#23 : Peach Lady / ep.1
知らない天井を見上げて、美琴は目を覚ました。自宅の安売りベッドとは違う、深く沈み込みつつも腰や背をしっかりと受け止めてくれる。アイロンと洗濯糊の利いたシーツから、清潔を感じさせる匂いがした。
枕元に気配を感じ、美琴は視線を向ける。そこに居たのはシャンディでも凛子でもない。紺のジャケットに、首元にスカーフを巻いた女性だった。
「ええと……?」
美琴が目覚めたことを察知したのだろう。「どちら様ですか?」という質問に先んじて、彼女は背筋を伸ばして恭しく頭を下げた。
「お休み中のところ申し訳ございません。従業員の
「担いで連れてきたんですか……?」
「ええ。私は特別、力持ちですので」
告げると、文香は柔らかく微笑んだ。瞳は上弦だ。
ピンと伸ばされた姿勢、話し方にそして笑みの仕草。それらがあまりにも彼女によく似ていて、美琴はつい盛らしてしまう。
「貴女がチェシャ猫さん……?」
「申し訳ございません。どなたのことか存じ上げませんが、おそらく私ではないと思います。私は先輩……いえ、シャルロット・ガブリエルさんに黒須様をお運びするよう頼まれたので」
寝起きで頭が上手く働かない。
久瀬文香が部屋まで運んでくれたのは間違いないだろうが、たとえ一流ホテルと言えど寝ている客を寝たまま客室へ運んだりするものだろうか。そしてなぜ文香は、シャンディの偽名を――さらに先輩と告げたのか。
「……シャンディさんは、ここで働いていたんですか?」
「今はそんな名前なんですね。先輩らしいです」
やはりシャンディに似た様子で「ふふ」と笑って、文香は部屋を退室しようとする。
「すみません、少しお時間をいただけないでしょうか。シャンディ……いえ、シャルロット・ガブリエルさんの思い出話に花を咲かせてみたくなりまして」
「ええ、畏まりました。黒須様がお気に召されるお話ができるかは分かりませんが、お客様に寄り添うのが我々ホテルマンですので」
立ったまま話そうとする文香にベッドサイドの椅子を薦めて、美琴は彼女が話し出すのを待った。
*
――遡ること十数分前。
「捕まえた、《ピーチ・レディ》さん?」
「……なんですか、貴女は」
ソファで船を漕いでいた美琴を撫でる白井凛子の腕を掴んだのは、金髪の女性だった。
一流ホテルに似つかわしくない、グレーのパーカーというラフな出で立ち。おそらく整髪料で固めていたのを解いた後だろう、艶めいた髪の毛には元の髪型を想像させるクセがついている。
「美琴さんの友人です。シャルロット・ガブリエルと申します」
西洋人じみた女が突如友人を名乗り出るなど、そうあることではない。しかも彼女は、こちらの邪魔をしてきた人間だ。
凛子は真っ先に、彼女を警戒する。この声と、この喋り方。先ほどの青海椎菜との会話の中で現れた、黒須美琴を下の名前で呼ぶ近しい間柄の人物。
「心配しないでくださいな。取って食ったりしませんよ、貴女のことなんて」
「その話し方をやめてもらえますか。バカにされているようで腹が立ちます」
「あら、意外です。ピーチ・レディはハッキリ仰る方なんですね。ふふ」
まるで嘲笑するような、鼻に掛かった笑い声が耳につく。シャルロットは敵意を向けている。瞬間的に自身とはソリの合わない人間だと判断して、こちらも牙を剥くべきかと逡巡した。
だが、隣には美琴が居る。しかも真偽は不明だが、彼女は美琴の友人を名乗っている。表立った行動に及ばない方がいい。凛子は怒りを抑えつつ、どこか攻撃的な愛想笑いをした。
「黒須さんは同僚です。ご挨拶が遅れました、白井凛子です」
「そうですか、素敵なお名前ですね。ピーチ・レディさん」
ニタニタ笑ったまま、あだ名呼びをやめようとしない。言外に「お前の話など知ったことじゃない」と雄弁に物語っている。
ようやくにして凛子は判断を固めた。
この女は自身の敵だ。それも、凛子が手に入れることを諦めた物を狙っているか、既に握っている存在。
「うちの専務が黒須さんのために客室を押さえたんです。ですので、すみません。私が客室まで連れて行きますので、これで失礼します」
「あら、お気になさらず。マーベリックには優秀な後輩がおりますから」
笑みを貼り付けたまま、彼女はフロントへ手招きをしてみせる。現れたホテルマンの名札には久瀬文香とあった。
「文香ちゃん。こちらの
「気まぐれに一日バーテンダーに戻ってきたと思ったら、次は力仕事ですか。昔から謎多き先輩でしたが、今夜は輪を掛けて謎ですよ」
「貴女の久瀬文香だって謎の源氏名でしょう? おあいこですよ」
「職業差別をする訳ではありませんが、源氏名という呼び名だと勘違いなさってお気を悪くされる方も居られますので、サービスネームと呼称戴けますと助かります」
うっすらとした笑みから表情筋を微動だにせず、久瀬文香は女性の身体に似合わぬ力で美琴を担ぎ上げた。エレベーターホールへ消えた眠り姫について行く手段は凛子には残っていない。
「お互いこれで、手は出せない。安心でしょう?」
「何が言いたいのか分かりません。思わせぶりな女は嫌いです」
「ふふ、初めて分かり合えましたね。あたしもあたしは嫌いです。貴女みたいに匂わせてくる女よりは、まだマシだと思いますけれど」
核心を突かれて、凛子はより一層の警戒を強める。
きっかけはささいなことだった。二年前の九月。
明治文具に事務員として採用された凛子の初出社日に、一番最初に声を掛けてくれたのが黒須美琴だった。美人で優しいのに、どこか地に足のつかない女性。それが美琴に対して抱いた第一印象だった。
凛子は、美琴をずっと見ていた。特別な感情から彼女を見ていた訳ではなかった。どうせ彼女は違うと思い込んでいたから、初めから対象に入らなかった――いや、対象として捉えないようにしていた。
――ただの友人でいい。ただの友人でいいから、一緒に居たい。
そう願って、痛いだけの観察を続けていたのに。
「……貴女ですよね、オレンジ・スイートの女は」
「そうですよ、ピーチ・レディさん」
今年の初めに、美琴は変わった。普段とは違うメイクならまだ理解もできる。流行を押さえるようにしたのだろうと、あるいは彼氏がそういうものを求めたのかもしれないと思える。
だが、匂いまではなかなか変わらない。
「毎晩お酒を飲ませてるのも貴女ですか」
「ええ。あたしはバーテンダーですから」
他の人には分からないだろうが、特別、嗅覚が敏感な凛子には分かった。
美琴は酒の香りを漂わせるようになった。美琴の体臭すらも強く感じるようになった。
必死で隠しても、凛子には分かる。
彼女の着衣のよれや襟のくたびれ具合。生あくびに、眠そうなとろりとした眼。そして仕事中もどこか上の空で、物憂げにオフィスの時計を眺めては、いそいそと定時退社をして帰ってしまうこと。
「……バーテンダーだから、ですか?」
「仰っている意味がよくわかりませんね」
「とぼけないでよ」
美琴は、なぜ彼女の許にお酒を飲みに行くのか。
これまで二年間、酒なんて仕事の付き合いでしか飲まなかった美琴が。二日続けて同じ衣服を着てきたことのなかった美琴が。どうしてここ最近になって、毎晩足繁く通うようになったのか。
考えなくても分かる。
「あの人と付き合ってるんでしょ」
悔しかった。違うと思って、友達でいいと諦めていた凛子にとっては、裏切られたに等しい仕打ちだった。そして――
「私が片想いしてることにも気づいてて、影で笑ってたんでしょ……!」
――この女は、許せない。
美琴を奪われたからではない。一線を踏み込えたい気持ちを必死に抑えて踏み込まなかった凛子なりの遠慮や配慮を、ただの匂わせだと言ったから。悪辣な人間に捕まらないように、それで美琴が一生モノの癒えない傷を負わなくて済むようにしてきただけなのに。
本当は香りのおすそ分けなんてしたくなかった。
衣服に香水を移すようなマネはしたくなかった。
凛子にとって美琴は大切な友人だから、わざと気のある女の影を演じて悪魔から遠ざけようとした。美琴を守ろうとしたつもりだった。
「……あの人は違うと思ってたことなんて、貴女は知りもしなかったんでしょ」
「ええ、美琴さんは違います。実際あたし達、付き合う寸前で止まっていますから」
抑えていた感情が、眉根を、瞼を突き動かす。制御を失った表情筋は、誰が見ても分かるほどの怒りを表してしまっているだろう。ただ、我を失いかけた凛子には、そんなことなど分からない。
「違うと分かってて、どうして手を出すのよ! 私達みたいな人間が普通の人を愛するなんて、痛いだけなのに……」
「愛し方は人それぞれでしょう? 貴女のように自分を殺して見守るのも愛情ですが、あたしのように自分を生かして導くのもまた愛情です」
「それであの人が傷ついたらどうするの」
「あたしはそんなヘマしませんよ。貴女は過去にしたかもしれませんが」
「……っ! 貴女に何が分かるのよ!?」
シャルロットは笑っていなかった。無様な者を見るような、あるいは可哀想な者を見るような。慈愛とも嘲笑ともつかない表情で凛子を見つめている。
「分かりますよ、貴女の苦しみは」
「気安く分かったなんて言わないで」
「……気安くこんなことが言えると思いますか?」
怒りに任せて大声を出してしまったからだろう。ドアマンやクロークの視線を感じた。シー、と唇に人差し指を押し当てるシャルロットにさらに腹が立って、凛子は頭を伏せる。どうにか怒りを抑えようとしていた所で、彼女が続けた。
「あたしは、導かれたんです。導いた人はあたしを捨てましたが」
「…………」
沈黙を返したところで、シャルロットは告げた。
「マーベリックのバーには個室もあります。続きを話す気があれば、ご一緒しませんか。白井様」
逡巡して後、凛子は静かに立ち上がった。
「……私は、黒須さんに傷ついてほしくありません。だから貴女を……説得します」
「ええ、どうぞ。あたしは論破させてもらいます。愛し方を、貴女なんかに強制される謂われはありませんので」
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