗っていませんでしたけど、多分将来的に研究か何かをする為に一部を残していたのでしょうね。その残されたバンパイアさんは、人目に付く事もなく長い長い眠りについて何世紀もの時間を過ごしてきたと言う訳」
小夜子は名探偵にもなったかのような口ぶりで、見事な推理をしてみせました。流石はバンパイアオタク。伊達に勉強はしていません。
「伯爵様、貴方は眠っていたのですよ」
「……ああ。確かに私は、何時ものように狩りに出掛け、そして棺桶に戻った後深い眠りに就いた。そして目が覚めると君に出会った。普段と何ら変わりない日だと思っていたが……」
「伯爵様……。今は二十一世紀ですよ。貴方の知っている十八世紀では御座いません。貴方は長い眠りと共に、膨大な時間を旅してしまったのです」
「何という事だ……」
伯爵は俯きました。こころなしか、肩が震えているように感じられます。
「伯爵様……」
「君は未来から来たというのか!?」
「違―う!」
ズコーッ!こんな時までボケ倒す伯爵に、流石の小夜子もぷっつん寸前です。いい加減気付けよバカヤロウ。
「ですから!伯爵様、あなたはきっと十八世紀に封印されていたのです。それから三百年も目覚める事無く、この城の地下で眠っていたのだけれど、何かの拍子で目覚めてしまったのです」
ここまで説明すれば、このトンマな伯爵も事実を受け止めるでしょう。ところがこの偏屈者、それでも頑なに状況を理解しようとはしません。
「待ちたまえ。私が封印されていただと?冗談も大概にしろ。この私がそう易々と人間ごときに封印される筈があるか」
こんなおマヌケバンパイアを封印するなんて、赤子の手を捻るより簡単です。
「もう!わからず屋ね。冷静に考えてみてください。貴方が生きた時代に貴方が街で見た物はありまして?無かったでしょう?電気で明かりを灯す街灯も、電気で動く自動車も、全部二十一世紀に存在するものなんです。貴方は久しぶりに目が覚めたから、すっかり時代に取り残されちゃっているんだわ」
ここまで言い切る小夜子の言葉を聞き、伯爵は少し考える気になったようです。
と、いうよりも、小夜子には伯爵が少し落胆しているように見えました。
そりゃあそうですよね。本人にとってはほんの一眠りしていただけのつもりだったのに、目が覚めたら世間では何百年もの時が経ってしまっていたのですもの。まるで浦島太郎状態です。
いくら魔物といえども、これだけショッキングな事実に対面してしまったら、動揺を隠せません。
「伯爵様。お気を確かに」
肩を落とす伯爵の姿が余りにも哀れだったので、思わず優しく、そっと気遣うような声を掛けました。
「君の話が本当なら、私は長い間封印されていたと言う訳か……」
「信じたくないでしょうけど、残念ながら私の話は本当です」
項垂れていた伯爵がそっと顔を上げます。
「目覚めた時からぼんやりとは感付いていたのだ。何かがおかしいと。目が覚めると目の前に君のような妙ちきりんな娘が居て」
「妙ちきりんで御免遊ばせ」
「城の様子も変わっていた。我が下僕達の姿も無ければ、まるで長い期間放置されたかのように埃被った部屋もあった」
そういえばバンパイアは鼠や蝙蝠を下僕として使えていると本で見た事があります。
「しかし、それらの事実があったとしても、我が身が数百年に渡って封印されていたなどと受け入れられるか。信じたくないと思って当然だろう」
伯爵は自身が置かれた立場を理解しながらも、それを受け入れたくない。真実を認めたくないと葛藤しているように思えました。
一体小夜子は、伯爵に何と声を掛ければよいのでしょう?ただ一つ言える事は、伯爵が余りにも可哀相だという事。
大きな時間の流れにたった一人取り残されて、まるで時の迷子となってしまった彼の心境はどんなに心細いでしょう。
「伯爵様……」
同情ではなく心底哀れに思った小夜子は、思わず伯爵の顔を覗きこみ、どうにかして彼の心を励ましてあげたいと感じました。
「私が……三百年間も封印されていたなんて……」
震えるような小声で伯爵は呟きました。そしてグッと牙を食い縛った後、こう叫んだのです。
「三百年間も美女の生き血を逃してしまったなんてー!」
バカ!アホ!スケベ!スカポンタン!
もうこれ以上この伯爵、いえこのアホに同情の余地はありません。
そこにショック受けてたのかよ!そうじゃねえだろ!
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