#103 : Scandal / ep.1

 赤のSUVから降りた美琴を待ち受けていたのは、青々とした芝生の中に佇む白亜のチャペルだった。

 六本木からほど近い港区麻布。愛しあう者が永遠の愛を誓う場所。場内の駐車場は参列客が乗りつけた外車で埋まっていた。


「ホントに着いてしまった……」

「楽しみだねー美琴さん!」


 ワンコールで琴音の電話に出て、ふたつ返事で「行く行く!」と即答した董子は、車の中で再三「楽しみだねー」とまるで自分の挙式のように喜んでいた。

 頭ばかりか四肢まで痛い美琴は即日見学予約で決まってしまった式場見学の行方など五里霧中。庭園に立ち並ぶ六角柱のモニュメントのそばに自身が立つ姿を想像しただけで、七転八倒ものに恥ずかしい。


「ご予約いただいた黒須様……え?」


 式場の女性スタッフが琴音を見て固まっていた。飛ぶ鳥を落とす勢いの女優が突如式場の見学予約をしたとあれば、そうなってしまうのも当然のこと。


「わたしは付き添いです。仲良し姉妹なので。ね? お姉ちゃん」

「はは……」


 素を悟られないよう猫を被った琴音に退路を絶たれた。「なるほど」と胸を撫で下ろしたスタッフに案内され、式場に足を踏み入れた。

 手入れの行き届いた庭園に並ぶ厳かなチャペル。プラタナスの並木の向こうには、新宿のビル群が広がっている。

 ちょうど、挙式を終えた新郎新婦と参列者がチャペルからぞろぞろ現れた。幸せそうな人々の輪の中心で、主役たる新婦がブーケを天高く投げた。青空で何度も輪を描いたそれは、新婦の友人と思われる者の胸に飛び込んだ。

 絵に描いたような幸せな光景。

 主役ふたりの姿を、自然と自分とシャンディに重ねていた。ふたりとも純白のドレス。親族と友人に囲まれた青空の下で、ふたり一緒にブーケをトスする様子を脳裏に思い描いてしまう。


「美琴さーん、こっちこっちー! 説明してくれるってー!」


 董子に声をかけられるまで気づかないくらい見惚れていた。挙式なんて通過儀礼的なものだと思っていたのに、将来を誓った者がいるだけで感じ方がまるで違って。

 シャンディとあの場に立ちたい。あの新婦のようにドレスを着て、ふたり見つめあって愛を誓って万雷の拍手喝采で祝福されたい。

 そのためには踏み込まなければと思う。シャンディが婚約から先に進もうとしない理由を探りたい。それが過去にあるのなら理解したいし、大丈夫だからと、その程度で壊れるような関係じゃないからと、凍りついた心を温めてあげたい。


 事務所内の会議室で、プランの説明を受けることになった。

 収容人数は百人前後。信仰上の理由がなければチャペルでの教会式で、併設のレストランで披露宴がなされる。料理はアレルギーから宗教・思想に細かく配慮可能で、ウェディングケーキのデザインだとか貸衣装だとかお色直しの回数だとか諸々が語られる。


「ご質問ありましたらお答えいたしますよ」


 指されたものの、質問は何も出てこなかった。シャンディとの挙式を夢想してばかりで、説明はほとんど頭に入っていないし理解もできていない。


「お姉ちゃん、妄想してて聞いてなかったでしょ?」

「幸せボケなの?」


 器用に猫を被ったまま、琴音がころころと笑っていた。指摘された通りの幸せボケで恥ずかしい。

 スタッフが一時退出——先ほどの新郎新婦の見送りだろう——した途端、美琴はテーブルに顔面を埋めたのだった。


「あー……!」

「新婦さんかわいかったね!」

「かわいい! うっすら着てみたいとは思ってたけどこれからアレ着るんだとか着てもらえるんだって思ったらもう!」

「おーおー、はしゃぐなはしゃぐな」

「夢見る少女みたいね」


 楽しげな3名の雑談をBGMに、パンフレットと見積費用を見比べる。

 場所柄そこそこ値は張るけれど、いまの貯蓄と日比谷の給料なら払えなくもない金額。都会と庭園のギャップの美しさに、レストランの並々ならぬこだわり。何より、アンティッカにほど近い小高い丘の上。中腹には初めて告白した神社があって、麓にはアンティッカの入居する雑居ビルがある。シャンディ相手にプレゼンするなら、これ以上ないほどの好条件だ。

 目を皿にしてパンフレットを読み込む美琴をほっぽって、話題はころころと移り変わっていた。女3人寄れば姦しい。


「私も式してから籍入れたらよかったなー」

「式とか嫌ってそうだもんね、早苗姉」

「自ら進んで辱めになど遭いたくありません、だってー。一生に一度なのにね」

「フォトウェディングは? それなら早苗さんも恥ずかしくないんじゃない?」

「やるなら大勢呼んですごいパーティーにしたい! 美琴さん友人代表スピーチやってね!」

「ケケケ。噛み倒しそーだな、姉ちゃん?」


 名を呼ばれて顔を上げた。話の流れについていけない。


「へ?」

「美琴は誰呼ぶ?」

「うーん……」


 問われると考えてしまう。知り合いは多いけれど、頻繁に連絡を取り合ってはいない。しかも、理解のない人を呼んでも困惑させるだけだろうから。


「とりあえず琴音? あと葵生ちゃん」

「そりゃま親族だしな」

「で、親だけど。理解してくれるかどうか」


 シャンディには会わせたけれど、同棲ではなくルームシェアだと伝えてある。いざ入籍やら挙式やらとなれば、もう一度越えなければならない壁はあって。

 凛子は興味なさそうに言う。


「放っておいていいんじゃない? 親なんて」

「それな」


 仮にも同じ親から生まれたというのに、琴音とはまるで考え方が違っていた。せめて両親が理解してくれることを祈るのみ。


「あとは、董子さん達には来てほしいかな。説明いらないし早苗さんとは仕事上の付き合いもあるし」

「絶対行く! 早苗もしたいって言うかもしれないもん! ドレス着た早苗、絶対かわいい!」

「ちんちくりんだから嫌だって拒否んじゃね?」

「言いそー」


 董子と早苗の20センチ近い身長差を考えれば、早苗の心境は推して知るべしだった。

 あと、説明が不要で呼べる程度には親しい人となると、大学時代の支倉先輩とそのパートナー。仕事関係なら来瞳とミシェルくらいだろうか。

 考え込んでいたところで、凛子が声を上げた。


「あれ? 私は呼ばれないの?」


 さすがにシャンディとの式に凛子を呼ぶ勇気はなかった。


「いや、呼ぶのは忍びないって言うか……」

「凛子ちゃん、心臓に剛毛生えてんの?」

「どうせあの女が呼ぶでしょ。マウント大好きクソ女だし」

「なら、姉ちゃんさらって逃げたら? 《卒業》みたいに」

「逃げ切る! 地の果てまで!」

「みこシャに割り込んじゃだめ! 地雷!」


 往年の映画を引き合いに出して琴音はケタケタ笑っていた。

 それでも幸せだった。

 婚約状態のままの不安を、未来への希望が塗り潰していく。優しい友人達に囲まれて祝福されたい。そして、隣に立っているであろうシャンディに言いたい。

 みんな、私たちの船出を祝ってくれる。信じてくれる。

 もう冷たい過去に自分を閉じ込める必要はないんだよ。


「あ、ごめん。電話」

「あれ。私もだ」


 ほぼ同時に凛子と董子の電話が鳴った。それぞれ会議室の隅に移動して話し始めている。口ぶりからして凛子は仕事関係、董子は早苗だろう。

 そしてふたり同時に。


「えっ!?」


 声が上がる。ふたりの視線は美琴——の隣にいる琴音に注がれていた。

 早々に電話を切った董子が飛び込んでくる。いつもにこやかな董子とは思えないくらいに深刻そうな顔色。悪い予感がする。


「コトちゃん、マズいことになってる。ツイート見れる?」

「なんかあったん?」

「あのね……」


 董子は言い淀んで凛子に目配せした。ふたりだけに分かる符牒だろうか、凛子は小声で話しながらも指先でOKサインを出していた。


「スッパ抜かれてるよ、凛子さんとのこと」


 スマホには、SNS上のトレンドが並んでいた。トップトレンドに躍り出た項目は《黒須琴音》と《同性愛者》。バズっている週刊誌のWEBサイトには、スキャンダラスな見出しが躍っている。


《黒須琴音 女性マネージャーと同棲・熱愛か》


「え、これって……」


 センセーショナルな見出しに比べて、記事自体は内容の薄いものだった。

 琴音と凛子が近所を歩いている場面や、マンションの地下駐車場から出てくる赤のSUVの隠し撮り写真を拡大解釈して同棲交際と結びつけ、どこの誰かもわからない謎の関係者のコメントが「結婚も近いかもしれない」と語る形で終わっている。


「マスゴミが……」

「ホントね」


 口汚く吐き捨てた琴音に、通話を終えた凛子が調子を合わせる。

 事態は急を要する。それくらいは美琴にも判断できた。早苗が董子に連絡したのは琴音が日比谷の看板だからだろう。事実であれなんであれ、日比谷の広報部は紛糾しているに違いない。


「琴音、急いで家帰った方がいい」

「わーってる」


 おざなりな返事をひとつして、琴音は会議室を後にした。入れ違いに戻ってきたスタッフに平謝りして車に戻る。

 車内は式場を見に行った直後だというのにお通夜ムードが漂っていた。冠婚葬祭が同時にくるとはこういう状況を言うのかもしれない。


「美琴さん、シャンディさんから連絡はあった?」

「さっきから掛けてるんだけど出なくて。寝てるんだと思う」

「こんな時にあのクソバカ女……」


 その時、今度は琴音の着信音が鳴り響いた。

 運転中の琴音の代わりは凛子だったけれど、通話ボタンを押して美琴に手渡してくる。画面には黒須葵生と表示されていた。


「葵生ちゃん? 琴音は運転中だけど」

『ごめんなさああああい!』


 大音量の泣き声で鼓膜がやられそうになった。キーンと一瞬走る耳鳴りが止むのを待ってから話しかける。


「ど、どうしたの?」

「うち知らんかったんよ!? この前お散歩しとったとき、女の人に話しかけられて! もしかしてみこ姉の従姉妹? って聞かれたからそうですって言ったら……!」

「ごめん話が見えない! どういうこと!?」

「ほやから! 姉妹揃って結婚おめでとうございます言われて、うち言うてしもたんよ! ありがとうございますって!」

「あ、ああ! そういうこと……!」


 記事に登場する謎の関係者の正体は葵生だった。

 ただ葵生がリークした訳じゃない。誘導尋問にハメられたのだ。一般人である美琴の名を出されたら、葵生が警戒心を緩めるのも仕方がない話。


「何つってる、葵生?」

「記者にハメられて喋っちゃったって」

「あンのボケ!」

「葵生ちゃんは悪くないから。さも事情通みたいな書きかたする方がおかしいんだって」


 ルームミラー越しの琴音の両目が所在なさげに伏せられた。落ち着いてくれたらしい。


「葵生ちゃんは無事だった?」

『う、うん……ひふみんと一緒に、みこ姉の家に避難しとるとこ。いいかな、みこ姉……』

「そうした方がいいね。うちで合流しよう」


 芸能人にプライベートなどない。どんなに住所を秘密にしたところで、人海戦術でつけ狙うパパラッチには筒抜けだ。事務所が同じで隣人、メディアに顔出しもしているひふみも取材攻勢に遭うことは間違いない。

 電話口の声が葵生からひふみのボソボソ声に代わる。


『横浜には、帰らない方がいい……』

「ん。董子姉、ごめんだけど武蔵小杉には行けないわ」

「オッケー! ていうかこのメンツだと、世間に顔割れてないの私だけだもんね。買うモノとかあるだろうしガンガン頼って!」

「ありがとう董子さん、ホント助かる……」


 凛子は事務所や関係各位との電話を続けていた。董子は早苗との間で情報共有を続ける。一方で、美琴は何度となくシャンディに掛けるものの、通話もLINEも応答がない。いつもは眠っている時間だから仕方がないけれど、間が悪い。


「マスコミ嫌いが悪化しなきゃいいけど……」


 おとといアンティッカを訪れた情報誌記者・宮下花奏は仕事のできる女オーラを醸し出していた。実際仕事も——アンティッカの扱いには不満もあるが——素人目には素晴らしかった。

 だけど世の中にはこういう、人間のプライベートを詮索して好き勝手に荒らす記者もいる。《有名税》という免罪符でどれだけの著名人が暴かれたくもないプライベートを晒されたものだろう。


「あと姉ちゃん、しばらく厄介になるかもしんない。ごめん」

「琴音は何も悪いことなんてしてないよ」

「ん。いい姉ちゃん持てて幸せ」


 エンジンが唸った。車は首都高3号線を西へ向けてひた走る。

 目的地は避難場所、経堂。法定速度ギリギリで、昼過ぎの避難経路を駆け抜けていった。


 *


「ないすしょーっと! 来瞳さんカッコいいー!」


 ところ代わって中目黒。庭園にも似た人工芝が広がる三階建て建屋の最上階で、赤澤来瞳は7番アイアンのフルスイングで白球をかっ飛ばしていた。

 折しも平日の勤務日、さらには業務時間中にである。


「やっぱり仕事サボってやる打ちっぱなしは最高ねぇ。ミシェルもやってみるぅ?」

「えっえっ、できるかな? わたしやったことないですよ……?」

「教えてあげるわよぉ」


 いちおう、これでも仕事はしていた。上司である早苗の指示で中目黒の関連会社を内偵するのが来瞳とミシェルに課せられた任務。すでに内部に潜入しているスパイからデータの入ったUSBメモリを受け取るだけの簡単なお仕事だ。

 目的さえ果たしてしまえば、時間を潰しても問題はない。仕事さえしていれば何も言わない早苗は、唯我独尊人間の来瞳にとって最高の上司である。


「クラブはこうやって握ってぇ」

「来瞳さん、くすぐったいですー」

「ふふっ、この辺がぁ?」

「いたずらしないでくださいー。あははは……」


 クラブを握る小柄なミシェルを、来瞳が背後から抱いていた。スイングの姿勢をミシェルに覚え込ませるべく、まさに手取り足取り、体を使った指導がなされている。


「クラブのスイングはワルツと同じ3拍子なのぉ。定位置からクラブ引いて、ブンって振るのよぉ」

「アン・ドゥ・トロワ?」

「それもいいけどぉ、オススメはぁ」


 クラブの先端を白球の前に置く。定位置。


「くろ」


 言って、両腕を後方に引き絞り、


「すみ」


 そこから白球目がけてクラブを振るった。


「こと!」


 ミシェルが腕の力を抜いていたので、ヘッドは綺麗に白球を捉えて快音とともに飛んでいく。


「くろ・すみ・こと?」

「そうよぉ。みーちゃんのリズムがいちばん打ちやすいのぉ。ミシェルもやってみてぇ?」

「うんうん! くろ・すみ・こと!」


 ミシェルのスイングは空振りだった。が、来瞳が立ち位置を修正した2打目は、スライス気味ながら白球が飛んでいく。


「当たった! 当たったよ来瞳さん!」

「ねー? みーちゃん可愛いから飛ばし甲斐があるでしょう?」

「うんうん! 黒須美琴すごい! 美琴さん見たらスイングしちゃいそう!」

「それはやめたげてねぇ」


 来瞳とミシェルが例のスキャンダルのことを知るのは、長い長い昼休みを終えたときのことだった。


 *


 久しぶりに経堂へやってきました。

 いちおうピンポンは鳴らしましたが、家にいるはずのシャンディさんの反応はありませんでした。電話を鳴らしても無視ですし、スタンプ爆撃しても既読がつきません。


「だいじょうぶやけんね、ひふみん」

「…………」


 ひふみんは震えていました。1年くらいルームシェアさせてもらうと、寡黙と沈黙を愛するひふみんが何を言いたいのかくらいは分かるようになりました。少しくらいは喋ってくれるので、《せとか》たちハムスターよりは気持ちが分かりやすいのです。人間としてはとても不思議な人ですけど。


「マンションの前に人いっぱいで怖かったんよね。ここはだいじょうぶやけん」

「……そう、ね」


 みなとみらいのマンション玄関には、マスコミの皆さんが大勢駆けつけていました。たまたまお散歩に出ていたうちとひふみんは、報道陣の群れを見て家に帰るのをやめて、着のみ着のまま避難してきたのです。

 ひふみんは人混みが苦手です。見ず知らずの人に囲まれると気分が悪くなってしまうのです。芸能人なのにアーティストなのに。

 だから、うちが守らないといけません。衣食住の面倒を見てもらっているぶんきっちり恩返しする。お給料以上のお仕事ですが、居候にも居候のプライドがあるのです。


「シャンディさーん。入るねー」


 ピンポンしても返事がないので、ドア越しに叫んでから合鍵を使いました。みこ姉とシャンディさんの家の鍵は変わっていません。無用心が極まりないですが、ものぐさで助かりました。

 扉を開けると、ミモザが迎えてくれました。「ひさしぶり〜」なんてミモザに挨拶しましたが、今日はなんだか様子が違います。


「なあお。なあお」

「どうしたん、ミモザ」


 なあお、とミモザは鳴き続けていました。

 不思議です。ミモザは妙に空気を読んで、場を弁える賢い子なのです。それに普段はうちのことなんていっさい相手にしません。みこ姉いわく、高貴なる女王様だからだそうです。

 そんな女王様がずっと鳴いています。なんだか不安そうに聞こえます。


「……葵生、臭くない……?」

「お風呂入っとるよ!?」

「……違う、この家……」

「んん。たしかに、ちょっと臭う?」


 なんだか酸っぱい臭いが立ち込めていました。シャンディさんもみこ姉も綺麗好きな性格です。臭いの発生源をそのままにしておくようなことはきっとしません。

 ひふみんの腕にミモザを預けて、玄関まで漂う臭いの元を探ります。廊下を抜けて、リビングに続くドア。ミモザが通ったから少し開いていて、そこから臭いが漏れ出ている感じで。


「シャンディさん……!?」


 臭いの元はリビング。もっと言えば、シャンディさんでした。

 リビングの床は、吐いたもので汚れていました。酸っぱい臭いの発生源はこれです。水っぽくて、お昼に食べたと思われるラーメンの切れ端。その水たまりの中に、シャンディさんは倒れていました。

 元々白い綺麗な顔は、げっそりして青白くなっています。閉じられた瞼、動かない体。それだけ見たら——


「シャンディさん! シャンディさんしっかりして!」

「……なに、これ……」


 ひふみんにはショックが強かったのでしょう。腰を抜かして座り込んだ腕の中で、ミモザがにゃあにゃあ鳴いています。


「死んでる、の……?」

「脈はあるし、呼吸もしとるけん! たぶん寝とるだけよ!」

「そう、なの……?」

「シャンディさん、起きてー! おーきーてー!」


 祈るような気持ちで、横向きのシャンディさんを揺らしました。頬をぺちぺちやったりしてみると、ほんのわずかに眉間に皺が寄りって、細く目が開けられました。宝石のように綺麗な瞳なのに、今は消え入りそうで不安になります。


「ん……」

「シャンディさん! 聞こえる? うちのこと分かる?」

「葵生、ちゃん……」


 ガラガラで、空気の抜けるようなヒューヒュー声でした。ちゃんと意識はあります。シャンディさんが咳き込みだしたので、背中をさすってからとりあえずお水を飲ませます。

 テーブルの上には、大量の酒瓶が置いてありました。飲みすぎて吐いてしまったのでしょう。あれだけお酒に強いシャンディさんがここまで酔うなんて信じられません。


「こんなに飲んだら体に悪いよ」

「そうですね……今日も営業ですし……」


 起き上がろうにも、シャンディさんは力が入らないようでした。生まれたての子鹿みたいにふらふらして、吐いたものでドロドロになった体でお風呂に向かってしまいます。

 立って動けるから救急車を呼ぶまでもないのかもしれませんけど、この状態で仕事に行かせるなんてできません。


「いかんよ!」

「……だいじょうぶ、ですから」

「どう見てもだいじょうぶじゃないけん!」

「あたしが行かないといけないんです」

「みこ姉が悲しむよ!」

「美琴のために行くの! 退きなさい!」


 青白い肌でした。だけどシャンディさんの目元には強い感情が宿っていて。いつもみたいな遊びのにらみじゃない、本気の怒りで見つめられます。


「シャンディさん……?」

「……ごめんなさいね、怒鳴ったりして。あたしは平気ですから」

「で、でも……」

「美琴に見つからないよう、お掃除しておいてもらえますか。冷凍庫のアイス食べていいので」


 そんなもので釣られるほど、うちは子どもじゃありません。


「お掃除はするよ。でもみこ姉にナイショになんてできんから」


 シャンディさんは何も言わず、化粧もしない適当な格好で、逃げるように出て行ってしまいました。一生懸命掃除するうちとひふみんにお礼も言わず、です。


「何があったんかなあ、シャンディさん……」


 約束通りハーゲンダッツを食べながら、みこ姉達の帰りを待ちます。ミモザはひふみんの膝の上で、ずっとうずくまっていました。

 良くないことが起きています。みこ姉に早く戻ってきてほしい。

 シャンディさんを助けてあげられるのは、みこ姉しかいないんですから。

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