#87 : Impossible / ep.1

「プレゼン資料は持ちました?」

「持った!」

「もし資料をなくしたら?」

「USBとクラウドに保存してる!」

「行ってきますのキスは?」

「……さっきした!」


 最後の確認だけ若干返答が遅れたが、美琴は経堂の自宅玄関で最後の指差し点検を終えた。

 玄関でのお見送り。飼いネコとの距離感を測れないシャンディの腕の中で、ミモザがにゃあにゃあ暴れている。ミモザにも行ってきますのひと撫でをしてやると、もう用は済んだと飼い主の腕を飛び出していった。つくづく飼い猫に愛されないシャンディである。


「今日は日比谷本社に乗り込むのでしたっけ?」

「そう。企画部社員に資料を提出するだけの簡単なお仕事です」


 シャンディに計画を悟られないように、美琴はほんのりと嘘をついた。

 事の次第は昨晩のこと。ステイホームに飽きて夜の経堂をひとり散歩していたときのことである。


『おわかりのことと思いますが、企画部は秘書課の支配下にあると言っても過言ではありません。元本部長がアレでしたから』


 電話口から聞こえた早苗の声は、いつもよりも早口だ。状況が逼迫していることは充分に伝わった。

 秘書課はスパイの赤澤を除いても4名の少数精鋭。真正面から挑んでも勝ち目はないし、虚を突こうにもその虚、弱点が分からない。美琴ひとりでは手詰まりだ。


「私に勝ち目があるようには思えないんですけど」

『ええ。ですので奇襲攻撃を仕掛けます』

「早苗さんがですか?」


 早苗は呆れたとため息をついた。


『貴女が、です』


 ただただ胃が痛かった。

 奇襲を仕掛けろと言われても、そもそも秘書課の方が奇襲を仕掛けてきたのだ。早苗を静岡に飛ばして、美琴の内定を一方的に潰してきた因縁がある。


「直接秘書課に乗り込むとかじゃないですよね……」

『おおよそ似たようなものです。説明します』


 早苗の説明はつまるところ、日比谷内部にレジスタンスを組織したということだった。

 レジスタンスなんて単語が学生時代の世界史以来で、まるで内容が頭に入ってこない。穏やかじゃないことを単刀直入に言われて、美琴の胃はキリキリと痛む。

 美琴の苦労など知る由もないのか、早苗は淡々と続けた。


『美琴さんの任務は、ご自身の企画をコンペに潜り込ませること。黒須美琴が日比谷のコンペに参加したという既成事実を作ってしまえば、秘書課も動きにくくなるためです』

「なら、メールに添付して送ればいいですね?」

『それでは不完全です。直接、企画部長のデスクに置いてくる必要がある。連中に見つからないように隠れてこっそりと』

「いやいや、スパイ映画じゃないんだから……」

『これは映画ではなく仕事。くれぐれも他言無用でお願いします』


 そして早苗の指示通り、美琴は出発の朝を迎えることとなった。

 美琴の抱えた任務ミッションはひとつ。

 セキュリティに守られた日比谷本社へ潜入し、秘書課の息がかかった連中に気づかれないよう企画部へ向かい、資料一式をデスクに置いてくること。

 ついでに言うと、シャンディにもバレてはいけない。


「ふーん。簡単なお仕事のわりには、妙なものですよねー」


 シャンディの勘の鋭さは筋金入りだ。油断するとこぼれ落ちそうな冷や汗をどうにか意地で引っ込める。


「妙って何が?」

「このご時世に、わざわざ資料だけ持って出掛けなきゃいけないところですよ」

「まあ、テレワーク期間だもんね」


 シャンディの言い分は正しい。実際、他の社員はメールなりチャットツールなりでコンペ担当者に企画を送ればおしまいである。

 デジタルでは送れないコンペ用のサンプル品や模型モックも、なるべく郵送で済ませるよう推奨されている。


 ただ、美琴の目的はコンペに参加することではない。

 『社外の人間である黒須美琴が日比谷の企画コンペに参加した』という既成事実を作ることが目的だ。


「早苗さんもご自宅で仲良くデレデレワークだそうですけれど」


 シャンディは早苗の身に起こった顛末を知らない。

 この計画は秘密。当然ながら、早苗が浜松へ飛ばされたことも黙っているよう言われている。シャンディに嘘をつくのはツラいが、美琴はどうしても証明したい。

 美琴はひとりでもやり遂げられる人間だと。

 シャンディに釣り合う自立した人間だと。


「サンプル品があるから。そのついでに新企画も3本くらい出してこようと思って」


 平静を装って、美琴は鞄から覗く茶封筒に視線をやった。

 封筒の中身は、明治文具時代の忘れ形見である《削りカスポプリ》のサンプル品だ。ソーダガラスの小瓶に、凛子の試行錯誤で作った3種のオリジナルブレンドアロマを染み込ませた削りカスが入っている。

 封筒を一瞥して、シャンディは納得したようだった。


「ああ、割れ物ですものね。郵送事故があったら目も当てられないと」

「そういうこと。じゃ、行ってきます」

「あ、美琴?」


 ドアノブを持つ手が震えた。相手はシャンディだ、いったん納得したのはフェイントかもしれない。

 恐る恐る振り返った美琴の目と鼻の先で、シャンディが琥珀色の瞳を上弦に歪めていた。


「忘れ物ですよ」


 一瞬で、美琴のマスクがズラされた。露わになった口元を、シャンディが上下の唇で柔らかく挟む。啄むようなバードキスは、まるで唇を丹念にマッサージしているようで。

 ずいぶん長い口元への愛撫でふらつきかけた美琴を見て、シャンディは機嫌よく微笑んでいた。


「い、行ってきますのキスはしたでしょ……」

「グロスの代わりです。潤いました?」


 マスク生活の落とし穴。色移りが嫌でグロスを控えると、唇の色が悪くなってしまう。そこで口紅だかリップクリームの代わりになってあげた……という体裁のイタズラなのだろう。


「素直にリップ塗ってよ……」

「いーえ。顔全体の血色をよくしてあげたかったので」


 玄関先の姿見に写った美琴の顔は、言うまでもなく真っ赤だった。血色がよいというよりは、頭に血が上っている。うっかり墜ちてしまいそうな自身を引き締めるべく、頬を叩いて気合いを入れた。


「ふふ、いい顔になりましたね」

「い、行ってきます……!」


 玄関から出て、外の空気を吸い込んだ。マスクで口元のみならず顔全体を覆いたいところだが、今は幸せな悩みに浸っているだけではいけない。大事な任務があるからだ。


「頑張んなきゃね、みんなのためにも」


 経堂の街を歩きながら気合いを入れる。

 今日の美琴は、秘書課と戦う女スパイだ。頭の中で有名なスパイ映画のテーマソングを流しながら、定刻通りにやってきた電車に揺られて新橋を目指すのだった。


 一方、その頃。


「なーんか隠してますよねえ? そう思いません? ミモザ」


 シャンディの腕を離れたミモザは、キャットタワーの最上階で大きく伸びてあくびをした。


「お高く止まってないと落ち着かないだなんて、誰に似たのかしら?」

「なあお」

「まあ、貴女はしょうがないとして。問題は隠しごとをしちゃうネコちゃんです」


 シャンディは静かに目を瞑り、今朝までの流れを振り返る。

 美琴に不審な点はなかったか。日比谷本社で酒盛りをした日。協力を申し出たらちょっとしたケンカになった日。突如飛び出していった日。そして今朝。


「うーん……。何かを見落としているような……」


 思い出してみても、美琴の行動には特に不審な点はなかった。昨晩から今朝は緊張している様子だったが、それは日比谷へ出向くから。

 瞑目して脳裏に情報を並べていく。家の中での美琴の様子はどうだったか。

 リビングでは。お風呂場では。ベッドの上では。

 特に変化がないはずなのに、何かが消えている気がして。


「ああ、葵生ちゃんですよ。忘れてました」


 シャンディはようやく思い出した。居候、美琴の従姉妹・黒須葵生が、琴音の家に行くと言ったまま一週間帰っていなかったのである。


「まあ、でも。琴音さんの家なら安心でしょう。さあ、今日は何しましょうかねえ……」


 頭に引っかかっていた謎が解けた。ニュースばかりで退屈なテレビをザッピングしているとまぶたが重くなって、下弦の三日月は新月へと変わったのだった。


 *


 早苗から指示された待ち合わせ場所は、日比谷商事本社ビルを望む喫茶店のカウンター席。

 指定された一番端の席に腰掛けて待っていると、いつの間にやら隣に董子が座っていた。音も気配も感じさせない完璧な隠密行動だ。気合いの入れ方が違う。


「びっくりした。居るなら居るって言ってくださいよ董子さん」


 美琴の発言を遮って、董子は周囲を見渡してから神妙な様子で告げた。


「どこで誰が聞いてるかわからないわ。あと私はコードネーム《ウィロウ・シャロウ》よ」

「ウィ……なんだって……?」

「ミッションを説明するわ、コードネーム《ブラックス》」


 おそらく、スパイミッションか何かだと思っているのだろう。董子はノリノリだ。口調やセリフ回しも海外ドラマの吹替のような具合である。


「ブラックス。突然で悪いけど、貴女に良い知らせと悪い知らせがある。どっちから聞きたい?」

「じゃあ、良いほうから……」


 董子改めウィなんとかさんは、着ていたシャツの胸元をはだけさせた。女スパイ顔負けのハニートラップ術のようだが、服の下はセクシーな下着でも素肌でもない。


「女スパイと言えば? そう、ボンテージよね。ミッションに合わせて着てきたわ。似合っているでしょう?」


 董子は衣服の下に、黒いボンテージを着込んでいた。これが彼女曰くのよい知らせでたる。女スパイ感は醸し出されているが、仕込んでくる必要は絶対にない。

 何事にも手を抜かない生真面目な早苗と、仕事を免罪符に好き勝手やりたい放題の董子。妻妻のギャップで緊張もやる気も何もかも吹き飛んだが、せめてお約束は守ることにした。


「悪い知らせは?」

「この姿じゃ出歩けないことね。秘書課どころか警備員に捕まるわ」

「それが分かってるなら良い知らせだと思います」

「あーん、美琴さんノリ悪いー!」


 董子は芝居に疲れたようで、いつものあっけらかんとした表情で作戦の説明を始めていた。


「早苗からも聞いてると思うけど、美琴さんは企画資料を目的地へ届けてね。一番大事なのは、という部分だよ」


 散々念押しされたことだ。説明に頷くと、ボンテージの胸元から取り出したパスケースを手渡される。顔写真も記名もされていない匿名のIDカードは、セキュリティシステム開発にも携わった早苗が用意したものだろう。ついでに言うと、ほんのり温かい。人妻の人肌だ。

 よからぬ妄想を脳裏から追いやって、美琴はパスを首にかけた。


「IDをピッてやるだけだから簡単簡単!」


 よく分からないが、とにかく指示通りやればいい。早苗の口ぶりは超難関ミッションのようだったが、実際は大したこともないのだろう。余裕も出てきて背伸びもしてしまうというものだ。


「わかりました。華麗に終わらせてみせますよ」

「きゃー! 美琴さんカッコいいーッ!」


 万一のために喫茶店で待機する董子と別れ、美琴は日比谷本社エントランスに向けて歩みを進めた。

 オフィスカジュアルを身にまとい、預かったばかりのIDカードを揺らしながら歩く。マスク姿で適度に顔を隠せば、どこからどう見ても日比谷の人間だ。出社している社員はまばらでも、充分周囲に溶け込める。

 潜入のコツは焦らないことだ。

 動揺せず自然体、堂々と歩けば誰も疑わないのである。

 鼻歌まじりにセキュリティゲートをタッチで開けて、エレベーターホール目指して歩いていく。

 余裕だ。余裕すぎる。

 ものの数分で終わる簡単な任務だ。とっとと終わらせて祝杯を上げよう。そんなことを考えてエレベーターに乗り込もうとした。


「あれ? 黒須さんですよね?」


 瞬間、話が違うじゃないかと叫びそうになった。

 エレベーターから出てきたのは、秘書課との地獄の面談時に顔合わせした四天王の一角。自己主張の塊みたいな連中ばかりの秘書課の中で、一番物腰が柔らかそうな2年目社員。

 秘書課・広瀬ミシェル。


「黒須美琴さんですよね?」

「え、えっとぉ……」

「わたしの目、見てください……?」


 エレベーターホールでじっとり見上げられる。早苗ほどではないがミシェルも背が低いほうだ。高身長ゆえに上目遣いで見つめられるのには慣れている美琴でも、ミシェルの目元は脅威だった。

 大きくつぶらな潤んだ瞳。目尻には赤のシャドー。さらにその赤を引き立たせるのが、全体的にトーンを落とした血色を悪く見せるメイク。通称を地雷。

 オフィスには不釣り合いの泣き腫らしたようなメイクが、却ってミシェルの異質さを引き立たせていた。秘書課の集団の中では埋もれていたのに、ふたりきりで対面したときの威圧感は強烈で、なぜだか視線を逸らさない。逃げられない。


「ひ、人違いじゃないですか?」

「黙っててもいいですよ……?」

「ああいえ、私は高橋麻里奈という者で。アドホリックの……」

「日比谷に吸収合併された会社ですよね?」


 咄嗟に出てきたアドホリック・高橋麻里奈の設定は、以前の潜入で使ったものだ。日比谷の協力会社として、今も存在する会社である。

 つまり、ミシェルはカマを掛けにきている。


「アドホリックはまだありますよ?」

「え? あれ……?」


 なんとか裏をかけた。秘書課社員といきなり直面するなんて思ってはいなかったが、これくらいのことは下調べ済みだ。

 記憶違いかと混乱した様子のミシェルを避けて、別のエレベーターに滑り込む。閉じるボタンを連打してどうにか躱せた、と思った瞬間。


「……黒須さん?」


 両開きのエレベータードアに、ミシェルの顔が挟まっていた。見開かれた目が、確実に美琴を捉えている。


「ひぃっ!?」

「逃げないで、ください。そういうの傷つきます……」


 安全装置が作動して、閉じかけた扉がゆっくり開く。ミシェルは悠々とエレベーターに乗り込み、閉じるボタンを押した。


「どうして、逃げるんですか? 黒須さん……?」

「私は黒須じゃないんだけど!?」

「……わたしが、嫌いなんですか? わたしは黒須さんのこと、好きなのに」


 ミシェルは自信なさげに微笑んでいた。どこまでも臆病で、弱々しく見えるのに、強烈な威圧感が放たれている。

 ミシェルは上目遣いのまま、袖を指先で摘まんでくる。か弱い女の子が行ってほしくないと引き止めるような仕草だが、浮かんだ曖昧な笑顔の真意は正体不明だ。

 シャンディとは別の方向に、真意が読めない。


「いや、好きとか嫌いとかそういう話じゃなくて」

「……諦めてください。わたし、嘘はわかりますよ?」


 これも動揺を引き出して尻尾を掴むハッタリの技術だ。ミシェルの技は美琴には効かない。何度となくシャンディに仕掛けられてきて抵抗力がついている。


「だから嘘じゃないんです、私は黒須美琴ではなくてですね!?」

「……言うこと聞いてくれないんですか」


 ミシェルが顔を伏せる。途端、美琴の胸元、鎖骨の根元あたりが圧迫された。ミシェルが頭突きをしてくるような格好。いじけた子どものように、リズミカルな頭突きが美琴を襲う。

 痛くはないが、胸元の圧迫感だ。絶妙に苦しい。

 そしてミシェルは重い。いろんな意味で。


「……わたしのこと嫌いなんですね?」

「ああ、いえその嫌いとかではなく人違いで……」

「嫌いだから嘘つくんですよね」


 弱々しい言葉なのに、背筋を冷たい刃物で撫でられたような緊張感が走る。

 ミシェルの問いかけはすべて答えづらいものたった。特に美琴のように、相手を傷つけまいと八方美人めいた優しさを振りまく人間にとっては天敵とも呼べる存在である。


「……嘘、認めてくれます?」

「いや、あの……」

「そんなにわたしとお喋りたくないんですか……?」

「いや、喋りたくないんじゃなくて。ただ私は」

「黒須さんは日比谷の人間じゃないのに? なんの仕事をしているんですか?」


 弱々しい口調でも、ミシェルはしっかり詰めてくる。

 エレベーターの隅に追いやられた美琴は、咄嗟に逃げ道を探した。相手は小柄だ。バスケの要領で無理矢理押し通ることもできたが、実力行使に及べば潜入がバレてしまう。


「ええ、と。前にやった仕事の件でちょっと呼ばれたというか」

「……認めましたね。黒須美琴だって」


 冷えた言葉が、美琴の腹を大きく揺さぶった。

 物腰の柔らかい気弱な女性のようでいて、ミシェルはとにかぬ執拗で執念深い。欲しい回答が得られるまで同じ質問を繰り返し、相手が折れて非を認めるのを待つのである。

 なぜなら。


「わたしは……間違ってないから」


 視線に射抜かれた。シャンディの上目遣いとの違いは、イタズラに歪んでいるわけでも、怒りに震えているワケでもないということ。

 ミシェルの瞳の中に広がる感情はない。ただ目が死んでいて、深淵なる闇がどこまでもどこまでも続いているを


「……認めて、嘘つきだって」


 冷えた言葉。それがナイフのように首筋に沿わされた。


「ひゃ、ひゃい……」


 ミッション開始早々、計画を大きく外れてしまった。

 エレベーターは企画部のある11階には向かわない。何があるのかも分からない、ミシェルが押した地下2階を目指して降りて行った。

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