#108 : Fallen Angel / ep.1

 9年前のことだった。

 初めて彼女を見た日は昨日のことのように思い出せる。

 義務教育を終えたばかりの15歳。座長や演出家、その他スタッフが口々に噂していた逸材の正体は、教室に並ぶ新入生の群れを一目見た瞬間、理解した。

 逸材たる理由のひとつがその容姿。

 青ざめた月のような肌には長い金髪が柔らかく張り付く。物言わず、しかし雄弁に語る琥珀色の双眸。腰高で、かつ、低すぎず高すぎない華奢な体躯。彼女を見た者の9割近くは、西洋人形への憧れと——そして畏敬の念を——想起せずにはいられないだろう。

 彼女は異質な存在だった。だがそれは、ともすれば不気味なまでの外面的な魅力を備えていたからというだけではない。


「質問いいかしら、飯森先生」


 顔合わせ初日。新入生たちへの講義を終えた直後、彼女は私の許に現れた。

 人形然とした無表情、瞳にはなんの感情も宿していない。そちらが気になって、二回り近く年上——しかも講師であり先輩である——への不遜な言葉遣いをやんわり注意する機会を逃してしまう。


「なぜ、みんなお芝居をしてるの? さっきの授業は単なる座学よね?」


 言わんとすることが判らず聞き返した私に、彼女は告げた。


「熱心な生徒を演じる必要なんてないじゃない」


 聞くに、どうやら彼女は自分以外の生徒39人が、演技の勉強に熱を上げるをしているように感じたのだと言う。

 ある意味、当然の心理だろう。

 実に20倍近い倍率を勝ち抜いた若き舞台役者のたまご達は、マーベリックの看板に泥を塗らない立派な役者になれるよう、身の丈に合わない背伸びをして自らを奮い立たせている。

 それはここが劇団でなくとも同じだ。人間は役割にかなうよう、知らず知らずのうちに演じるものである。たとえばクラス委員はクラス委員たる言動をするし、ムードメーカーを自称する者は明るく振る舞う。それは学校のみならず、家庭や職場、その他様々な場所でのキャラづけと同じ。


「君もというキャラクターを演じているんじゃないかな」

「あたしはあたし。ここが劇団だろうが少年院だろうが変わらないわ」

「君はなかなかのひねくれ者だなあ」

「それの何が問題?」


 だが彼女は、自分以外の残り39人の切なる想いを芝居だと。熱心な生徒を演じる必要はないと言い切った。裏を返せば、自身が自然体であるということ。講師と生徒という関係すら超越したところにいる人間。


「いいや。最初の質問の答えだけれど、おそらく君は、他者への共感性に欠けているのかもしれないね」

「よく言われたわ。あたしは他人の気持ちが判らないんですって」

「判らなくても構わないが、役者になるなら話は別だよ」


 多少、生きづらい思いをするだろうが、共感性を欠いていても普通に生きる分には問題もない。

 だが、役者は共感を使いこなして、客を釘付けにする商売である。


「他者の心の動きを理解できなくとも、我々には先達の残した多く知見がある。多くの物語に親しみなさい。古今東西の物語は、君の価値観を、そして共感性を拡張してくれることだろう」

「言ってる意味が判らないわ」

「抽象的すぎて申し訳ないね。僕も講師として修行の身だから」

「そうね、しっかりしてもらわないと困るわ。あたしの輝かしい未来は、あなた達講師陣にかかっているのだから」


 無表情で彼女は告げる。不躾と不遜が過ぎて、他の講師たちの面目のためにも注意せねばならないと判ってはいるのに笑ってしまった。


「何が面白いのかしら」

「君は大物になると思ってね。名前はなんと言ったっけ」

「調べればわかることを聞かないでちょうだい」

「ああ、すまなかった。明日は君の名を呼ぶよ」


 彼女の名はシャルロット・ガブリエル。常に身ひとつの等身大で、背伸びも見栄も共感もない、無色透明な少女。

 だが人間は——もしかすれば私自身も——異質な存在を意識的、あるいは無意識的に排除しようとしてしまう。彼女のように、堂々たる居丈高な雰囲気を漂わせる存在ならばなおのことだ。

 要は、彼女は出る杭だった。杭が打たれてしまうのは、歴史を紐解いても現在進行形でも、人間の本能的な自然の摂理なのだろう。


「シェイクスピアを読破せん勢いだね」


 一年の歳月が経っていた。

 彼女が教室での座学に出席したのは、入団直後の一ヶ月だけだった。連休明け早々、座学への出席拒否を始めた彼女に、逸材をみすみす逃したくない劇団側は——個人指導を指示してきた。その特別扱いが、彼女をさらに孤高にするとも知らず。


「一年もあればね。現代に通じるところもあるけれど、テーマ性が強すぎて退屈だったわ。沙翁からお説教を受けている気分よ」

「現代に通じるところがあると理解できただけでも、君にとっては成長だろう」


 職務室の私の椅子を奪い、彼女は「どういう意味だ?」とでも言いたげな双眸で睨みつけていた。物語に親しむことで彼女は成長したが、同時に、半端に教養がついたがために、他人を食ったような態度にも居丈高な女王様気質にも磨きがかかるばかりだった。

 世紀の大女優を育てるはずが、とんでもない魔性を育ててしまっている。そう思うと肝が冷える。


「ねえ、飯森さん。あたしがプロポーズしたら結婚する?」

「ないね。君の美貌にたった三日で飽きたくないから」

「三日もあたしを堪能できるのよ。充分幸せだと思わない?」

「離れた場所から眺めるから、花火も夜景も美しいんだよ」


 冗句には冗句で返す。こんなくだらないやりとりは、回りくどい彼女なりの、寂しさのサインだったのだろう。


 彼女は、他者を信じられない。

 だが、ひとりでは寂しさを持て余す。

 彼女の原動力は、寂しさや人恋しさだが、自身の自尊心が——より正しくは防衛本能が——強すぎた。落ち着く場所を求めているのに、いざ落ち着いてしまえば必ずそこに依存してしまう。稀代の才能は危ういバランスの元に成り立っている。


「そう言えば、新入生と挨拶はしたかい? 気になる者がいたら教えてくれ」

「興味ないわ。あっちもあたしに興味なんてないだろうし」

「興味がなくとも、先輩が後輩の面倒を見るのはマーベリックの伝統なのでね」


 マーベリックの教育過程は二年間。その新入生は、師弟か兄弟姉妹のような絆を先輩とマンツーマンで結び、生活や芝居の指導をする伝統がある。


「残念だけど、あたしは先輩からロクなことを教わっていないもの。教えることなんて何もないわ」

「だとしたら、そう教えればいい。自分がされて嫌なことは他人にしなければいいだけだ。道徳の基本だよ」

「あたしは、他人の嫌がることは率先して行えと教わったけど?」

「屁理屈をこねても伝統と校則は曲がらんよ」

「ぶー」


 はたして彼女は——おそらくは初めての人間関係を構築することができるのか。不安だった私の元を訪ねてきたのは彼女ではなく、その後輩となる人物だった。

 後輩ながら、彼女よりふたつ年上。神戸の歌劇団であれば間違いなく男役として引き立てられるだろう、怜悧で精悍な顔立ちの女性、久瀬文香。


「飯森先生! あの人はいったいなんなんですか!?」


 ある意味では予想通りの展開で、杞憂が杞憂に終わらなかったことに笑ってしまう。

 彼女は自分を曲げない。曲げられないのだ。だから後輩、久瀬文香はそのあおりをもろに受けてしまう。彼女のサポートもまた、私の仕事だろう。矯正しなかったばかりに怪物を育ててしまったことへの贖罪だ。


「教わった通りに掃除をしたらやり方が違うと先生に怒られたんです! オリエンテーションの集合時間は教えてもらえなかったし、挙げ句にソシアルの授業です! 私が男性役リーダーをやらないと踊らないなんて駄々をこねたんですよ!?」

「それで、君はどうしたんだい?」

「どうするもこうするも文句を言いましたよ! ちゃんとしてくれ、マーベリックの役者として自覚を持て、あと私も女性役パートナーで踊りたいって!」

「そうしてあげてくれ」


 当時の文香には悪いが、私はようやく安心できた。出る杭で腫れ物である彼女に、真正面から向き合って文句をつけられる人間は貴重だ。ようやくにして巡り会えた後輩を離さないよう、口を酸っぱく——ただし偏屈を起こさないよう伝えたものである。

 たとえば。


「久瀬さんはどうだい? 礼儀正しい謙虚な努力家だと聞いているけど」

「口やかましいだけよ。後輩の分際で生意気」

「頼りになる人が君くらいしかいなくて不安なのだろう。彼女は新入生でも年長者だから、妙な気を遣われているようだし」

「ふーん」


 偏屈だからこそ直接は指摘しない。なるべく彼女が共感できる要素を探して、それとなく伝えていく。察しのいい彼女に、こちらの意図がバレないよう誘導するのは至難の技だ。


「お姉さんしている君も素敵だと思うがね」

「口説く相手を間違えてるわよ、おじさん」

「さて。じゃあ誰を口説いたものだかな」

「いい人紹介してあげるわ。と評判なの」


 くすくす笑って、彼女は去っていく。入れ違いに入ってきた文香は怪訝な顔で私を見つめていた。


「飯森先生……。先輩から、ふたりの将来に関わる大事な話があるから部屋に来るよう言われたんですけど……」

「やってくれたな、あのバカ……」


 彼女を操縦できる者などこの世にはいないのだろう。私も文香も大いに遊ばれ振り回された。その結果がどうなったかは、数年後に分かることだったが。


 *


 飯森は話を切って、美琴のグラスにコーヒーのお代わりを注いでくれた。在りし日を懐かしむ渋面は柔らかく微笑んでいる。ここまでは悪い思い出ではないのだろう。


「長い話になってしまったね」

「いいえ、興味深い話でした。多少丸くなったようですけど、さほど変わっていないのが、あの人らしくて」

「そうだね。他人に心を許さないのも相変わらずだ」


 飯森は苦笑をひとつ、その後すぐ笑みが消えた。シャンディが頑なに語ろうとしない壮絶な過去が迫っているのだろう。


「だが、おそらく。昔のほうがまだ、他人に心を開けていただろうね」


 飯森は静かに告げると、煙草を吸っていいか確認してくる。美琴が首肯すると、飯森は煙を吐き出した。

 煙草には鎮静作用がある。吸わないと話せないくらいの内容を想像すると、美琴も身構えてしまう。


「……私もいいですか、煙草」


 飯森から一本拝借して、過去に一度だけ吸ってむせ返ってやめた煙草に火をつけた。案の定気道を通った途端むせ返って、鎮静するどころの騒ぎではなかったけれど。


「今から語るのは私と文香の罪の告白だ。できれば黙っていてほしいところだけれど、どうするかは黒須さんが決めてほしい。罰を受ける覚悟はできている」

「……はい」


 吸いかけの煙草を灰皿に押し付けて、飯森は口を開き始めた。


「主演舞台が決まったことが不幸の始まりだったんだよ」


 *


 2年の助走期間を終えて、彼女は劇団の採用試験に合格、晴れてマーベリック正所属の劇団員となった。マーベリックは全国五大都市に併設劇場を持っており、彼女の所属は私と同じ、花形たる東京・日本橋劇場である。

 初舞台は、彼女が飽きるほど読んだシェイクスピア・ハムレットの現代アレンジでの町娘役だった。他の舞台人と同じようにキャリアの初期は端役やよくて脇役程度。台詞がもらえれば御の字程度のものである。

 層の厚いマーベリックでは、初めて主演をこなせるのは早くて二十代の半ばから。新人や若手の出しろは少なく、むしろそれは当たり前のことで、新人たちも——もちろん居丈高な彼女すらも——納得して、端役として舞台を作り上げていた。

 そんな日々が続いて3年。彼女が20歳になった時、演出家はこれまでの伝統と慣例をぶち破らんと大きく舵を切った。


「まったく異例の事態だな」

「そうですね……」


 私の執務室は、半ばシャルロットと文香が居座る秘密基地となっていた。一年遅れで同じく日本橋劇場に配属された文香が、次回作の香盤表を手に走り込んできて、私もようやく事態を把握した。

 次回作のタイトルは《琥珀色恋愛遊戯》。オーセンティックバー・アンティッカを舞台として、問題を抱えた客たちに、時に優しく時に厳しく接するバーテンダーが主人公の物語。その主役、バーテンダーのシャンディ役に指名されたのは、本来であれば絶対に主役を任せられることのない、弱冠20歳の若手女優。


「まさか先輩が主演とは……」

「いずれ3人で共演したいとは思っていたけれど、こんなに早く時が来るとはねえ」


 香盤表を何度読んでも、主演はシャルロット・ガブリエルとあった。私は4番目の位置で、堅物で生真面目なのにふとしたはずみで不倫に及んでしまった男。文香はその不倫相手という設定であった。


「これからは飯森じゃなく正恭って呼ぼうかな?」

「よしてくれ。好きになっちゃうから」

「なってくれていいけど——」


 文香の返答は、勢いよく開け放たれた扉の音にかき消された。息せき切って走り込んできたのは、次回作の主演女優だ。


「しゅ、主役になったわ! どうしたらいい!?」

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