第6話
「ストップ!ちょっとお待ちになって!おじ様!」
言われるがままに、男性は行動を一時停止しました。どうやら紳士的なバンパイアのようです。
だって、手の内に獲物があるにも関わらず、強引に押さえつけて無理矢理吸血しようとはしないのですから。
小夜子の肩がぶるぶると震えます。バンパイアに襲われるとは、すなわち死を意味するもの。流石の小夜子もこれには怯えているのでしょうか?
「我々不老不死の一族とは違い人間は短命な生き物……。故に死を恐れるのは仕方あるまい」
「……素敵!」
ところが、小夜子の口から出た言葉は、男性が予想する言葉とは180度違うものだったのです。
意外な展開に呆気にとられてすっかり緩んだ男性の手を掃い、小夜子はそのままくるりと後ろへ振り返りました。
「本当に私の血を吸ってくださるんですね!?」
恐怖に慄くどころか、夢見る少女のように瞳を輝かせて意気揚々としています。
「それって凄く素敵!だって、こんなに若く美しい状態で憧れのバンパイア様に血を吸われて絶命できるんでしょう?こんな素敵な最期ってないわ!」
きゃあきゃあとはしゃぎながら、小夜子は男性の両手を取ります。
「さあ、どうぞ!私の血をお吸いになって!どこからでも構いませんよ?」
「…………」
「あ、こんなところで立ちっぱなしじゃ、ムードがないかしら?ねえおじ様。このお城に天蓋付のベッドか何かは御座いませんこと?」
相変わらず呆気にとられたままの男性からするりと抜け出し、キョロキョロと部屋の中を見渡します。
「こら!勝手にチョロチョロするんじゃない!」
最早バンパイアと言うより、幼稚園の先生みたいな台詞です。
「ねえおじ様、私の血を吸って私が死んじゃったら赤い薔薇を敷き詰めた棺桶に入れてくださいね。そのまま遺体を放置なんて嫌ですわよ」
ちっとも人の言う事など、聞いちゃいません。
「娘!さては貴様、まだ私がバンパイアだと信じていないな!?」
男性は声を荒げます。
「何故そう思うのですか?だっておじ様は鏡に映らなかったり出たり消えたりするでしょう?これだけ証拠を見せられたら、少なくともおじ様はバンパイアであると信じられますよ?」
「出たり消えたりなどと間抜けな言葉で褒めるのではない」
褒めている訳ではないと思いますが、この状況で誉め言葉と受け止めるあたり、コイツも大概ポジティブです。
「ならば何故そのように呑気な顔をしていられるのだ。私はバンパイア。人間ではなく闇に生きる魔族。そして私は今、君を捕らえて生き血を頂こうとしたのだぞ?」
「はい。判っています」
小夜子の返事は余りにあっけないものでした。
「……娘、もう一度言おう。私は人間ではない、バンパイアだ」
「だから信じているっていったじゃないですか。貴方そんなに大きな耳をしているのに、耳が悪いのね」
「バンパイアが今君の生き血を吸おうとしているのだぞ……?」
「ええ、ですから早く私の血をお吸いになって貴方の舌根を満たしてくださいな」
「判っているのか!?死ぬのだぞ?」
「判っています。死にます」
小夜子は恐怖に慄く訳でもなく、かといって死を受け入れて悟っている訳でもなく、今までと何ら変わりない表情で淡々と会話を続けました。
「私は死を恐れていません。遅かれ早かれ、この世に生を受けたからには必ず終焉は来るものです」
小夜子の小さな白い手が、男性の冷たい手を取ります。
「だけど大概の人は自らが望まない形で終焉を迎えるのです。よくニュースで聞くでしょう?……と、バンパイアさんはニュースなんて見ないか。とにかく、殺人事件の被害者であったり不慮の事故で命を落としたり、残念ながらそういった形で命を落とす人は沢山居ます。そうやって無念の死を遂げた人は、きっと死んでからもずっと悔み続けると思うんです」
男性の手を握る小夜子の手に、力が入ります。
「自分が望んだ形で最期を迎えられたら、どんなに素晴らしいか!人間にとって幸せな人生って、きっと最期を理想の形で締めくくる事だと思うのです」
静かな微笑を浮かべながら、小夜子は男性を見つめます。
「私はずっとバンパイアに憧れを抱いてきました。それが幻想であると判っていても。だけど今私の目の前には本物のバンパイアが居る。そして私の血を欲している。こんな素敵なシチュエーション、きっとこの先何十年生きたとしても巡り合えないでしょう!?ならばいっそ、今ここで私のお命貴方に授けます!」
「本当に恐ろしくないのか?死ぬのだぞ。今ここで死んだら、もう君の生まれ故郷にも帰れまい。肉親や愛する者にも、もう会えないのだぞ?」
「そりゃあできれば家族くらいとはお別れの挨拶をしたいですけれど……。でもここで日本に帰っちゃったら、もう二度とこんなチャンスないでしょうし……」
「君はまだ若い。未来もある。こんなところで人生を終わらせてしまって本当にいいのか?」
「もう!しつこいわね!こっちがいいって言ってんだから、あんたもグズグズしてないでさっさと血ィ吸っちゃいなさいよ!」
どうして血を吸いたい筈のバンパイアが拒んでしまい、血を吸われる筈の幼気な少女が檄するのでしょう。
男性は小夜子の手を放しました。
「気が変わった……。君のような変わり者の娘を手に欠けるのは少々気が引ける。全く何なのだ一体。こんなに奇妙な言動の女は初めて見た」
「……おやめになるのですか?」
「命拾いしたな、娘」
「なによ意気地なし!あれだけ脅かしといた癖に、結局血の一滴も吸いやしないじゃない」
「やかましいわ!私は恐怖に慄く娘の表情を愛でるのが好きなのだ。君のように飄々とした娘など相手にしても、面白くない」
「面白いか面白くないかなんてこの際どうでもいいでしょう?コントじゃあるまいし」
むすっと膨れる小夜子の背中を、男性が押します。
「出て行け。そしてもう二度とこの城には来るな。それからくれぐれも私の事を口外するのではないぞ」
「随分と注文が多い人ですこと。帰れと言われて素直に帰るとでもお思いですの?」
「素直に言う事を聞かぬと恐ろしい目に遭うぞ?」
「血ィ吸ってくださるのですか!?」
「…………」
男性は長い沈黙の後、まるで残業宣告された中年サラリーマンのような重苦しい溜息をつきました。今の男性はとにかくこの小賢しい小娘を追い出したい気持ちで一杯です。
かと言って脅かせば嬉々として受け入れるし、まったく厄介な客人を招いてしまったものです。
「さては娘、私がバンパイアだという事を信じたふりをしているだけだな?でなければそんなに冷静でいられる筈はない!」
「まあ……。素直に信じてはいけませんか?」
「いけないと言う訳ではないが……。私が今まで正体を明かした人間は、皆直ぐには信じようとしなかった。こちらがどれだけ正体を見せようが、頑なにその事実を受け止めようとしなかったのだ。しかし君は……」
「物わかりのいい良い子でしょ?」
「いや、余りに物わかりが良すぎるとかえって訝しいぞ。驚きもせず怖がりもせず、その上死すら恐れないなんて、君のような年端もいかない娘では考えられん」
「今時の若者は淡白なんですのよおじ様。それより、それ程まで私の事を疑っているとでも言うのですか?」
「疑うというか……。いや、むしろこの場で疑うべきなのは君の方であろう?」
「何よそれ、貴方私に疑って欲しいの?」
「そういう意味ではない!」
「じゃあどうすりゃいいのよ!」
一体何が起こっているのでしょう。正体を明かしたバンパイアに、日本から来たゴスロリ少女。
このシュールな二人が何をやっているかと思えば、中身があるのかないのか判らない、どうでもいい口喧嘩もどきで盛り上がっています。
どうもこの男性、もといバンパイアは、自分の正体をここまでアッサリ飲み込む人間に戸惑っているようですね。
「娘よ、正直に答えろ。君は本当に私がバンパイアであると信じているのかね?」
「もちろん、信じています。だって今この目で確認したもの」
小夜子の小さな目が猫のようにカッと開きます。
「私はね、自分の目で確認できないものが信じられないのであって、何も噂や伝承を全て嘘だと思っている訳ではないのですよ。私は確かに今までバンパイアなんて信じていませんでした。でもそれは、実際に確認する機会がなかったからです。だけど私はたった今バンパイアの存在を確信しました。だっておじ様は鏡にも映らないし姿だって消して見せたわ。その上私の、若い娘の生き血まで欲していたわ。こんな条件が揃っていて、むしろバンパイアでない方がおかしいでしょう?」
相変わらずペラペラと喋る小夜子ですが、彼女の口ぶりからすると、どうやら嘘は吐いていないようです。本当にこの男性がバンパイアである事を、信じたようです。
「そうか……。君は自分の目で見たものは疑わないと言うのか」
「はい、ですからもし私の目の前に幽霊や宇宙人が現れたら、その瞬間から私は幽霊や宇宙人を信じるようになるでしょうね。私は自分で見たものだけを信じる主義なんです。例え世間一般であり得ない存在と謳われたものでも、私がこの目で確認したのなら、それは実在すると信じますわ」
キッパリと言い切る小夜子に、男性は漸く小夜子が本当に自分がバンパイアである事を信じてくれたのだと、納得したようです。
「それにしても、随分と肝が据わった娘だな。普通バンパイアに襲われかけたら、もう少し取り乱すだろうに」
呆れたように、男性が言い放ちます。
「あら?吃驚して欲しかった?」
小夜子はすっかり余裕綽々です。
「私が怖くはないのか?」
「別に。口が耳まで裂けていたり目玉が三つあったりしたらそこそこ怖いですけど。それに憧れのバンパイア様に襲って頂けるのでしたら、本望ですわ。まあ仮に貴方が狼男やフランケンシュタインの怪物でしたら、顔に裏拳をかましてでも逃げたでしょうけどね」
男性はすっかり拍子抜けしてしまったのか、これ以上小夜子に問答を交わしませんでした。このちんちくりんな小娘は、普通の娘のようにバンパイアを恐れたり疑ったりする類ではないと、把握したようです。
それどころか、余裕の小夜子は遂にこんな事まで言い出しました。
「そうだ、おじ様。折角ですから写真を撮っても宜しいですか?最期の記念に2ショット写真を撮りたいのです」
「しゃ、写真……?」
「そうです。あ、でも鏡に映らないという事は写真にも写らないのかしら?」
「写真とはなんの事だ?」
「……ご存知ないのですか?」
小夜子は半ば呆れたような、小馬鹿にしたような態度でこう言います。まったくこのバンパイア、写真の一つも知らないのか。いやしかし、こんなに人里離れた古城で暮らしているのですから、多少文明から切り離されても仕方ないのかも?
「これをご覧くださいまし」
愛用の黒い棺桶型ポシェットから取り出したのは、今時流行りのスマホ、スマートフォンです。
まるで格さんが印籠をかざすように、(あれ?助さんだったけ?まあどっちでもいいか)眩い液晶が光るスマートフォンをさっと男性に向けて見せます。
「な、なんだそれは!」
予想以上のオーバーアクションに、小夜子はちょっぴり意地悪したくなりました。コイツ、写真も知らないだけあって、スマホなど見た事もないんだな。
言わば超古代人が最先端の文明機器に触れるようなものなのです。
こんな面白い状況を前にして、遊ばずにいられますでしょうか。時代遅れのバンパイアを苛めるには、たかだかスマホであっても充分遊び道具です。
よしいっちょ、このバンパイアをからかってやりますか。
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