幼馴染より一歩先へ〜気になる彼はハイスペックな小説家〜

大畑うに

幼馴染は小説家


「君が好きだ」


 そう言って抱きしめる彼。

 髪にかかる息に、腕の熱さに、思考が停止する。

 どうしてこんなことに……?



*



「早く咲かないかなぁ」


 すっかり春めいてきているとはいえ、未だに肌寒さが残る朝。私は通勤路にあるこぢんまりとした公園の前で立ち止まり、そこに立つ桜の木を見上げた。蕾がいくつか膨らみはじめている。

 満開に咲く花を想像して、思わず顔が綻んだ。


 お花見したいなぁ。

 三段のお重に手毬寿司と伊達巻と、それからエビの唐揚げと天ぷらもいいな、大好きな苺もたくさん入れて……。


 なんて、現実逃避している場合じゃなかった。


 「3月29日の金曜日だ! 頑張れ私!」


 月末かつ金曜日の銀行は、とにかく忙しい。特に今日は年度最後の営業日ということもあり、大波のように押し寄せるお客様の姿を予感し、余計に気合が入る。


 地方銀行の田舎支店とはいえ、給料日や月末などの繁忙日は、朝からお客様が並ぶことも多い。

入行して来月で3年目になるのだが、その処理量や順番を待つお客様の多さには、未だに慣れない。


 私は、広々としたフロアの右端、ほとんど定位置になっている1番窓口でお客様の対応に追われていた。


「いらっしゃいませ。お待たせいたしました。ご入金でございますね」


 私が行う窓口業務は、基本的に時間のかかる複雑な処理はやらない。

 通帳の再発行や大口入出金などは、後ろにいる行員(銀行で働く職員)にバトンタッチし処理してもらう。そうすることによって、窓口の手が空き、次のお客様の受付を行うことができるのだ。


 私は入金処理を終えた通帳を返却し、一息つく間もなく呼出ボタンを押した。

 電子音がフロアに響き、待ち人数が10人から9人になる。のも束の間、その人数は11人に増え、私は人知れず溜息をつく。

「待ち人数が全然減らないよ~! 圧倒的に行員の数が足りないって~!」と、心の中だけで叫んだ。


 先輩行員やベテランパートさんに気を使われながら昼休憩をとることも日常茶飯事。

今日も例に漏れず、先輩行員に肩を叩かれた。

「高橋さん、お昼行ってきていいよ」

 囁くような声にはっとして辺りを見渡す。フロア内の人の波はまばらで、待ち人数も2人の状態だった。時計を見ることも忘れ、処理に没頭していた。というより、時間を気にする余裕がなかったようだ。


「あ、じゃあ、お昼いただいてきます」


 やっと一息つける。

 私は自分のロッカーに行ってお弁当を取り出しながら、午前中の処理を思い出して、ひとりうなだれた。


 国債に興味を持ったお客様がいたのに、急いでいるみたいだったから商品説明できなかったなぁ。資料だけでも渡しておけばよかった。

 受付番号取らないで直接話しかけてきたお客様には、もっと丁寧に声かけできたはずだよね……。

 ああ、私ってば失敗ばっかり。


 こんな感じに一人反省会をはじめるクセがついてしまった。


 休憩中も、休みの日でさえ、それこそ四六時中仕事のことが頭から離れない。

 気にしすぎなのは分かっているんだけど……。

 やっぱり、銀行員向いてないのかなぁ。なんて本気でへこむことが多くて、自分でも嫌になる。


「あと半日、もう少しだ、頑張ろう」


 深呼吸しながらそう自分に言い聞かせる。

 首元のスカーフの位置を直してから、私はフロアに向かう重い扉を開いた。



 戦場のような月末が終わり、閉店後計算を合わせられたのが16時。

「ゴメイでーす」

 その銀行独特の勘定合いましたコールに、私はガッツポーズの代わりに普段より大きな声で「お疲れ様でした~」と軽く伸びをした。


 よし! さっさと伝票合わせて早めに帰ろう!

 なんて息巻いてはみたものの、伝票整理に電話応対や調べものも加わり、なんだかんだで定時は過ぎてしまった。

 かっちりとした制服から襟ぐりのゆるやかなニットのワンピースに着替え、やっと全身の力が抜ける。

 まだ残業していく数人に挨拶を済ませた19時半、行員専用の通用口を後にした。


 外はもう暗いよなぁ。

 でも月末にしては早く帰れたかも……。

 そうだ、明日は今日より寒いみたいだから、家の中に居よう。

 大好きな夏目漱石の本でも読んで、ゆっくりしたいなぁ。

 うん、絶対そうしよう。


 そんなことを考えながら空を見上げる。

「月が綺麗ですね。なんて……。はぁ、早く帰ろう」



「ただいまぁ~」


 私は一人住まいのアパートに入るやいなや乱雑に服を脱ぎ捨て、そこら辺に置き去りにしていた部屋着をかぶり、ベッドへダイブした。

 とっくに夜の8時を過ぎている。


「疲れた……」


 勝手に口が喋る。


「もう無理、つらい……」


 今日特別大きなトラブルがあったわけではない。

 忙しいだけの金曜日。昼休憩もしっかりとれたし、お客様へも笑顔で対応できた。


 ただ……


――お前じゃ話にならないから上司呼んで。


 閉店間際に駆け込んできた年配サラリーマンの一言に、傷ついた。


 今回は口座から現金を引き出す単純な処理だったが、もともと登録してある印鑑と伝票に押された印鑑とが明らかに相違していたため、指摘すると、サラリーマンは顔を真っ赤にして声を荒げた。


――お前の目がおかしいんじゃないか? 俺は現金が欲しいだけだ、さっさとしろ!



「しんどい……」


 一週間の疲れがどっときたのもあると思うが、とにかく心が疲れている。


 焦点の合わない虚ろな目が、キッチンをぼんやりと映す。


「あれ? あ! そっか…朝の食器そのままだった……」


 雑菌の繁殖について書かれた本を読んでから、できる限り早く洗うようにしていたんだけど……。

 今日はそんなこと、もうどうでもいいや。


 動かすのも億劫な体を何とか起こし、這うように冷蔵庫に向かう。

「やっぱり……」

 買い物もしてないから、食べる物なんて当然ないよね。


「お腹空いたぁ」


 キッチンに座り込み、雑然とした部屋の様子を見渡した私は、途端に泣きたくなった。


 脱ぎっぱなしの服。ベッドの枕元に置かれた読み終えていない文庫本。テレビの横に積んである海外ドラマのDVDは、封も切られずにホコリをかぶっている。買ったばかりのはずのアロマオイルは、居場所が分からない。


「私って、なんてだめなやつなの……」


 ネガティブな気持ちに支配されそうな頭をブンブン振る。

 だめだ、こんなんじゃいけない、頑張らないと!


 自身を奮い立たせるように拳を突き上げる。


 ピンポーン。


 ちょうどその時、玄関の呼び鈴が鳴った。


 誰だろう? あ、もう9時過ぎてる…。

 宅配便? でも荷物なんて頼んでないはずだけど……。

 私は鉛のような体を持ち上げ、ゆるりとドアスコープを覗き込んだ。


「え?」


 見慣れたシルエットに、勢い良くドアを開ける。


「こんばんは、由紀ちゃん」


 幼馴染の相馬理人は、満面の笑みでそこに立っていた。



**



「え、理人くん、あれ? なんで、え?」

「春先とはいえ肌寒いね。上がっていい?」


 理人くんは長袖のシャツに綿のカーディガンを羽織っているだけに見える。これじゃ流石に風邪ひいちゃう。

 なんて考えていたら、彼は玄関のドアと鍵を閉め、あっという間に上がり込んでいた。


 混乱と困惑でパニックになっている私に振り向き、有無を言わさずといった笑顔で、手招きする。

「おいで、君はここ。ベッドで休んでいて。ご飯まだでしょ? 夕食作るよ。キッチン借りていい?」

 矢継ぎ早の指示が飛ぶ。

「は、はい……」

 私は、思わず丁寧な口調になってしまった。


 彼の良く通る綺麗な声に紡がれる言葉は、それがどんなに柔らかく優しい言い方でも、つい説得させられてしまう力がある。

 やけに整った顔立ちがそれを裏打ちしていることは言うまでもなく、年を重ねるごとにその魅力が増していく気さえしてくるのだ。


 短く切りそろえられた黒髪は清潔感があり、それでも相変わらずの猫っ毛は健在で、触ってしまいたくなるほど柔らかそうに揺れる。

 けれど、その下にある瞳に出会うと、手を伸ばすことをためらってしまう自分がいる。

 夜を閉じ込めたような黒色の瞳は、光の加減で時折深い黄金色に輝き、私を惹きつけてやまない。

 魅了されて、思わず手が止まってしまうのだ。


 ほら、また。


 視線が合って、私は言葉を探した。


「あの、理人くん」

「なぁに?」

「どうして……」

「今夜は僕が、君を守るナイトだ。いや、家政夫かな。とにかく、君は休んでいて」

「ナイトって……」


 理人くん、そんな冗談言う人だっけ?

 私を元気づけようとしているのかな?


 混乱を深めている間に、あれよあれよと彼は私をベッドへ横たわらせ、慣れた様子でキッチンに向かうとお皿洗いを始めた。


 未だに頭を悩ませる私は、幼馴染の横顔を凝視しながらあれこれ考えた。


 どうしてここにいるの? 

 今って、雑誌で連載しているんだよね? 

 締め切り大丈夫なのかな?


「君は分かりやすいね。全部顔に出ているよ」


 お皿を洗っている手は止めず、こちらに視線だけを向ける理人くん。

 私は急に恥ずかしくなり、布団を蹴飛ばしながら起き上がった。


「顔に出やすいなんて言われたこと一回もないし、そんなこと言うの、理人くんだけだよ」

「そうかな?」

 私の訴えに彼は小首をかしげると、なんでもない風に洗い物を続けた。

「そうかなって……」


 この飄々とした態度。

 いつもこの調子なのだ。



 実家が隣同士で、母親同士も仲が良かったため、いわゆる幼馴染として私たちも良く遊んでいた。


 相馬理人という人間は、絵に描いたように容姿端麗で文武両道な人物の為、幼少期から幾人もの女の子を虜にしては玉砕させてきた。


 私といえば、理人くんの幼馴染という理由で、彼を好きな女の子たちの告白を無理やり手伝わされることもしばしば。


――なんでそんなことするの?


 その都度、彼に不満をぶつけられたものだ。


――君は告白斡旋業者? 幼馴染の僕の気持ちより全然仲良くない子を優先するの?

――そんな、私は別に……。


 冷たい視線を向けられた中学生時代を思い出して、私は天井を仰いだ。


 そんなことをしたかったはずがない。

 中学校に入ってできたばかりの友達が理人くんを好きになり、


 ――幼馴染なんだから協力してね。まさか小さい頃から遊んでるってだけで独り占めするつもり?


 なんて言った時に、私は、自分の気持ちに気付き始めた。


 協力したくないと思うことも、一緒に居て楽しいと思うことも、理人くんが他の女の子と話していると少しだけモヤモヤすることも、幼馴染だからだと思っていた。


 それが違ったんだ。


 自分と同じくらいの身長だった彼が、あっという間に頭ひとつ分大きくなり、低くなった声で初めて

「由紀ちゃん」

 と呼ばれたとき、心臓が飛び出すくらいドキドキした。


 ふわふわしていた自分の気持ちが、確信に変わった。

 そうか、私は、幼馴染としてじゃなく、一人の男の子として理人くんが好きなんだ。

 瞬く間に幼馴染以上の存在になった理人くん。


 でも、そんなことを言えるわけがなかった。


――相馬、お前学年のマドンナふったみたいじゃん。なんで告白断ったんだよ。

――別に。彼女はいらないから、かな。


 偶然、聞いてしまった彼と友人との会話。


 そっか、彼女はいらないんだ……。


 日頃から幼馴染として自分を大切に思ってくれていることは分かっていた。

 だからこそ、この時、それ以上の関係にはなれないことを確信してしまったのだ。



――やっぱり、由紀ちゃんといるのが、一番楽しい。


 屈託なく笑う顔が、まっすぐ見られなかった。


――私も、理人くんといると、すごく楽しいよ。

――そうだと思った。


 理人くんに好きだと伝えたら、きっと困らせるに違いない。

 私を励まし、いつでも安心できる位置から私に接してくれた理人くんの笑顔が、なくなってしまうのが怖い。

 いっそ振られる覚悟で気持ちを伝えようとも考えたが、幼馴染という距離が心地よくて、この関係を壊したくないと思ってしまった。


 そして、高校に入学する頃には、彼への気持ちを封印することにした。


 違う高校に入学してからも、引き続きお互いの家に遊びに行くことも一緒に出掛けることもあった。

そこで、一度だけ聞いたことがある。


――理人くんは私といていいの? ほら、こんなに私と遊んでいたら好きな子に誤解されたりするかも。


 理人くんはいつもの調子で、不思議そうに笑った。


――変な質問だね。僕は君と一緒にいたいからいるだけだよ。


 なんの含みも裏もなく、純粋な気持ちで言っていることが伝わってくる。

 そんな彼の言葉に、私は心が喜ぶことを止められなかった。



***



「煮込みうどんでいい?」

「へ?」

 記憶の海に投げ出されていた私は、はっとした。

「いやかな?」

 食器洗いを早々に終わらせていたらしい彼は、私の方に体を向けていた。

「ごめんね、なんだっけ」

「煮込みうどん。疲れているときは一番だって、君は昔から言っていたよね」

「うん……ありがとう。えっと、お願いします」


 素直に頭を下げた私に向けられた理人くんの瞳。

 その色がこれ以上ないくらい優しいことに気づき、私は妙な心地になる。

 変に緊張してしまいそうで、私は気を取り直すようにベッドから這い出した。


「少し横になったら元気出てきたから、私もなにか手伝うよ」


 相変わらず整った顔立ちで見つめてくる彼に視線を送る。

 理人くんは少しだけ目を見開き、次いでごく自然に微笑んだ。


「無理しないで。何かしたいなら、ベッドに座って僕を見ていて」


 だから、理人くんってそんな冗談言うキャラだっけ?


「食器、拭きます」

 恥ずかしさで上ずりそうになるのを必死に抑えて出した声が、予想以上に低く響いて、私は自分自身に苦笑した。


「休んでいていいのに……。でも、ありがとう」


 理人くんはそんな私の様子に構わず、今にも鼻歌を歌い出しそうな雰囲気で玄関先に向かった。

 彼の姿を目で追う。

 今気付いたが、玄関には彼の荷物らしい大型のビジネスバッグと、その隣にビニール袋が置いてあった。

 理人くんはビニール袋を手にし、キッチンへ戻ってくる。

 近所のスーパーの袋だ。


「理人くん、それ、わざわざ買ってきてくれたの?」

「僕が君に振る舞いたいものを勝手に買ってきただけだよ」


 理人くんはいつもそうだ。

 気軽になんでもそつなくこなして、なにもかも余裕で、私のことを見透かしているように微笑むから、どういう表情をしたらいいのか分からなくなる。


 私は彼の隣に立ち、スーパーの袋から野菜を取り出す様を横目に、水切りに置かれた食器に手を付けた。


 ちょうどその時、離れた所から着信音が鳴り響いてきた。

「あ、ちょっとごめんね、僕のだ」

 理人くんは急いで自分のカバンからスマホを取り出すと、画面を見て少しだけ眉尻を上げた。

 もしかして、と思う。

「理人です。ああ、角川さん、こんばんは」

 やっぱり、彼の担当編集者さんの名前だ。


 理人くんは、3年前に有名な文学賞で新人賞を獲得し、小説家デビューを果たした。

 瞬く間に人気作家に仲間入りし、雑誌で連載を抱えるようになった今も、理人くんは顔出しをしていない。


 今の時代、顔を出した方が人気も出るし売り上げも伸びるんじゃないかな。

 こんなに見目麗しかったら尚更だと思うんだけど……。

 ああ、でも、なんだか、それは嫌だなぁ。


「仕事の電話じゃ出ないわけにもいかないからね」

 通話を終えて戻ってきた理人くんは、怪訝な顔をした。

「由紀ちゃん?」

「はい。え?」

 あれ、私ったら、無意識に見つめちゃってたんだ!

「あ、いや、ええっと……その、本当にお仕事しなくて大丈夫?」

 目に見えてあたふたとする私には慣れたもので、彼は顔色一つ変えることなく玄関付近の荷物を指さす。

「パソコンは持ってきているよ。原稿なら君が寝てからできるし、気にしないで」

 心配してくれるの? と嬉しそうに微笑まれ、なぜかいたたまれない気持ちになった。


「……仕事しないといけないなら、どうして私のところに来たの?」

 私が一番気になっていた質問をすると、彼はコンロ上に置き去りにされていたフライパンを掴みながら、爽やかに言った。


「芳江さんから聞いた」

「お母さん?」

「君を心配していたよ」


 実家からそう遠くない場所にアパートを借りた私を、一番心配していたのは母親だった。

 ちゃんとご飯は食べているのか。

 元気に仕事に行っているのか。

 ラインで会話することがほとんどで、家に来ることも滅多になかった。

 そんな母と電話をしたつい先日、仕事の愚痴のようなことを言ったのは確かだ。弱音を吐いたかもしれない。


 それで心配になった母が、理人くんに連絡したのかな。

 理人くんにも心配かけちゃったってことだよね。

 仕事も大変な時のはずなのに、家にまで来てくれて、本当に申し訳ないと思う。

 それなのに……。

 どうしよう、凄く嬉しい。

 母が心配してくれていたことも単純に嬉しいけど、理人くんがそれを聞いて、ただ疲れているかもしれないという理由だけで、こうやって足を運び、私を休ませようと考えてくれたことが、嬉しくて仕方ない。


「それだけで、来てくれたの?」

「幼馴染だからね」

「そういう意味じゃなくて」

「唯一無二の存在だ」

「意味、分かって言ってる?」

「忘れたの? 僕は言葉の魔術師だよ」

「ふっ……言葉の…魔術師って……ふふっ、なにそれ!」

「やっと笑った」


 はっとして顔を上げる。


「その方がずっと君らしい」


 まあ、泣いていても怒っていても、僕は全部可愛いと思うけどね。


 ふいにこんなことを言ってくる理人くんは、ズルい。

 どうしようもなく顔が熱くなってしまう。

 ずっと封印してきた気持ちが溢れ出しそうで、私は手に持ったままでいた食器を棚に戻しながら、赤い顔を隠すようにうつむいた。


 そこに、彼の労いの声が届く。

「やっぱり疲れているみたいだね。無理しないで、少し寝た方がいい」


 下を向く私の肩に添えられた両手が、優しくベッドに誘導してくれる。

 促されるまま布団に舞い戻った私は、申し訳なさそうに彼を見上げた。


「出来上がったら起こすから、今はゆっくりおやすみ」


 夜のとばりが下りるような静かな漆黒の瞳に、吸い込まれそうになる。

 私は早鐘を打つ心臓のまま目を瞑った。

「食器拭いてくれてありがとう」と囁くように言われ、全身がゆったりとベッドに沈んでいくような感覚に襲われる。


 どこまで優しいの。と思った次の瞬間には、気絶するように眠りについていた。



****



 高橋由紀は僕の幼馴染だ。


 幼い頃から責任感が強く、けれど少しだけそそっかしい部分を持つ彼女は、人のことを良く見ていて誰にでも対等に向き合える女の子だった。

 相手のことを考えすぎる節があって、自分を二の次にすることも多い由紀ちゃん。

 そんな彼女を守ってあげたいと思った時がいつだったか、正直覚えていない。


 人の気持ちに敏感な彼女は、「自分と一緒にいると理人くんが困ることになるかも」と妙な脅しをかけてきては、困ったように可愛く笑っていた。


 彼女は知らない。

 僕が彼女をどんなに大切に思っているのか。


――高橋さん可愛いよな、お前幼馴染なんだろ? 好きなやつ知ってる?

 お前じゃないことは確かだよ。


――相馬くんは、幼馴染ってだけで高橋さんにべったりされて嫌じゃないの~?

 お前こそ馴れ馴れしくするなよ。


――俺、相馬さんに告ろうかな。

 ……お前が?


 ほんの子供だった時の自分を思い出し、苦笑する。

 幼馴染として大切に思っているつもりだったけれど、今考えると完全に嫉妬に狂っていたような気がする。


 誰にでも優しい彼女の瞳が自分だけを見ればいいのに。

 可愛らしい顔で笑いかけるのは自分だけでいいのに。


 そんな感情に気付き始めながらも、漠然としている気持ちの正解がなんなのか、答えを見つけられない日々が続いた。



 ただの幼馴染として成長した高2の夏。

 進路について話をしていたとき、ふと言った俺の冗談めいた言葉に、彼女が返したセリフを今でも鮮明に覚えている。


――小説家になりたいんだよね、僕。

――理人くんが小説家? 


 節電を理由に冷房が止められた図書室。

 開け放たれた窓からは、蝉の声がせわしなく響く。その音を運ぶ湿った熱風が、彼女の髪を揺らした。


 真夏の図書室には、君と僕しかいない。


――うん、素敵だと思うな。


 汗ばんだ額に張り付いた髪をかき分ける仕草に、目が奪われる。


――理人くん本が好きだもんね。いろいろなことを知っているし、文章も上手だから、きっとなれると思うよ。


 誠実に揺れる君の瞳が、澄んだ水面のようにきらきらと煌めいて見える。


――理人くん、小学生の時に書いた小説を見せてくれたことがあったの、覚えてる?


――そんなことあったかな。


――あったよ。それを、私は本当にすごいなって思った。理人くんの言葉が紙の上で踊っていて、まるで言葉の魔術師みたいだなって、感動したんだよ。


 頬を上気させながら心底嬉しそうな表情をする君に、思わず見惚れてしまう。


――だから、これからも、私が理人くんのファン第1号でいてもいい?


 カーン

 野球部のノック音が遠くに聞こえ、僕は我に返った。


 君は優しく笑って、ただ僕を見つめている。



 ここで、僕はようやく自分の気持ちをはっきりと自覚した。


 ああ、好きだな。

 やっぱり、僕は君が好きだったんだ。


 そうなったらいいと思っていたただの夢を、彼女は目標に変えてくれた。


 どうしようもないくらいに、目の前の幼馴染を愛おしいと感じた。




 静かに寝息を立てる彼女を見下ろして、僕はそっとその頬に触れる。


「ずっと好きだったって言ったら、君はどうするのかな……」




*****



 良い匂いがする。

 これ、なんだっけ。


「由紀ちゃん、起きる?」


 理人くんの声で、意識が覚醒した。


「あ、私、ごめんね、寝ちゃってた」


 部屋の時計を見ると丁度22時を回っていた。

 驚いてリビングのテーブルに目を向ける。温かな湯気をまとった美味しそうな煮込みうどんが置いてあった。サラダやお茶まで用意されている。


 彼にニコニコと招かれ、椅子を引かれる。

 まるでレストランに来ているみたいだ。

 そこまでしなくてもいいのに、と言うのも失礼な気がして、私はぎこちない笑顔で席に着いた。


 よくよく見てみると二人分置いてある。


 私は向かいに座った理人くんをじいっと見つめた。

「まだ食べてなかったの?」

「少し前に作り終わったんだよ。すぐに起こそうと思ったけれど、気持ち良さそうに寝ていたから、そこ借りたよ」


 彼の視線の先のベッドの前、ローテーブルの上に見慣れぬパソコンを見つけた。


「少しだけ仕事をね。君が起きてから一緒に食べようと思ったんだけど、温かいうちに食べてもらいたくて起こしちゃった」


 ごめんね。と謝られ、私は泣きたくなった。


「何がごめんか分からない。私こそ、私なんかに、なんでこんなにしてもらえるのか分からないよ。なんでそんなに優しいの」


 一気に喋った私の頭をそっと撫でる優しい手。その先から、柔らかい声が聞こえてくる。


「早く食べようか。冷めちゃうよ」


 私は涙で滲みそうになった目の端に、飛び切り美味しそうな晩御飯を認め、目をごしごしと擦った。

「いただきます」

「どうぞ召し上がれ」

 程よい温かさに落ち着いた煮込みうどんを口に運ぶ。

「……美味しい」

「それは良かった」


 私、お腹が空いていたんだった。


 仕事に疲れてベッドに突っ伏すことの方が多い生活の中で、しっかりとした食事を摂れていなかったことに気付かされた。自分で料理をするのは好きだが、疲れている時にはどうしても疎かになってしまう。


 私は美味しい手料理に舌鼓を打ちながら、心から感動していた。

 チラリと理人くんを窺うと、満足そうな視線とかち合う。


「僕は、誰にでも優しいわけじゃないよ」


 君は知っているはずだけどね。と続けられ、私は困惑した。


 理人くんが何をしたいのか分からない。

 私が疲れているから料理を作りに来てくれた。なんだったら家事もやっていきそうな雰囲気で……。

 ありがたい。すごく嬉しい。

 でも、これは、私が彼の幼馴染だから。

 だから優しくしてくれるんだと、自分に言い聞かせることを忘れちゃいけない。


「また何か思い悩んでいるのかな。僕の仕事はパソコンさえあればどこでもできるし、仕事に疲れている君に少しでも休んでもらいたいという気持ちに、嘘はないよ」



 夜に溶けるような、優しい声色。


「でも」


「仕事、今日も疲れたね。前に月末は忙しいって言っていたから、夜遅くて迷惑だったかもしれないけれど、どうしても君を休ませてあげたくて来たんだ」


 桜の花びらが空からふわりふわりと降るように、暖かな言の葉が紡がれる。


「本当にお疲れ様」


 私は、そんな彼の声に促されるようにぽつりぽつりと話し始めた。


「仕事は忙しくても別に平気。もう慣れたし」

「うん」

「朝早いのも、夜遅いのも、別に平気。みんなそうやって仕事しているし」

「うん」

「でも、ときどき、本当にときどき、すごく疲れちゃって……」

「うん」

「だけど、もっと頑張ろうって。頑張れるって。そう思えば思うほど、しんどくなって……」

「うん」

「仕事、やめたいって何度も思った。でも、感謝されると嬉しいし、自分の仕事が好きだなって思うこともあって、だから、苦しいのかなって……」

「うん」


 私の愚痴に穏やかな返事が返ってくる。

 私の話を逃さず聞いてくれる。理人くんは昔からそうだった。


 ずっと変わらない彼の優しさに触れ、私はなんだか急に面白くなって笑った。


「なんか、ふふ。なにも言わないんだね。情けないぞ! とか、もっと頑張れ! とか」

「言って欲しい?」

「ううん、そうじゃないの。理人くんらしいなって」


「僕は君が頑張っていることは知っているつもりだよ。頑張り屋で一生懸命な君を、誰よりも知っているつもりだ。優しくて恥ずかしがり屋なことも。だから、君が選択したことに僕が言えることはないと思う。僕は君が笑顔でいてくれたら、それでいい」


 真剣な表情でそう言われ、顔が火照る。

 どきどきする。

 理人くんのことだ。私が恥ずかしがることも、すぐに顔が赤くなることも計算づくなんだ。

 分かっていて恥ずかしがらせているんだ。


「なんか、食べていたら暑くなってきたね。窓開けてもいい?」


 彼は答えない。

 私は立ち上がった。


 どうにかして平静を装わないと。


 窓を開け、一呼吸して両手を頬に乗せる。

 彼が肌寒いと言っていた外気が私のそれを撫でる。

 カーテンがふわりと舞ったところで、私は今日一番に心臓が跳ね上がるのを感じた。


 抱きしめられている。

 気づかないうちに私のすぐ傍まで来ていた理人くんの鼓動を、背中越しに感じる。

 優しく包まれる感覚にくらくらしそうだ。


「え、あの、理人くん」

「うん」

「うんじゃなくて、これはどういう……」

「あ、ああ、ごめんね」


 彼は悪びれる風もなくそう言うと、私を腕の中でくるりと回転させ、こっちの方がいいかな? と正面から抱きしめてきた。


 そういうことじゃない!


 どうしてこんなことに……。


 全力で拒否すればあっさり逃げ出せそうな力で腕を回しているのを感じ、邪険にできるはずもなかった。


 なにより、彼の温もりに癒されている自分がいた。


「君はいつも頑張っていて偉いね」

 耳元に唇が寄せられる。

「僕は、君が好きだよ」

「えぇ?」

 思わず体を離す。

 一瞬驚いた表情になった彼は、いつも通り楽しげに微笑んで言った。


「ずっと、好きだったよ」


 私は言葉を失う。

 理人くんが別人のような気がして、幼馴染としての彼を探した。

 大人の色気を放つ整った顔立ち。私の頭一つ大きな身長。低く綺麗な声。

 全部が子供の頃の彼とは違った。


 けれど、誰をも魅了する容姿の奥、深い濡羽色の瞳の真摯な輝きは、変わらない彼を物語っていて、胸が高鳴る。


 理人くんが、私を好き。

 どうしよう。

 嬉しい。

 なんて言ったらいいのか分からない。


「一番近くに居られるなら幼馴染も悪くないと思っていた。だけど、お互い進学して社会人になって、全く会わなくなったね。それで君が弱っていることを耳にして、居ても立っても居られなくなった。君が好きだから。幼馴染じゃ足りないんだ」


 ずっと封印していた気持ちが、いとも簡単に溶け出していくのが分かる。


 驚きと喜びで動けずにいた私を見つめる理人くんの、希うような瞳が少しだけ不安気に揺れた。


 ああ、理人くんでもそんな余裕のない顔するんだ。

 小さい頃から知っているはずなのに、こんな表情見たことないかも。


 そんな風に思えば思うほど、自分のことを幼馴染以上に思ってくれていることを実感する。

「私で……いいの?」

「なにその変な質問。君がいいんだよ」

「なんか……、変な感じ」

「信じられない?」


 彼は、真っ赤になりながら首を振った私を、さっきよりもずっと強く抱きしめた。


 頭が彼の腕の中にすっぽりと入る。

 ちょうど心臓の音が聴こえる位置に来ると、大げさになる鼓動の速さが自分のものか理人くんのものか分からなくなった。


 もしかして彼もどきどきしているの?

 理人くんが、私に……?

 そのことが、こんなにも、胸が締め付けられるほどに、嬉しいと感じた。


 慣れない抱擁に気恥しくなった私は、背中に回した手で軽く彼を叩いた。

「ねぇ、苦しいよ」

「僕が君を誰よりも好きなことを、分かってくれた?」

 きつく抱きしめられたままそう聞かれ、私は何度も頷いた。


 理人くんのそばにいると安心する。

 微笑むと嬉しい。

 心が幸福で満たされる。


 幼馴染のままでいることが一番いいと、そう思い込もうとしていた私がいたことを、理人くんは知っているのだろうか。

 途端にそんな思いに駆られ、私は長年くすぶっていた想いを、震える声で彼に伝えた。


「わたし、理人くんが、好きだよ。私の方が、もっとずっと貴方を……」


 好きです。

 そう言い終わる前に、彼の顔が近づき、私の唇に彼のそれが重なる。

 一瞬のキス。

 名残惜しそうに離される唇。

 理人くんが、私を優しく見つめる。


 私は、真っ赤な顔を隠すことも忘れ、不満の声を上げた。


「最後まで、言ってないのに……」

「我慢できなかった。夢みたいだ」

「……恥ずかしい」

「なんで?」

「だって、顔、近い」

「君は近くで見ても、とっても可愛いよ」

「そういうことじゃなくてっ」

「どういうこと?」

「……もういい」


 恥ずかしくて横を向く私の頬に、理人くんの暖かい手が触れる。


「もう一度しても?」


 魅惑的な深い黄金色の瞳に覗き込まれ、私は観念したように小さく頷く。

 その反応に、理人くんは心底嬉しそうに笑うと、二度目のキスをしてきた。



 これからも、こんな風に彼の言葉に顔を赤らめ、心が救われる日々が繰り返されるのかなぁ。なんて、頭の隅で考えて胸が熱くなる。

 今はただ、幼馴染を卒業した想い人の腕に抱かれる時間が、少しでも長く続けばいいと、心から思った。



おしまい

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