#82 : Turning Point / ep.1
#82 Turning point
「初日からお疲れさまでした。だもんで歓迎会は――」
「必要ありません。このご時世での宴会はリスキーです」
「え、でも……せっかく同じ職場で働く仲間なんですし……」
「定時ですので失礼します。仕事はすべて片付けてありますので」
新たな同僚の追撃をピシャリと交わして、柳瀬早苗はカードリーダーに自らのIDをタッチして、雑居ビルに収まる日比谷商事浜松支社のオフィスを後にした。
転勤初日を終えるまでもなく、支社の全業務は手に取るように分かった。ヒト・モノ・カネ・情報の流れに生じたボトルネックを改善すれば、デスクでヒマを持てあます給料泥棒になる心配もない。
本社と支社は雲泥の差だ。オフィスの大きさに始まり、抱えている案件の量、働いている人間の適応力などなど、挙げればキリがない。ただ、浜松支社の人々の話し言葉に時たま紛れる、不思議なアクセントの方言は好きだった。
たとえば――
「
早苗は方言を可愛いと思ったことなど一度もない。むしろ最低限の標準語すら満足に喋れない者は、標準語を話そうという努力すら放棄した愚か者ですと喧伝しているように感じる性質だった。
それでも、方言自体は嫌いではない。標準語には含まれない、人情や空気感、仲間意識があるからだ。早苗も地元の言葉――関西弁を聞くとどこか気を許してしまいがちだ。大阪で生まれた女は大阪の街を捨てられないという有名な歌詞もあるほどに、大阪は地元愛が強い。
「まあ、平気で捨てますけど」
調子外れで上機嫌な鼻歌は、浜松の空に消えていった。
*
「凛子? 凛子ー!?」
階下から聞こえる懐かしい声に、白井凛子はほとんど物置と化している自室のベッドで重い頭を持ち上げた。ボサボサの黒髪越しに見た時刻は昼過ぎ。スマホの通知画面には事務所と犀川ひふみから連絡があった通知が残っているだけで、一番困っているであろう人間からの連絡はない。
階段を登るリズミカルな――それこそ、学生時代から何も変わらない――音がして、和室の襖が開け放たれた。
「いつまで寝とるら!? 仕事探すだに!?」
「探すら……けんど寝かせて……」
学生時代から変わらない、実に7年ぶりの母親との応酬だった。
最後に実家二階の自室で眠ったのは上京前夜のこと。その間も年イチで帰省はしていた凛子だが、何かと理由をつけて友達の家に泊まったり、日帰りで東京に戻っていた。
「いかんだに。
それだけ言って、凛子の母親は階下へ降りていった。
――実家は居づらいのだ。遠州弁で言えば「いずようんない」。
原因は両親との仲ではない。何事にも前のめりな遠州・浜松人の気質――やらまいか精神は多少鬱陶しくはあるものの、とにかくやってみる気質は凛子にも受け継がれている。今さら疎んじたって仕方がないことだ。
実家に居づらい原因は別にある。具体的には――
「凛子おばちゃーん!」
母親と入れ違いにドタドタと階段を登る音が聞こえ、私室の襖が勢いよく開かれた。途端、彼女の面影を色濃く残す少女が凛子めがけて飛びかかってきた。
「凛子おばちゃんらー! 髪やってー!」
「花梨ちゃん、ごめんね。凛子お姉さんは眠いんだー。お母さんにやってもらったら?」
「ママがね、むかし凛子おばちゃんに髪やってもらったって! だもんで花梨も凛子おばちゃんにきれいにしてほしいー! エルサみたいにしたいー!」
飛びかかってきた少女の名は、白井
注文はエルサ。何のことかと一瞬考えたが、おそらくは一番面倒くさいあのエルサだろう。
「えー? ありのままの方がかわいいと思うけどー?」
「おばちゃん歌ヘタ! ありのー! ままのー! だよ!」
歌と踊りに合わせて揺れる長い髪を見ながら、凛子はため息をついた。その曲でエルサということは、注文はフィッシュボーン気味の編み下ろしかクラウンブレイドである。お願いだから前者で許してくれと願いながら、凛子は滑らかな髪に指を沿わせた。
「凛子おばちゃんとママは、仲良しな友達だったんだよね!」
「そうねー。仲良しだったねー」
1年先輩だった彼女をママと呼ぶ花梨に、時の流れの残酷さを感じてうちひしがれる。花梨は因縁浅からぬ女の娘だ。頑なにおばちゃん呼びを辞めてくれないが、慕ってくれる可愛い姪っ子だし、そもそも花梨に罪はない。
それでも。
「花梨ちゃん、お母さんによく似てるねー」
「ホント!? ママみたいになれる!?」
彼女によく似た髪。
彼女によく似た声の出し方。
そして、彼女と同じ――《イランイラン》の匂い。
だから花梨を見ているだけで、過去を思い出してしまう。
凛子の人生を大きく狂わせて、狂わせたまま責任を取らず、訴追することもできない場所に入り込んでしまった女のことを。
「花梨ちゃんは、誰かの髪をやってあげられる女の子になろうね」
「うん! あとでママの髪は花梨がやる!」
ついポロリと口を突いて出てしまった花梨の母親への皮肉は、何事もなく流された。
やはり実家には居づらい。花梨の髪を仕上げてこっそり逃げ出すべく、凛子はエルサ風ヘアアレンジの作業に集中した。
*
遡ること十年前。
白井凛子が自らの指向を自覚したのは、花も恥じらう女子高生の頃だった。それまで「赤い実はじけた」と比喩的に表現される衝動を感じたことなどなかったが、とうとう凛子の赤い実を弾けさせる者が現れたのである。
見ていると心が躍って。視線が合うと、恥ずかしくて笑ってしまって。笑い返されるとより深みに堕ちてしまって。言葉を交わそうと喉を振り絞り、声を聞こうと耳をそばだてて。触れられるとまるで自分の身体ではないように感じ、抱きしめられると大きすぎる鼓動を悟られないかと怯え、だけど鼓動を悟られて、手を取ってリードしてくれたらいいとも思って。
ふたりのターニングポイントは、ある夏の日。部活を終えた帰路のこと。
歩幅を敢えて小さくしてゆっくり歩く茜色の河川敷は、帰宅するには遠回りどころか逆方向だ。たとえ遠回りな牛歩戦術をとってでも一緒にいたかったのは、覚悟を決めたかったから。
想い人は、陸上部の先輩である
「好きです、伽耶センパイのこと……」
とうとう覚悟を決めて、凛子ははじめて同性への愛をぶちまけた。
思い立ったら動かないとムズムズする、親譲りのやらまいか精神が背中を押してくれた。
「えーじゃあ両想いだね、凛子」
結果は成功だった。あっけらかんと笑う先輩・伽耶の言葉に、凛子は受け容れられたことに喜ぶよりも先に泣いてしまった。伽耶を好きでいることの悩みも苦しみも、たった一回の告白ですべて報われた気がしたからだ。
そんな告白の末に、凛子と伽耶は不純同性交遊に乗り出した。
ふたりの間を埋めるものはせいぜいキス止まりだが、当時は知識もなくプラトニックだった凛子にはそれで精いっぱいで、抱き合ったりキスするだけで繋がりを感じられて充分幸せだった。
自分は幸せ者だ。
想いを寄せる先輩と、顔と顔を近づけ、抱き合い、愛し合う間柄になれたのだ。
だから求められるままに振る舞い、求められるままに伽耶の望みに応え続けた。
インハイに向けてサポートが必要と言われればマネージャーを買って出て、勉強を見て欲しいと言われたら必死で勉強して伽耶の学習範囲に追いついた。
伽耶の両親が居ない日は、泊まり込みで伽耶の家に行って家事のすべてをこなした。
伽耶が嫌いな部員の名を挙げれば、凛子もその部員を嫌った。たとえその部員が凛子の幼馴染みであっても、伽耶が嫌いならそれに合わせた。
伽耶が友達も交えて遊びたいと言い出せば、文句も言わずに従った。本当は二人きりで居たかった。誰にも混ざって欲しくなかったが、文句を言うような面倒くさい女だなんて思われたくなかった。
「ねえ、凛子。ちょっと飲み物買ってきてくれない?」
「うん。何がいい?」
「クイズにしよっか。1時間あげるから、私が飲みたいと思ってるの買ってきて?」
「しょんないなー。ま、当ててあげるら!」
「じゃ、凛子のお兄さんと待ってるだに。行ってらっしゃーい」
凛子は幸せ者だった。幸せ者だったから、そこにしがみつこうと必死になった。
努力さえしていれば――伽耶が望む、最高の女であり続けていれば、伽耶の心は離れない。ふたりして幸せなまま、学校を卒業しても社会人になっても、それこそ死が二人を分かつまで一緒に居られると思っていた。
そのための努力は惜しまなかった。伽耶が願えば全て叶えて、伽耶が望めばどこまでも尽くした。連絡ひとつで伽耶の元へ行ってばかりだから友達は居なくなった。伽耶を最優先するあまり、部活も学業も成績が落ちた。寝ても覚めても伽耶だけを守ることでいっぱいだった。自身を受け容れてくれた人を守りたかった。
――だが、凛子が望んだ蜜月はいともたやすく崩壊する。
「妊娠……?」
凛子が高校卒業を間近に控えた、2月のことだった。
地元企業の内定と、東京の短大の合格通知、どちらを選択すれば一足先に社会人になっている伽耶が喜んでくれるだろうかと考えていた凛子は、予想だにしない方向から頭を殴られた。
「そうなの。できちゃった」
「なに、それ……?」
伽耶が証拠とばかりに見せてきた写真は、妊娠検査キットの判定部分。陽性の判定欄にしっかりと赤色の縦線が浮き出ていた。
「伽耶は……私が好きだよね……?」
「だら。一番の親友だよねー」
「待ってよ、親友とキスなんてしない……」
「え? じゃあもしかして、恋人だなんて思ってた?」
伽耶は笑っていた。途端に笑顔の意図が分からなくなる。
この女は今、なぜ笑っているんだろう。伽耶の心が分からない。
「だ、けど……両想いだって言った……?」
「だって私も凛子のこと好きだよ。それって両想いだら?」
「私の好きはそういうのじゃないよ……」
「じゃあ、どういうのだった?」
余裕たっぷりの伽耶を前にすると、喉から声が出なかった。確認して否定されることが怖かったから。
「どういうのって、私は……」
「大丈夫だよ~。これからもずっと一緒に居られるよ? むしろ凛子みたいな優しい子にはずっとそばにいてほしいなあ?」
「なに、それ……」
「だって、この子のお父さんは――」
白井家に家族が増えることが決まった翌月、凛子は伽耶が喜んだであろう地元での就職を蹴って、東京の短大へ進学した。
その後すぐに、伽耶の苗字が白井に変わったと連絡があったが、凛子はなんの返事もしなかった。両家の顔合わせも挙式も無視して、ひたすらバイトに明け暮れてすべてを忘れようとした。
だから、第一子が流れたと伝え聞いた時、凛子は笑った。私を裏切った報いだ、ざまあみろと心の中で何度となく罵った。仮にも元友人で現親族の不幸を喜ぶなんて褒められたものじゃないことは凛子にも分かっていた。ただ、そうでも思わなければ心にぽっかり空いた穴は塞がらなかった。
別段、現在は伽耶に謝ってほしいなんて思っていない。怒りの感情だって沸いてこない。ただ、恋は壊れ、友情も朽ち果て、家族の絆すら手放した孤独な自身が、伽耶に対してどれだけの罵詈雑言を吐くことになるか想像しただけで、自分を嫌ってしまいそうになる。
それがイヤで、凛子はこの一件以来、兄夫婦が住まう実家と距離を置いた。
*
「わあ! すごーい!」
鏡に映った姿を見て、花梨は全身で喜びを表現していた。
彼女は7歳。例の流産の後、兄夫婦のみならず親族一同に祝福され生を受けた、愛すべき第一子である。感情表現が豊かで何事も全身で表現する花梨は、母親の伽耶の印象とまるで生き写しで、そして一方で耳や眉毛のカタチは兄の面影も感じられる。
花梨は、凛子がよく知る人間の血をありありと引いていた。
「ママ! 花梨、エルサにしてもらったよ!」
襖を開けて花梨のママ――白井伽耶が入ってきてからも、花梨のはしゃぎようは変わらなかった。編み下ろした三つ編みをぴょんぴょん揺らしながら、伽耶の腰あたりに抱きついている。
「あら花梨、可愛いじゃーん。凛子おばちゃんにお礼言った?」
「ばぁばに見せてくるー!」
礼も言わず脱兎のごとく階段を駆け下りていった花梨を目で追う伽耶の姿は、凛子が恋をした時代とはまるで変わっていた。
全方位に睨みを利かしていたような切れ長の瞳、洒落っ気とは無縁の切り飛ばしただけのセミロングの黒髪、細身で骨張っていながらも肉付きのよい綺麗な身体。そんな袴田伽耶のイメージは、白井伽耶には見当たらなかった。瞳は切れ長なままだがどこか柔らかく、手入れを怠ってプリンになった茶髪のロング、そして成長したからか出産を経たからか、身体も幾分かふくよかで。
「花梨と遊んでくれてありがとうね、凛子」
そして何より、こんな母親じみたしおらしいことを言う。
いったい、どういう気持ちで私に話しかけているのだろう。考えれば考えるほど、ロクでもない思考に落ちていく気がする。
「どうせヒマだったから気にしないで」
次に出てきた言葉は「じゃあ」だった。伽耶との会話を終わらせたいという気持ちが先走って、あまりに露骨だったかもしれないと凛子は密かに反省する。
「ねえ、ちょっと買い物付き合ってよ。車出すから」
伽耶の指先で、軽自動車の鍵がくるくる回っていた。
琴音相手なら簡単に言える「無理」の言葉が、凛子の口から出てくることはなかった。
もしかするとまだ、心のどこかで伽耶を引きずってしまっているのかもしれない。
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