第3話
棺桶の手前に、何者かが佇んでおります。
「君……」
もう一度小夜子に語りかけます。さっきより少し戸惑ったように。
「あの……貴方は……?」
震える喉をそっと抑えながら、小夜子は其処に佇む人物に話しかけました。
なにしろ立ち入り禁止と書かれている場所へ勝手に侵入し、そのうえ正確な価値は判らないけれど、もしかしたらアンティーク的な価値はそれなりにあるかもしれない城の備品を壊してしまったのですから。
悪戯がばれてしまった子供のように、首をすくめて相手の出方を見るしかありません。
「あの、貴方はこのお城の方?」
いくら猛勉強したとはいえ、このように緊迫したシーンになると得意のルーマニア語もたどたどしくなってしまいます。
小夜子の前に立つ男性――ええ、男性でした。薄暗くてよく判りませんでしたが、その低い声と大変な長身である事から、この人物は男性であると理解しました。――彼は小夜子の問いかけに答える事無く、じっとこちらを見つめています。
「…………」
「…………」
暫しの沈黙。
どうしましょう。少なくともこのお方は、立ち入り禁止の部屋に居たので、この城の関係者と捉えるのが妥当です。きっと、小夜子がこの部屋に入るずっと前から此処に居たに違いありません。
もしかして、小夜子のようにこの部屋へ侵入してきた観光客を追い出す為の係員なのかも。だとしたらまずいですよね?
だって、小夜子が勝手にこの部屋に入った事も、無様にすっ転んで備品を壊してしまった事も、全部見られていたのですもの。ああ、どうしましょ。
「君は……誰だ?」
その男性はゆっくりと唇を動かし、小夜子に尋ねます。
「はい……。えっと、私は白川小夜子。日本から来た観光客で、今日はこちらの古城を見学させて頂きまして……」
こういう時、嫌でも律儀に答えてしまうのが、日本人の悲しい性と言うものです。
「あの、悪気はなかったんですのよ。ただ此処に何があるのかな、って思って。それで来てみたんですけど、鍵がかかっていて。それでその、鍵は勝手に開いたんです。というより、壊れちゃったのかな?とにかく私が強引にこじ開けたとか、そういう訳ではないんです。それで私、早く戻らなきゃと思ったらバランスを崩して。ええ、だから悪気はなかったんです。運悪くつまずいたら、たまたまそこに棺桶があって」
「一寸黙ってくれないかね?」
「あっ、御免なさい。私喋り過ぎたわね。よく言われるの、お前は一度話し出すと止まらないって。会話のキャッチボールじゃなくて会話のドッヂボールだって。相手に話す隙を与えないのかしらね。そういうつもりじゃないんですけど。よく言ってくれるでしょ?ええ、すみません、本当に。喋り過ぎないよう注意しますわね」
散々喋り過ぎた後に、小夜子はやっとそのよく動く唇を閉ざしました。
「風変わりな娘だな。どこの国の者だ。見た事の無い顔立ちをしている。酷く鼻が潰れているし、眼は小さくて黒豆のようだ。おまけに手足が短く全く色気がない」
これは心外です。確かに欧米人に比べたら、純粋なモンゴロイドの小夜子は彫りが浅く、手足の短いちんちくりんかもしれません。しかし、初対面の男性にいきなりそんな事を言われるのは、いくら温厚な大和撫子でも怒りを露わにするでしょう。
「ちょっと!」
小夜子の声がしいんとした部屋に響き渡ります。
「貴方失礼だわ!いくら私がこのような部屋に勝手に侵入したからと言って、見ず知らずの男性にそこまで言われる筋合いは御座いません!大体貴方、ここで働いているのなら日本人くらい見た事があるでしょう?」
「日本……人……?」
「ええそうです!アイムジャパニーズ!そりゃあ私は特別美人だなんて自負しちゃいませんわよ。だからといって、初対面のレディに向かってそのような事をおっしゃるなんて、失礼じゃないですか!」
憤怒の表情でまくし立てる小夜子に、流石の男性も多少は悪気を感じたようです。
「すまない……」
「意外と素直ね」
「日本か、聞いた事はある。遥か東に黄金郷と呼ばれた島国があるそうだな」
「偉く情報が古い気がしますけれど、間違ってはおりません」
「しかし、そんな異国の地から何故遠く離れたこの国へ来たのだ。奴隷船にでも乗せられたのか?」
「貴方はこのような上等の服を纏った奴隷が居るとでもお思いですか?」
『奴隷』とまで言われて、若干喧嘩腰の小夜子です。
「ふむ……。確かにそれなりに身分の良さそうな召し物だ。余り見かけない服装ではあるが。しかし君、私の城で何をしているのだね?」
「私の、城?」
「そうだ」
「貴方のお城なんですか?」
はて?この男性は何を言っているのでしょう?確かにこの古城はかつて人が住んでいたようですが、現在は無人で管理人さんが所有者となっている筈です。
「此処は私の城だ。君のような少女が立ち寄る所ではない。何処から潜り込んだのか判らないが、早く立ち去るがいい。さもなくば……」
「さもなくば?」
「いや、やめておこう。私は君のような少女にまで手を下す趣味はない」
「相変わらず失礼ですのね。私こう見えても十九歳、今年で二十歳になりますからもう少女では御座いません」
「冗談は顔だけにしたまえ」
何やらトンチンカンな会話を暫く続けた後、小夜子はこの男性のある特徴に気付きました。
暗い部屋なのでよく見えなかったけれど、この男性、なんて色が白いのでしょう。
地上からの僅かな自然光でぼんやりと霞む部屋で見ても、他の白人よりずっと色白なのは明らかです。白いと言うより、青白いと言った方が適切でしょうか。まるで血が通っていないように、冷たい肌の色をしています。
肌の色だけではありません。よく見るとこの殿方、相当な眉目秀麗です。
小夜子よりもずっとお歳を重ねているようですが、彫り深いお顔立ちが素敵なロマンスグレーです。恐らく若い頃は、もっともっと素敵な美男子だったに違いありません。
「何をぼーっとしている?」
「おじさん。じゃなくておじ様」
さっきまでの怒声ではなく、語りかけるような口調で呟きます。
「こんなお城の暗がりにおじ様みたいな素敵な殿方がいらっしゃるなんて、おじ様はまるでバンパイアみたいですわね」
ほんのちょっと、場の空気を和ませようとして小粋な洒落を言っただけなのに、何故か男性の表情がぐっと険しくなります。
(失礼だったかしら……)
「あの、お気を悪くなされましたか?御免なさい。でも本当にそう思ったんですもの。つい口に出してしまったんです。悪気はないんですのよ?貴方がさっき私に向かって鼻が潰れているだの手足が短いだのおっしゃった事と同じです」
一見流したように見せておいて、実はしっかり根に持っているようです。
「帰れ」
「えっ?」
「帰れ。今すぐに。君は少し余計な事を知り過ぎた。まだ日は高い。今からなら歩いて森を抜けられるだろう。此処で私に会った事は忘れたまえ。もう二度とこの城に来るのではない」
どうやら気を悪くしたようです。そもそも無断で侵入したのは小夜子の方ですから、帰れと言われた以上長居する訳にはいきません。
「申し訳御座いませんでした。でもおじ様、この城に来るか来ないかは私が決める事ですわよ?貴方さっき、この城は貴方のものだとおっしゃいましたけど、私きちんと管理人さんに断ってから此処へ来ましたし、私以外の観光客も普通に侵入していますわ。この部屋に入ってしまった事は謝りますけど、だからと言って私の行動範囲まで口出しされる筋合いは御座いません」
「口の減らない娘だ。帰れと言っているのが判らぬのか」
「申し訳御座いません。何やらお邪魔をしてしまったようですね。では今日は失礼致します」
小夜子は小さく会釈をして声をかけましたが、男性は何か思い詰めたような、神妙な面持ちをして動きません。最後にもう一度男性の顔を見ようと振り返りましたが、男性はそのまま動かず、少し顔をうつむけたようにして、考え込んでいるようです。
小夜子はそっとドアを閉め、足早に階段を上がりました。暗がりを抜け微かな眩暈を感じると同時に、もやもやとした疑念を抱きます。
何故あの男性は、誰も居なかった筈の部屋に居たのでしょう。小夜子が気付いていなかっただけで、実は初めからあの部屋に居たのでしょうか。
それに、最初は気付かなかったのですが、あの男性が部屋に現れた後、閉じていた筈の棺桶の蓋、開いていませんでした……?
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