7 結界の破壊

「ナンだ……ナゼに、ジュウシャまでをもジンマとしたのだ……?」


  角つきオークのごときグラフィス子爵は、うろんげに魔術師を振り返った。

 いっぽう魔術師は、緊迫した面持ちで目を光らせている。


「これは、わたくしが発動させたのではございません。第三層の結界までもが打ち砕かれたため、すべての領民が人魔と化したのです。……同胞からの念話によりますと、どうやら農園の北区が上級の魔族に襲撃された模様です」


「ナンだと……イマイマしきマモノどもめ……ヨのエツラクをジャマダてしようというつもりか……」


 グラフィス子爵の双眸が、憤激に燃えあがった。

 人魔と化した従者のほうは、聞き苦しい声で咆哮をあげている。そちらは額から1本の角を生やした、ゴブリンのごとき姿である。


「大広間に参りましょう。貴き方々のお力が必要となるやもしれません」


 魔術師の言葉に、グラフィス子爵は湿った擦過音をもらした。おそらく、舌打ちしたのだ。


「マモノどもに、マショウメンからタタカいをシカケるチカラはモドっておるまい……どうせイマゴロは、ネズミのようにニげマドっておるコトであろう……」


「その判断は、北区を巡回していた同胞らが下してくれましょう。まずは、大広間に」


 そのように答えながら、魔術師は虫でも見るような目で僕たちを見た。


「あなたがたは、控えの間に戻るがよろしい。沙汰があるまで、部屋を出ることは許されませんぞ」


 僕たちの返事を待つこともなく、魔術師はきびすを返した。

 従者の人魔は跳ねるような足取りで追従し、グラフィス子爵は最後に僕たちを澱んだ眼差しで見下ろしてくる。


「とんだジャマがハイってしまったな……ヨルをタノしみにしておるぞ……」


 魔術師と二体の人魔は、奥の扉から部屋を出ていった。

 僕は安堵の息をつきながら、ルイ=レヴァナントに念話を飛ばす。


『ルイ、そっちはどんな状況かな?』


『はい。翼を持つ中級の人魔が追跡してきましたが、こちらに戦う意思がないと見て取るや、動きを止めております。魔獣兵団長の率いる部隊は、樹海を踏み越えたところでいったん待機といたしました。敵味方ともに、損害はありません』


『了解。……ガルム、ありがとう。おかげで、窮地を脱することができたよ』


『ふふん。この俺がじきじきに、魔力を叩き込んでくれましたわ! なかなか胸のすく光景でありましたぞ!』


 僕はいささか心配になってしまったので、またルイ=レヴァナントのみにチャンネルを絞った。


『えーと、首尾よく結界を壊してくれたみたいだけど、本当に人間陣営にも被害はなかったのかな?』


『はい。結界の外から、新たに切り開かれた開拓地に攻撃を仕掛けた格好となります。すでに日は落ち、農奴の姿はなかったので、人的被害は発生していないかと思われます』


『了解。他のみんなは、異常なしかな?』


 北区以外の場所に待機している部隊長たちからも、城壁のすぐ近くに潜んでいるケルベロスたちからも、『異常なし』の返事が返ってきた。


『町の人魔どもは、みんな北区に向かったようね。今だったら、大した労力もかけずに城まで向かえるのじゃないかしら』


 コカトリスからはそのような追伸もあったので、僕は全員に『いや』と返してみせた。


『たぶん、こちらからの追撃がないと知れれば、すぐに結界を張りなおすことになるんじゃないのかな。今のところは、待機をお願いするよ』


『了解したわ。……そちらは、大丈夫なの?』


『うん。人魔の術式を無効化する呪符をつけていたから、あやしまれることもなかったよ。娼婦にはこの呪符をつけさせるっていう習わしに救われたようなものだね』


 そんな風に答えてから、僕はコカトリスのみにチャンネルを絞った。


『それとね、グラフィスの元領主に対面したよ。現在は公爵じゃなく子爵であるらしい』


『ふうん』と、コカトリスの念話がピリついた。


『わたしは人魔の姿しか見ていないけれど、いったいどのような正体をしていたのかしら? 美しかったの? 醜かったの?』


『僕の美的感覚でいうと、後者かな。オークを人間にしたような姿だったよ。……まあ、僕はオークの正確な姿も知らないんだけどさ』


『……やっぱり、醜い心を持つ人間は醜い姿になるのかしらね』


 その念話だけでも、コカトリスが激情に唇を吊り上げている姿が想像できた。


『人魔の術式を無効化されたら、彼はどんな本性になるのか、ちょっと楽しみなところだね。それじゃあ、また後で』


 そうして念話を打ち切った僕は、自分が裸身のままマリアに抱きつかれている現実と直面することになった。


「……ひどい目にあったわね。とりあえず、控えの間に戻りましょう?」


 マリアはガチガチと歯を噛み鳴らしながら、僕を見上げてきた。身長は同じていどであるのだが、彼女は腰が砕けているため、僕の胸もとに顔をうずめるような体勢であったのだ。


「あ、あ、あなたはどうして、そんなに平然としていられるの? あ、あんな人魔を、目の当たりにしたっていうのに……」


「だって……この呪符をつけていなければ、わたしたちだって同じような姿になっていたでしょう?」


「だけど、今のわたしは人間よ! 人間から見れば、人魔も魔物も一緒じゃない!」


 僕は複雑な心地で笑いながら、マリアのなめらかな肩を叩いてみせた。


「とにかく、控えの間に戻りましょう。いつまでもこんな姿をしていたら、風邪をひいてしまうでしょうしね」


 僕はマリアをうながして、床に落ちていた衣服を纏うことにした。

 その後もマリアは足もとが覚束なかったので、自分の腕につかまらせたまま、控えの間に戻る。

 控えの間では、ナナ=ハーピィとジェンヌ=ラミアが退屈そうな面持ちで待ちかまえていた。


「あーっ! なんでその女が、ベル様にひっついてるの?」


「なんで、様よばわりなのよ。……わたしたちは、ちょっぴり怖い目にあわされてしまったの。あなたたちは、大丈夫だったのかしら?」


 ぷりぷりと怒るナナ=ハーピィの向かいで、ジェンヌ=ラミアは「そうね……」とけだるげに答えた。


「ただ、人魔に化した騎士の男に、ここから動くなと命じられることになったわ……いったい、何が起きたのかしら……?」


「どうやら農園が、魔物に襲撃されたみたいね。それで、お城の結界まで壊されてしまったようよ。今このデイフォロスで人魔と化していないのは、呪符をつけていたわたしたちだけ、ということね」


 そんな風に答えてから、僕はマリアに微笑みかけてみせた。


「あなたはちょっと、休んでいたほうがいいのじゃない? ジェンヌ、席を空けてくれる?」


 ジェンヌ=ラミアが立ち上がってくれたので、僕はマリアを長椅子に寝かせてあげた。

 そうして僕が身を離そうとすると、マリアはすがるような目で見上げてくる。


「ま、待って……ひとりにされたら、わたし……」


「ひとりになんかしないわよ。でも、あなたは少し眠ったほうがいいと思うわ」


 僕はマリアに笑いかけ、その栗色の髪をそっと撫でてやった。


「向かいの長椅子で見ていてあげるから、ゆっくりおやすみなさい。その前に、水を飲んでおく?」


「ううん、大丈夫……あなたって、本当に素敵だわ……」


 マリアは弱々しく微笑むと、精魂尽き果てた様子でまぶたを閉ざした。

 その頭をもう1度撫でてから身を起こすと、同胞たる2名が不満そうに僕を見やっている。僕は苦笑をこらえながら、ナナ=ハーピィの隣に腰を下ろした。


「ジェンヌも、こちらに座ったら? ちょっとせまいけど、つめれば大丈夫でしょう」


 ジェンヌ=ラミアは、無言で僕の指示に従った。

 ナナ=ハーピィは僕の右腕にからみつき、ジェンヌ=ラミアは僕の左肩にしなだれかかってくる。なんとも窮屈な格好であったが、内緒話をするにはちょうどよかった。


「ふたりとも、そのまま聞いてね。どうやらこの部屋には覗き見と盗み聞きの仕掛けがあるみたいだから、返事をするときも小声でお願いするよ」


 ほとんど唇も動かさないまま、僕はそのように囁いてみせた。


「さっきのは、僕の指示で城の結界を壊してもらったんだ。グラフィス子爵に、人魔になってみろって命じられちゃったから、騒ぎを起こして気をひいてもらったというわけだね」


 そうして僕は、グラフィス子爵のおぞましい性的嗜好に関しても告げておくことにした。

 ナナ=ハーピィは、しかめっ面で「うえー」と舌を出す。


「わざわざ人魔に化けて情を交わすって、ずいぶん悪趣味だね。頭がどうかしてるんじゃない?」


「うん。まあ、かつての暗黒神は偉そうに言える立場ではないかもしれないけどね。こっちは、魔物から人間に化けてたみたいだけどさ」


「あたしたちは、いいんだよ。自分の力で姿を変えてるんだから、どんな姿で何をしたって、文句を言われる筋合いはないさ」


 そう言って、ナナ=ハーピィは口をとがらせた。


「でも、人間どもは魔術師の力で人魔に化けるんでしょ? そんなので情を交わそうってのは、やっぱりおかしいよ」


「うん……ただ、グラフィス子爵がちょっと気になることを言ってたんだよね」


 そのときの情景を思い返しながら、僕はそのように言ってみせた。


「これこそが、我々の真の姿である。……グラフィス子爵は、そう言ってたんだ。これって、どういう意味なんだろうね?」


「ふん……それはきっと、人魔の力に取り憑かれたのじゃないかしら……? 人間なんて、ちっぽけな力しか持っていないものね……だからきっと、強い力を持つ人魔の姿こそが、自分の真の姿であると思いたいだけなのよ……」


 そのように評しながら、ジェンヌ=ラミアは皮肉っぽく唇を吊り上げた。


「わたしだって、暗黒神様の魔力を譲渡された後は、いつも同じような心地に陥ってしまうもの……どうして本当のわたしは、こんなにちっぽけなのかしらってね……」


「ジェンヌもナナも、ちっぽけなんかじゃないよ。魔力の大きさよりも大事なものなんて、いくらでもあるはずさ」


 そんな風に答えてから、僕はもうひとつの疑念も口にしておくことにした。


「でもやっぱり、僕が君たちに行う譲渡の術式と人魔の術式は、あれこれ共通する部分が多いんだろうね。ジェンヌもナナも、魔力を譲渡されると黒い角が生えるけど……あれって、人魔の角と似ていると思わないか?」


「うん。それは、前から思ってたよー。人魔のくせに生意気だってね!」


「シッ! 声が大きいよ。……まあ、本来以上の魔力を扱えるようになるって意味では、同じような術式なんだろうね」


 それはかつて、人魔の術式の触媒を破壊したときから、わかっていたことであった。譲渡の術式と人魔の術式は、根本の部分の原理が共通しているのだ。


(ただ、もともと魔物であるナナたちと、魔力を持たない人間とじゃあ、影響の度合いが異なるんだろうな。だから、人間たちは人格までもが歪められてしまうってわけか)


 ひとまずの事情説明を終えた僕は、ルイ=レヴァナントに外界の状況を聞いておくことにした。


『ルイ、そっちに何か変化はあるかな?』


『はい。何体かの中級人魔が周囲の探索を始めましたので、こちらもさらに後退することになりました。上級人魔が現れぬ限りは、発見されることもないかと思われます』


『上級人魔は、姿を現していないんだね?』


『はい、今のところは。……原則として、上級人魔は城に立てこもり、その場で敵を迎え撃つのが常套手段となります。やはり、術式の触媒が存在する城は、最優先で守られているのでしょう』


『だったら今も、謁見の間には上級の人魔が集合しているのかな。たしか魔術師は、大広間で待機って言ってたはずなんだけど』


『謁見の間を、大広間と称しているのでしょう。かつてのグラフィス城においても、もっとも面積が広いのは謁見の間となります』


 確かに、あの場所は200名の魔物が勢ぞろいできるぐらいの規模であったのだ。ならば、同じぐらいの人魔が謁見の間に集合することも可能であるはずだった。


『うーん。さすがに200体の上級人魔を僕たち3名だけで相手取るのは難しいよね?』


『はい。その中で術式の解除を行うのは、さらに困難であるかと思われます』


『うん、了解。やっぱり、貴族たちが寝静まるのを待つしかないか。結界が張りなおされたら、計画通りに農奴たちの誘導をお願いするよ』


 農奴たちが魔族の手引きで脱走を企てれば、さすがに魔術師や貴族たちも黙ってはいられないだろう。それで少しでも城の外に注意を向けさせることがかなえば、僕の仕事もやりやすくなるはずであった。


『……ですが、そちらでは不測の事態が生じたのではないのでしょうか?』


 ルイ=レヴァナントが、念話でも冷たく響く声音で問うてくる。

 そういえば、こちらがどうして結界の破壊を指示することになったのか、その理由はまだ告げていなかったのだ。

 あらためて、僕が事情を説明すると、ルイ=レヴァナントの念話はいっそう冷ややかさを増した。


『では、次に伽を命じられた際は、どのように切り抜けるおつもりであるのでしょうか? 計画の途中で結界を壊すことになれば、農奴たちを外界に逃がすこともままならなくなるかと思われますが』


『そこのところは、なんとかするよ。まあ一応、ルイにも計画の概要を聞いておいてもらおうかな』


 そうして僕がここ数分で思いついた計画を説明すると、頭の中でルイ=レヴァナントに溜め息をつかれたような感覚がした。


『非常に不確定要素の多い、綱渡りのごとき計略であるように思いますが……私にも、それより有効な計略を提示することはできないように思います』


『うん。綱渡りなのは、最初からだからね。いきなり全面抗争を仕掛けるよりは、まだしも安全なんじゃないかな』


『しかし、もっとも危険なお立場であるのは、城内に身を置いておられるベルゼビュート様であられるのです。どうか、ご自愛をお願いしたく思います』


『いざとなったら、僕も即時撤退するよ。そうならないように、祈ってもらえたら嬉しいな』


 そうして僕は、他の同胞にも計画の続行を伝えることになった。

 とんだアクシデントが生じてしまったが、まずは当初の計画が完遂できるように力を尽くすしかない。それでどのような結果になるかは、暗黒神ならぬ神のみぞ知るところであった。

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