第8章 デイフォロスの戦い(下)

1 夜の訪れ

 その後、僕たちはしばらく平穏なひとときを過ごすことになった。

 結界は、2時間ていどで張りなおされたらしい。それぐらいの時間に、人間の姿を取り戻した侍女たちが、食事を届けてくれたのである。


 食事は、ふわふわに焼きあげられた小麦のパンと、山羊肉と野菜のシチュー、そして新鮮な林檎やイチジクなどであった。平民に対する食事としては、質量ともに十分なものであっただろう。すっかり人間の食事に慣れ親しんできたナナ=ハーピィなどは、とても満足そうな面持ちで舌鼓を打っていた。


 しかし、結界が張りなおされたならば、いよいよこちらも計画のスタートである。

 表面上はナナ=ハーピィたちと和やかに食事を進めながら、僕の頭の中ではひっきりなしに念話の声が響きまくっていた。


『こちら、第2班のサテュロスだ。これから東区の農奴たちの誘導を開始する』


『第3班長ラハムです。こちらも南区にて、農奴の誘導を開始いたします』


『第1班のパイアだけどね。北区のほうはさっきの騒ぎのせいか、夜でもあちこちにかがり火が焚かれてるよ。北区の農奴たちを外に逃がすのは、ちょいと難しいみたいだね』


『レヴァナント、了解いたしました。では、パイア率いる第1班は、西区の第4班と合流をお願いいたします。北区は完全に切り捨てて、残る地区の誘導を優先いたしましょう』


『了解。第4班は……ああ、班長のザルティスは念話が使えないんだったね。だったらサテュロスとのほうが、すんなり合流できるんじゃないの?』


『第4班は連絡を取るすべがない上に、人員も1名少ない状態にあります。ゆえに、第1班に後援をお願いしたく思います』


『ああもう、わかったよ! 合流したら、連絡する!』


 当然というか何というか、脱走計画の責任者はルイ=レヴァナントであった。僕のために功を競い合うガルムやナーガでも、このようにややこしい任務を受け持つことには執着しなかったので、その座をすんなりと譲ってくれたのだ。


 そんなルイ=レヴァナントの指示によって、農奴たちの脱走計画は着々と進められている。ドリュー=パイアを筆頭とする潜入捜査員たちが農園に潜り込み、農奴たちの手引きをしているのだ。その段取りは、この10日ほどでしっかり組み上げられていたので、今のところは不備も見られないようだった。


『ただ、農奴の連中はすっかりくたびれ果てちまってるね。誰も彼もが、死にそうな面がまえだよ。ほんのついさっきまでは、人魔の姿でいきりたってたくせによ』


 班長のサテュロスが皮肉っぽい調子でそのように報告すると、ルイ=レヴァナントは冷淡きわまりない調子で応じた。


『人魔の術式というのは、人間の肉体に大きな負荷をかけるのでしょう。ましてや農奴たちは十分な栄養や休息も与えられていないのですから、その影響も顕著であるのかと思われます』


『へん、頼もしい話だな。……そんなくだらねえ生き方を押しつけられてるなら、自力でとっとと逃げ出してりゃよかったのによ』


 サテュロスは皮肉屋の快楽主義者であったが、その念話からは人間たちの歪んだ社会に対する憤懣や、それに甘んじている農奴たちへの苛立ちなどが感じ取れるような気がした。

 これまでの期間、農奴長たちに脱走をそそのかす任務にあたっていたのはケルベロスとエキドナの両名であったが、そこから得られた情報はおおよその団員たちに周知されているのだ。それはもちろん、人間たちの実情を魔族のみんなにも知ってほしいと願う、僕の指示であった。


 デイフォロス公爵領を制圧することがかなったら、生き残った人間たちの処遇を定めねばならない。僕にとっては、そちらのほうこそが本題であるのだ。

 まだまだ魔物たちの多くは、人間族の殲滅を望んでいるだろう。これから大陸全土を平定するまでの間に、僕自身が進むべき道を見定めて、同胞たる彼らにも納得してもらわなければならない。道のりは、まだまだ果てしなく長いはずだった。


(そのためにも、今回の作戦は成功させないとな)


 食事を終えた僕たちは、寝所で休むように侍女から命じられた。

 寝所は、控えの間に併設されていた。6畳ていどのちんまりとした部屋に、2段ベッドが2組準備されている。町から招いた娼婦たちのために、準備された部屋であるのだろう。この20年ほどで、いったいどれだけの娼婦たちがこの場所で身を休めることになったのか――想像すると、なかなかに暗鬱な気分だった。


(グラフィス子爵が娼婦を呼びつけるのは10日に1度で、それが20年。で、いっぺんに4名ずつの娼婦と考えると……いやあ、計算する気にもなれないな)


 ただ娼婦を呼びつけて、淫蕩な行いに耽っているだけであるならば、僕もそこまで気を滅入らせることはなかっただろう。問題は、マリアから得た証言――城に招かれた娼婦は、半分も無事には戻ってこられない、という話であった。


(そんな風に何百名もの人間を殺めてしまうなんてことが、許されていいわけがない。人魔の術式を無効化して、人間らしい理性を取り戻すことができたら……グラフィス子爵は、自分の非道な行いを悔いることになるんだろうか)


 そんな想念を抱え込みつつ、僕は寝台に横たわることになった。

 とはいえ、マリアを除く3名は、狸寝入りである。魔族というのは、人間ほど眠りを必要としないのだ。その気になれば、数日ぐらいは不眠不休で働くことができた。


 ただし、ナナ=ハーピィたちが魔力を隠しおおせるリミットは、およそ48時間だ。そして、グラフィス子爵に幻惑の術式をかける余地がないと判明した今、チャンスは次に伽を命じられる1回しかない。その1回がこの夜に訪れると想定して、僕は農奴の脱出計画をスタートさせたのだった。


 燭台の火も消されてしまったので、僕たちは完全なる闇の中で「その時」が訪れるのを待ち受ける。

「その時」がやってきたのは、たっぷり1時間ぐらいが経過したのちのことであった。

 寝所の扉が、外から無遠慮に叩かれたのである。


「失礼いたします……グラフィス子爵様がお呼びでございます……」


 やってきたのは、あの小柄でずんぐりとした従者の男であった。

 その手に掲げた灯篭の光に照らされて、闇の中に陰気な笑顔が浮かびあがっている。


「北の区域と南の区域からお越しになられた方々は、こちらにおいでください……」


「ど、どうしてまたわたしたちなの? わたしたちは、さっきも呼ばれているじゃない!」


 マリアが真っ青な顔でわめきたてると、従者の小男はいっそう陰気な笑みを浮かべた。


「子爵様のご命令でございます……おふたりは殊の外、子爵様のお気に入られたのでしょう……これは、名誉なことでございますぞ……」


「ふん。ありがたくて、涙が出るわね」


 寝台から下りた僕は、壁に掛けておいた上着を纏いつつ、小男の前に立ちはだかった。


「今日ぐらいはゆっくりさせてもらえると思ったのに、あてが外れてしまったわ。農園が魔物に襲撃されたばかりだというのに、貴族というのは呑気なものなのね」


「領土の安寧は、魔術師の方々に守られております……皆様は、どうぞご自分の仕事をお果たしくださいませ……」


「わかったわよ。それじゃあ、とっとと子爵様のところに――」


 と、そこで僕は、がくりとうずくまってみせた。

 寝台の上の段から、ナナ=ハーピィが「どうしたの?」と声をかけてくる。それも、打ち合わせの通りであった。


「な、なんでもないわよ……ただ、急に胃のあたりが苦しくなって……」


「わー、大変! さっきの食事に、腐ったものでも混じってたんじゃない?」


 寝台から下りたナナ=ハーピィとジェンヌ=ラミアが、左右から僕をはさみこんでくる。

 苦しげな顔をこしらえながら首を上げると、従者の小男は小馬鹿にしきった面持ちで僕のことを見下ろしてきた。


「それは、何の真似でございましょうか……? 子爵様が、あなたをお待ちしているのですぞ……?」


「わかってるわよ……だけど、おなかが苦しくて……何か、薬でも持っていないの……?」


「そのようなものは、ございません……さ、子爵様のもとに急ぎましょう……少しばかりの病魔であれば、人魔の術式で治癒されるはずです……」


「だったら、手を貸して……自分ひとりじゃ、とうてい歩けないわよ……」


 小男は舌打ちでもしそうな顔であったが、途中でにやりと微笑んだ。美しい娘に遠慮なく触れられることに、ささやかな喜びでも見出したのであろうか。

 ナナ=ハーピィたちが場所を空けると、小男が僕のかたわらに屈み込んでくる。その瞳には、喜悦の光が躍っていた。


「では、わたくしの肩におつかまりください……これでよろしいでしょうか……?」


「ええ、ありがとう」


 僕は小男の肩に腕を回すと同時に、その目玉へと接吻をした。

 小男の肉体を魔力遮断のジャミングで包んだ上で、魔力を注入する。僕に左の眼球を舐められた小男は、一時停止のボタンでも押されたかのように動きをフリーズさせた。


「ど、どうしたの? ベル、大丈夫?」


 ジェンヌ=ラミアの背後から、マリアが心配そうに呼びかけてくる。彼女の視界をふさぐために――それに、この寝所も覗き見されているという可能性を考慮して、ジェンヌ=ラミアとナナ=ハーピィには壁になってもらっていたのだ。

 数秒後、僕の注入した魔力が脳髄の芯まで浸透したらしく、小男は何事もなかったかのように立ち上がった。


「……それでは、子爵様のもとに参りましょう……」


「ええ、そうね。けっこう楽になってきたから、あなたに肩を借りるまでもないみたいだわ」


 身を起こしながら、小男の様子を確認すると、その双眸はわずかに焦点をぼかしていた。僕の仕掛けた催眠の魔術は、きちんと発動されたようだ。


(グラフィス子爵を操ることができないなら、それ以外の人間を操るしかないからな)


 これが、ルイ=レヴァナントに綱渡りのようだと評された僕の計略であった。

 あとは彼の案内で、謁見の間を目指すばかりである。なるべくこちらに有利な状態で、人魔の術式を破壊できるか否か、決着の時はもう目の前に迫っているはずだった。

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