#18 : Tovarich

 『ゆりかごから墓場まで』とは、あらゆる人間を一生涯に渡って見守るという社会福祉政策のスローガンだ。現代においては通常の意味のみならず、多角経営を行う企業グループを指して使われることもある。

 新橋に本社を構える日比谷商事は、そんな『ゆりかごから墓場まで』を体現した一大企業であった。


「ということで、ご検討いただければ幸いです」


 自社ビルのワンフロアをブチ抜いた会議用フロアは、まるでカラオケボックスかのように個室が鈴なりに並んでいた。どこに入るにも認証が必要で、煩わしさすら感じるが、セキュリティは万全。

 下町の鉛筆屋とは雲泥の差のオフィスに面食らいながらもプレゼンを終えた美琴は、担当者の顔色を窺った。


「どうでしょうか岡村……いえ、柳瀬先輩」


 日比谷側の新入社員が、隣に座る上司――柳瀬やなせ早苗さなえの判断を仰いだ。

 プレゼン参加者は合計四人だ。

 明治文具側は美琴と椎菜。日比谷側は先ほど発言した社員と早苗。

 椎菜はすべてを美琴に丸投げしていたし、早苗は新入社員研修の一環として後輩を連れて来たと語っていたため、この会議は実質二名の対決だ。


「そうですね……」


 早苗は頭痛を抑えるかのように眉間をつまんだ。薬指にはリングが光っている。先ほど新入社員が呼んだ「岡村」は、早苗の旧姓なのだろう。


「……飯田くん。青海さんを見学ルームへ案内してもらえますか。黒須さんは残ってください。仕様について詳しくお伺いしたいので。構いませんか」

「え、ええ。分かりました」


 早苗は新入社員に指示を出して、会議に関係がないと判断したであろう椎菜を追いだした。定員六名の会議室は、美琴と早苗の二人だけになる。

 さしもの一流企業だ。相当に秘密主義が行き届いているのだろう。

 美琴が仕様の話を進めるべく資料をめくったところで、早苗は驚くべきことを口にした。


「突然ですが、単刀直入に言います。黒須さん、貴女には産業スパイの嫌疑が掛けられています」

「は……? はあああ……!?」


 あまりのことに、否定するより先に驚きが勝っていた。

 美琴が否定の言葉を継ぐより早く、早苗は冷静さを湛えた、黒く澄んだ瞳を向けてきた。


「もちろん、それがガセであることも調べはついています。ご安心ください」

「す、すみません。話が見えないのですが……」

「ご説明します」


 早苗が語った内容は、いわゆる《大企業の闇》だった。

 事は数日前に遡る。日比谷の企画部で、とある情報の流出が疑われた。デジタルメモの企画案だ。明治文具から送られてきた企画案に目を通した何某かが「自分の企画が盗まれた」と告発し、明治文具に対して訴訟の準備を進めているのだという。


「……以上が事の次第です。何かご意見はありますか?」

「私は盗んでなんていませんよ!?」

「ええ。間違いなくそうでしょう。泥棒は盗んだモノを返したりはしません。普通は第三者に売り渡します」

「ではどうしてそんな話に……」


 小柄な体躯を背もたれに預け、早苗は露骨に顔をしかめた。


「……私の推測では、企画部にこそ泥棒がいます。大企業の権威を笠に着て、黒須さんの企画案を盗むばかりか訴訟も辞さない恥知らずのクズです」


 突如降って沸いた話に、美琴の思考はまるで追いつかなかった。ただ、自身が面倒なことに巻きこまれていることだけは直感的に理解できる。

 早苗は椅子を立って、勢いよく頭を下げた。


「申し訳ありません。このような身内の恥でご迷惑をお掛けすることになってしまいました」

「ああ、いえ。というより、事態が上手く飲み込めないのですが」

「ともかくも危険な状況だとご理解ください。そこで提案なのですが」

「提案?」


 早苗は自身の名刺の裏に、日時と場所を書き込んだ。

 ――都内の高級ホテル・マーベリック。日時は明日十七時。


「これは日比谷グループの企画屋が一同に介する立食パーティーです。このパーティーに参加して、企画泥棒のあぶり出しに協力してくださいませんか」

「い、いや待ってください。私の一存では決めかねるのですが……」

「事は一刻を争います。ヘタを打てば黒須さん自身はおろか、明治文具の存続すら危ぶまれる可能性があります」

「ええ、と……! なんと言えばいいのか……」


 想像以上に危険な状況に巻きこまれていた。早苗の提案を断れば、明治文具と日比谷商事は法廷闘争に突入するだろう。さらに言えば、美琴自身も危ない。スパイの嫌疑をかけられて、逮捕される可能性すらある。美琴に選択の余地はない。


「初対面で不躾なお願いであるとは百も承知しています。協力してくださいませんか。もし私を信じていただければ、今後の貴社の事業に便宜を図る用意があります」

「その、柳瀬さんを信じるに足る証拠は……?」

「私を信じるに足る証拠、ですか……」


 念のためだ。早苗が信用に足る人物か確認しておきたい。もちろん、さしたる証拠はないだろうが、それでも構わなかった

 早苗はしばらく考えてから告げた。


「……私は、社内での出世を第一に行動しています。泥棒をあぶり出すことができれば企画部の弱味を握って、連中に恩を売れる。これでは不十分ですか?」


 早苗は冷徹な笑みを浮かべる。背筋が凍る笑顔とはこのことだ。信用に足るかは分からないが、相当な覚悟は伺えた。


「わ、分かりました、やります。とりあえず行けばいいんですよね!? パーティーとやらに!?」

「ありがとうございます。偽名と肩書きはこちらでご用意します。では、この事は他言無用で」


 日比谷商事を後にした途端、美琴の肩はずっしり重くなった。同行した椎菜に相談するワケにもいかず、凛子や専務に話すこともできない。

 そもそも、そんな危険なパーティーに一人で参加するのはあまりに心細い。しかも相手は柳瀬早苗のような頭のキレる連中だ。


 どうして自分なんだ、と美琴は頭を抱える。

 こんな事件に対処できるのは、話題が豊富で頭がキレて、腹の探り合いができる人物以外に居ないのだ。


 彼女だったら、どうするだろう。

 そんなくだらないことを考えて、美琴は定時まで誰とも口を聞かず、黙々と目先の仕事をこなしていく。そうでもしないと落ち着かなかった。


 *


「あら、ずいぶんと青ざめた顔ですね。お財布を忘れてきたのかしら?」

「いえ、財布はあります……」

「それに普段の背伸びすらないご様子。どうかなさいました、美琴さん」


 六本木の外れ。ガールズバー《アンティッカ》。

 昼間、日比谷商事で早苗から聞いた嫌疑を誰にも相談できず、美琴はシャンディの許に逃げ込んだ。入店時にどうにか表情を取り繕ってはみたものの、彼女の目だけはごまかせない。隠し事はあっさり見抜かれてしまった。


「ちょっと、仕事で危機的状況に追い込まれまして……」

「ふーん? なら、忘れちゃいますか。お酒で」

「いえその、今夜はお酒の気分ではないというか……」

「あたしに会いに来てくださった、にしては辛気くさいですものね。では今宵は、美琴さんの抱えた憂鬱の正体を解き明かすこと。そちらを遊戯ゲームにしましょうか」

「遊戯じゃ済まないんですよぉ……」


 カウンターに突っ伏した美琴の後頭部に、シャンディの手が添えられた。「よしよし」とばかりに何度か撫でられた後に、彼女が口を開く。


「……アンティッカにはお仕事を持ち込んではならないのですが、今宵は特例です。お話してくださいな」

「シャンディさぁん……」

「ふふ、甘えんぼさんな美琴さんもかわいいですね?」


 美琴は昼間の出来事を洗いざらいぶちまけた。シャンディは「あらあら」、「ふーん?」と時折相づちを打ちながら話を聞くと、納得したのか小さく微笑む。


「なるほど。美琴さんの勝利条件は、パーティーに潜り込んで企画泥棒を捕まえること。勝てば身の潔白が証明され、ついでに後ろ盾もできる」

「そうです」

「だけど失敗すると会社は倒産。美琴さんも泥棒の濡れ衣を着せられて刑務所行き。あたしとも逢えなくなる」

「そう、です……」


 実際、彼女の言うとおりだ。何の落ち度もないのに降りかかった事件で、美琴は類を見ない状況に追い込まれている。冤罪もいいところで、おまけに失敗は許されない。

 シャンディは琥珀色の瞳を歪めて告げた。


「……愉しそうですね、それって」

「愉しい!? どこがですか!?」

「だって、スパイをあぶり出すためにスパイになるんでしょう? まるで映画みたいじゃないですか。《マティーニ》飲みます?」

「私はジェームズ・ボンドじゃないんですよ!?」

「ふふ、そうでしたね。背伸びしてるスパイだなんて、格好がつかないですから」

「こっちは笑いごとじゃないのに……」


 ガクリと頭を垂れたところで、シャンディがグラスを差し出した。注文していないカクテルが、美琴の眼前に饗される。


「だからお酒の気分じゃないと……」

「いえ、干していただきますよ。あたしとの《タワリッシ》を」


 《タワリッシ》。

 ロシア語で《同士・仲間》を意味するカクテルはウォッカベース。副材料の香草を漬け込んだリキュール・キュンメル特有の、爽やかな草原の香りが鼻を刺す。それら二種の酒をまとめるのはライムジュースの酸味だ。ひとたび飲めば、どんな相手とも《タワリッシ》になれる――と美琴の読んだカクテル本には書いてあったが、真偽の程は疑わしい。


「どういうことでしょうか、シャンディさん……?」

「どういうことだと思います?」

「いや、今は質問に質問を返さないでください……遊戯を愉しむ余裕もありません……」

「ふふ。お手伝いしましょうか? と言っているんですよ」

「え……!?」


 シャンディは《タワリッシ》のグラスを持ち上げた。美琴の乾杯を待つように、眼前で液面をゆらゆらと揺らす。


「美琴さんは、毎日アンティッカに来てくれると約束してくださいましたよね? だけどもし万が一、警察のご厄介になるようなことがあれば、もうあたしとは逢えなくなってしまう」

「最悪、そうなってしまいますね……」

「だったら、あたしが取るべき行動は決まってますね」


 不意にシャンディに唇を塞がれる。軽く鳥がついばむように唇に触れてから、額と額をくっつけてくる。

 琥珀色の瞳に見入られ、憂鬱な気持ちはどこかへ霧散した。顔から火が出るほどに恥ずかしい。


「尽くしたいんですよ、好きな人のために。それって愛のなせる業だと思いません?」

「あ、ありがたい申し出ではありますけど、確実にご迷惑になります。もし見つかればシャンディさんもタダでは済まないかもしれません」

「ええ、でしょうね。危ない橋だとは思います」

「では――」


 言いかけた美琴の唇を指先で塞いで、シャンディは微笑んだ。


「美琴さんを負かしていいのはあたしだけですから」

「負かす、って。これは遊戯じゃないんですよ?」

「あたしにとっては同じようなものですよ。だって、美琴さんがつまらない泥棒さんに負けちゃうところなんて見たくありませんもの。貴女を負かしていいのは他の誰でもなく、あたしただ一人」


 そう言って妖艶ともイタズラともつかない声色で笑うシャンディが、なぜだか美琴には心強かった。


「ですが、どうやって……」

「パーティー会場はホテルなんでしょう? 一人くらい客が増えたところで気づかないと思いますけど」


 彼女の言うとおりだ。早苗に送ってもらった出席者名簿は百名を下らない。これだけいれば人だかりに紛れることくらい訳なくこなせる。

 が、問題は――


「いや、シャンディさん目立つじゃないですか。金髪ですし顔立ちも……」

「そうですかね。美人の美琴さんの隣なら、案外なんとかなりません?」

「無理ですって! そもそもシャンディさんは部外者ですし……」

「部外者だからこそ、分かることもあると思いますけれど」

「ともかく、お気持ちだけ頂戴しておきます。これは私一人で解決しなければいけない問題ですから」


 とは言ったものの、あまりに心細かった。本音を言えば《タワリッシ》を飲み干して、シャンディに同行してもらいたい。彼女なら不思議となんとかしてしまえる気がしたからだ。

 だが、好きでいてくれるシャンディだからこそ、甘えたくない。彼女に情けないところを見せたくない見栄をどうしてもぬぐい去れなくて、美琴はグラスから手を引く。


「むう。そう言われると、意地でもご一緒したくなりますね。パーティー会場はどちらです?」

「日本橋のホテル・マーベリックです」

「マーベリック……」


 呟くと、琥珀色の瞳が煌めいた。


「……ふふ」

「なんですか、今の意味深な笑みは……」

「いーえ! ちょっと愉しいことになりそうだと思いまして。さて、美琴さん。《タワリッシ》で乾杯しましょうか」

「だから私は――」

「乾杯」


 グラス同士を口づけさせて、シャンディは《タワリッシ》をひと息で干した。さすがはバーテンダーだけあって、相変わらず酒にはめっぽう強い。

 項垂れるしかない美琴の頭をポンポンと撫でて、シャンディは鼻を鳴らしていた。


「大丈夫。あたしが守ってあげますよ、美琴さん」

「とにかく、やれる限りのことはやってきます……」


 時刻はまだ午後九時を回ったところだった。美琴は結局、《タワリッシ》を干さず、代金だけ払ってアンティッカを後にした。

 まったく身に覚えのない濡れ衣を着せられて、自らの進退が明日のパーティーに掛かっている。そのプレッシャーから美琴は一睡もすることができず、這々の体で当日の朝を迎えることになるのだった。

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