第9話
治療に必要な道具を買い込んだ後、鷹松を乗せた車は高速道路入口近くにある駐車場に停められた。長距離トラックなどが夜間車をとめて休憩をするのによく使われる場所で、昼は駐車量も人通りも少ない。
ここであれば人に注目されることもないだろう。へたに人の目を避けて薄暗い建物内に入るよりも逃げやすい利点もあった。
加州は車を降りると後部シートの助手席側のドアを開ける。
「
「……ああ、すまねえ。頼む」
体を少し動かしただけで右太腿に激痛が走る。鷹松は唸るように歯を食いしばり、後部シートに横になった。片手を挙げ額に浮かぶ脂汗をぬぐう。
「でも俺でいいんスか? お医者さんにいったほうが……」
「何度も言わせんな。とりあえずズボン切ってくれ」
気づかわし気な加州の声に、鷹松は軽く加州の頭をひっぱたいた。
鷹松はここに来るまで何回も加州に、医者には行けない、ずたぼろのままで幸内のもとに戻れるか、と繰り返した。加州はそのたびに不服そうだったが結局医者に連れて行くことも、幸内のところにさっさと連れて行く、そのどちらも強行はできなかった。
今の鷹松はある意味手負いの獣だ。下手に刺激をすれば何をしだすかわからない状態だった。
加州は購入したハサミをビニール袋から取り出した。
本当は大ぶりの裁ちばさみがほしかったところだが贅沢はいえない。取り出したハサミでまず血でぬれてない布地の場所を小さく切る。切った穴から刃先を片側だけ差し入れゆっくりと血で湿ったズボンを切っていった。
その間中鷹松は息をつめ、じっと加州の手元を見つめている。
加州は傷に当たらないようにズボンをつまみあげて切っていくが、少しでも傷に当たればはったおされそうな鷹松の雰囲気に、自分の傷ではないのに、なぜだかじっとりと額に脂汗が浮かぶ。
「よし、切れた」
傷が見れるように切り開けられたズボンから、血に塗れた太腿がみえる。
「これ」
加州は自分のズボンからハンカチを取り出し細く折りたたむと、鷹松の口に咥えさせた。
「じゃあいくっスよ」
加州は消毒薬を取り出すと傷口めがけて垂らした。激痛が一気にはしる。
「――っ!」
鷹松の体がのけぞった。ハンカチを咥えていなければ舌を噛み切っていたかもしれない。あまりの激痛にばたつく足を加州は体で抑え込み、消毒薬と血でぐしゅぐしゅな傷口にガーゼを押し当てた。
「ん――ッ! ンン――ッ、フ、ッング!」
鷹松の手が宙をさまよい、運転席のシートの縁にあたると、強く掴んだ。指先が白く、今にも爪がはがれそうなほど強く。反射的に痛みを与える加州を殴りつけたかっただろうに、鷹松はわずかに残った理性で耐えた。
「ふっ……ふー……、っは……」
鷹松の顔は激しく力んだせいで赤く、目は充血していた。目じりから涙があふれていたが、激痛のために鷹松は気づかない。気づいていたら、弱い部分を加州には見せはしなかっただろう。
加州もそれを知っていたからなるべく顔は見ないようにしていた。
血で濡れそぼったガーゼを捨て、新しいガーゼで傷の周りを拭いていく。ガーゼが太腿に触れるたび、鷹松は苦痛の声を漏らした。
気を失ってしまえれば幸いであっただろうに、なぜだか意識は飛んでくれなかった。
暗い車内で加州がいろいろと手当てをしてくれている影が見える。普通であればパニックに陥って使い物にならないだろうに、加州はできうる限りのことをしてくれていた。さっきまでの青い顔が嘘の様だった。腹を座らせたら肝の座りは誰よりも良いのかもしれない。
普段はなつっこい犬のような雰囲気だったのに、今は腹立たしいが頼もしく映った。知らず、鷹松の口の端に笑みが浮かぶ。
これならば俺も肩の荷が下ろせてついていけるな。
ほっとしたのだろうか。急激に視界が暗転し鷹松は意識を手放した。
「水哉さん、水哉さんてば」
鷹松の方を揺する手があり、鷹松は意識を浮上させた。
加州が心配そうに覗き込んでいた。
「どのくらい、気を失ってた?」
「三十分くらいっスかね。ゴミはビニール袋にまとめて、手だけ洗ってきたっス」
「そっか。すまねえな」
加州も治療の時に血が付いた服を着替えたのか、先ほどの装いとは変わっていた。
後部シートに寝転がったままでいた鷹松はゆっくりと身を引きずり起こす。撃たれた右太腿には白い包帯が幾重にもまかれていた。撃たれてからだいぶ時間が経っていたが、死んでいないところを見ると動脈からはそれたらしい。まだ数時間はなんとか持ちそうだった。
「組に戻ってくれ」
スーツの上着を脱ぎ膝にかけ、鷹松はシートベルトを締めた。ぱっとみ、怪我人が乗っているようには見えないだろう。町中に戻るのだ、余計な騒ぎは起こしたくなかった。対応する余裕も余力もない。
いつもなら即座に従う加州は「いやです」と短く拒否した。
「……は? なんでだ、馬鹿か」
「なんでってなんで戻るんですか。水哉さん、怪我人なのにッ。怪我人はまず治療でしょ」
「親父が、組長が狙われたっていうのに、若頭の俺が戻らなくていい理由なんてネエんだよ! いいからだだこねてねえでさっさと向かえ。ぶっ殺されてえのか!」
いつもは従順な犬が肝心なときに拒否った。
思わず鷹松は怒声を加州に浴びせた。怒鳴るだけでも激痛で太腿が悲鳴を上げる。鷹松は体を丸め息をつめた。
「そんな傷で……連絡したらいいじゃないっスか。怪我したから戻れないって」
加州は心底こちらを心配している。いつもはひょうひょうとして腹の中で何を考えているかわからないのに、そういう態度に出られるのは癪に障った。
加州は携帯をちらつかせる。呼びますね、と言っているかのようだった。
「んなわけ行くか。いいからさっさと車をだせ」
「いやだったら!」
加州はいつになく激しい口調で拒絶した。
「今戻ったら水哉さんは殺されるっ。そんなのいやですよ!」
「はあ? 何で殺されなきゃなんねえ……」
鉄砲玉が確かに自分の名前を出していたと言っていたが、それだけですぐに殺されるわけはない。仮にもこちらは身内で若頭なのだ。疑われたとしては弁明も何もせず殺されるわけがない。そんなことは加州もわかっているはずだった。なのに。
——だったら、加州は。
「ちょっとまて」
「なんスか?」
「お前なんか知ってるな?」
「……」
加州は顔をしかめ鷹松から顔をそむけるように前を向いた。その態度が知っていると語っていた。ミラー越しに見える加州の顔はこわばっている。
「言えよ」
下唇を噛み、加州はわずかに目を伏せる。
鷹松は締めたシートベルトを外すと前かがみになり銃を取り出しだ。黒い黒い艶光りするそれを、鷹松はためらいもなく加州の後頭部に押し当てた。
加州ははっとして顔をあげる。後頭部に当てられた感触と、ミラー越しに見える鷹松の表情で分かったのだろう。加州の顔は恐怖でこわばった。
怖くないはずはないだろう。
さあ、吐け。
話して、恐怖から開放されろ。
「言えよ」
鷹松は低く短く促す。だらだらとしゃべって時間を費やすのが惜しかった。
しかし加州は強く目をつぶりふるふると頭を振った。
「言わないなら俺は遠慮なくお前の頭をぶっぱなす」
「……撃ったら俺が何を秘密にしてたか、分からなくなるっスよ」
「お前が死ぬのを選ぶって言うならしょうがねえ。そのくらいは融通利かせてやるよ。俺は優しいからな」
鷹松は加州に意識させるように銃口で小突く。加州はそれでも口を開くことはなかった。
鷹松はしばらく待ったが、心変わりしない相手に不服そうに鼻を鳴らした。
「強情なお前はある意味尊敬する」
「じゃあ……」
「だったら次はこれだ」
鷹松は加州から銃を離すと自分のこめかみに押し当てた。
ぎょっとしたのは加州だ。
慌てて振り向こうとする加州に鷹松が左足で座席を蹴った。
「こっちを振り向いたら俺は自分を撃つ。お前がしゃべらなくても撃つ」
鷹松はしっかりとベレッタを握りせせら笑った。
さあどうする? お前は俺を見殺しにはできねえだろ?
鷹松には確固たる自信があった。こいつは俺を殺せない、と。
「言えよ、いまさら怒られるとかで怖がってるわけじゃねえんだろ?」
そして鷹松は数を数え始めた。逆に。
だらだらと問うてもこいつは動かない。
だから時間を提示してやった。
「十――」
加州の口の端が戦慄いた。
「九――。八――」
加州は心の中で目まぐるしく葛藤している。言うか言うべきでないのか。
鷹松は分かっていて遠慮なく続ける。
「七――、六――」
鷹松はじっとミラーを見つめる。だんだんと青くなっていく加州に挑戦的な目を向ける。チキンレースはお手の物だった。場数が違うのだ。つい最近まで一般人だった男が敵うわけがない。
「五、四」
急にテンポを上げた。
加州は大きく肩を震わせ、そしてうなだれた。
加州は、――陥落した。
「赤崎金融にがさ入れが入ったのは……水哉さんと刑事の一人が手を組んで仕掛けたことになってるんです。赤崎の縄張りを本条組のものにしようとして」
「……はあ?」
「もともと俺本条組に入ったの、組をつぶすためだったんスよ。親父は母さんが死んでから親父面して現れて。正妻に気を使って今まで見向きもしなかったってのに、急になれなれしくなって。跡継ぎとか馬鹿みたい。仕返ししたかった」
加州は唾棄すべき事実を語り、顔をしかめた。憎悪といってもいい色が加州の顔ににじんでいた。
「でもそこでアンタが邪魔になった。俺ね……アンタが通ってた高校に通ってたんですよ。子供の頃に月バスっていう雑誌を見て、アンタすごくかっこよくてあこがれたんです。その高校に入ってアンタみたいになって、もしかしたらOBのアンタに会えるのかなって期待した」
でも鷹松は二年で学校を辞めてしまった。
まさかここで過去を思い出すとは思わなかった。
鷹松は顔色を変えることはなかったが、わずかに手に持っていた銃が震えた。顔を伏せたままの加州には鷹松の変化は気づかない。
「でもアンタは学校を辞めてて、俺は失意のどん底で高校を終えて。もう会えないのだろうって思ってたところで橋本さんの店でアンタに出会った。アンタの雰囲気は昔と変わっていたけど、でも笑ったところとか気さくに話しかけてくれるところとか、そういうのが普通の人みたいで嬉しかった。橋本さんと仲がよさそうだったからまた会えるだろう。いつか高校のときのこと言えればと思ってたところで親父が来た。アンタを連れて」
加州はぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「やくざはクソみたいな奴らで、親父もクソで復讐したくてしたくて。でもアンタは親父に心酔してて親父もアンタを大事にしてた。親父には復讐したかったけどアンタは傷つけたくなかった。そこから計画が始まったんス」
加州の涙は留まることをしらず頬をしとどにぬらす。顎さきまで垂れた涙は幾粒か下に落ちていった。
「水哉さんの周りには仲のいい人たちがいた」
「堀越と橋本か」
「そう。三人一緒だったらやりにくかったから引き剥がしたかった。橋本さんにまず女をあてがった。言わなかったけど、赤崎のところからアンタに内緒で女を融通してもらった。借金が膨大でどうにもならなかったようで、金をちらつかせたら早かった。ちょうどやり取りをしてるところを村中さんに見られたんですよね。あの時はヒヤッとした。けど橋本さんほんと疑わない人で、女に夢中になった」
橋本の嬉しそうな顔を思い出す。いつかだまされると思ったが身内に足元をすくわれるとは皮肉なものだ。しかもこんなバカに。
「次は堀越さんだった。どうしようかと思ったら村中さんと一緒に帰るところを見かけて。橋本さんの計画の邪魔しそうだった村中さんを狙おうと思った。堀越さんの大事なものだったし。だから昔知り合ったチンピラ崩れ使って襲わせた」
「お前……」
奇麗な顔の下にはこんなにも醜い顔が隠れていたのか、と鷹松は愕然とした。鷹松の腹はふつふつと怒りで沸騰しそうだった。顔から怒りが噴出しそうだった。
「もちろん軽くぶつかる程度でって。うまくことが運んだと思った。堀越さんは村中さんに付きっ切りになってアンタから離れてった。アンタは独りになって、それでアンタと俺との距離がぐんと縮まった気がした。そのあと、俺アンタが世話してた男の人のところいって」
「お前が追い詰めた、のか……」
鷹松は左手を伸ばし加州の噛みを鷲掴んだ。痛みに加州は顔をゆがめ顔をあげた。
「わ、わかんない。わかんないよ。でもそうなのかも……。でも死ねってあのおじいさんに俺は言ってない。もう集らないでくれとも言ってない。……そうじゃなくて、俺はアンタと離れてくれってお願いしたんです。もう来ても追い返してって。親父に金をねだったら札束くれたから、それを差し出してもう付き合わないでくれって。その人俺を見てから、分かったって金受け取って。その後」
今でも時折窓枠に集った黒いもやを思い出す。
松浦は金を素直に受け取るような人ではなかった。でも加州の金は受け取った。
あの人は自分よりもずっと親父を大事にしてて、その子供である加州も大事にしたのだろう。唯一自分が出来ることをして、加州の願いをかなえた。
こんな馬鹿のためにだ。
そしてこんな奴だと知らず自分は弱さをさらけ出した。
吐き気がした。
「そして最後は親父。刑事とアンタが組んで他の組にちょっかいを出すとなれば、アンタと刑事は赤崎のところのやくざに追い回される。警察はたとえ噂が真実だろうと嘘だろうと関係なく、本条組に対して動こうとする」
「警察は面汚されたら結束するしな。……警察が介入するとなれば上の、誠光組が動く。俺が責任を取るか、親父が取るか、それか最悪組は取り潰し」
「そう、そうなれば親父はもうアンタをかばってられない。あんたはもう組には戻れない。そうしたら俺はアンタを連れて逃げるつもりだった。それで計画は終わり。アンタは俺のところから離れられない」
鷹松は銃をおろし掴んでいた加州の髪を放した。そして車から降り、運転席のドアを開け、はっとしてドアのほうを振りむいた加州の首根っこをひっつかむと車外へと引き摺り下ろした。
自分が逃げたとなれば累は親父に及ぶ。
加州のことは殺したいほど憎らしいが、それに気づかなかったのは自分の落ち度だ。やり方は最悪だし性根もどうしようもない。でもやくざをクソのように思っていれば軽んじるのも理解が出来た。
だが親父に累が及ぶのであれば話が違う。
鷹松は加州の整った顔を遠慮なく殴りつけた。ぐしゃり、といやな音がした。
ぎゃあと短い悲鳴が上がったが無視をした。顔をおさえてうずくまる体を蹴飛ばし車に乗った。
さっきまで痛んだ足は痛まなかった。
シートベルトを締め、橋本に電話をかける。ワンコールで橋本が出た。
「今どうなってる?」
そう尋ねるとくぐもった声で橋本は『お前やばいぞ』と鷹松に云った。口元を隠しているのかもしれない。電話の向こうはざわざわとしていた。
若頭が刑事と手を組んだとなれば大騒ぎだろう。橋本は当たりに憚りながら状況を教えてくれた。加州が言っていた噂は流れてはじめているようだった。
これがどこかの組と遣り合っている最中で、加州の矛先が自分たちに向くものでなければすごい才能だと褒めただろう。うまく手のひらの上で転がっている状況に、殴りつけられた部分をおさえ、うずくまったままの加州に惜しいものを感じていた。
「今戻る」
そう告げて通話をきると、加州が顔をあげていた。
「なんで。アンタ殺されちまう」
加州は鷹松にすがりつくように腕を伸ばしてきた。
「うるせえよ。お前のようなゲス野郎、反吐が出る」
鷹松は乱暴に加州の腕を振り払う。
「駄目。いっちゃ駄目。ほんとに殺されちゃう」
加州の声は痛々しいものだった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、汚れるのも厭わず膝ついて血塗れた体にすがっている。プライドも何もない。
「それでも俺は帰らねえとならねえ」
相手の姿に不思議と幻滅することはなかった。腹立たしかったがそれだけだ。
鷹松は加州を押しやるとドアを閉めエンジンをかけた。
本当、左腿が無事でよかった。鷹松はアクセルを踏み、加州を一人残し組に向かって車を走らせた。
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