筆先とスクリーン

 夜は退いていく。薄皮が一枚ずつ剥がれていくように、辺りに充ちる風には、陽光の粒子が溶け出していく。

 風は泥の匂いをたたえて、雨上がりの気配を引き連れて、頬の表面を、甲高い音を立てて流れていく。どういう仕組みか、死ぬたびに身体は転移した直後の状態に戻るので、髪の寝癖も伸びかけた髭もそのままだった。


「おい」


 地を這うような声で、現実に引き戻される。


「おめえよ、同じ下等生物なんだからよ、行って説得してこいよ、ここには入れませんってよ」


 鬱陶しくてしかたねえ、言い捨てたハイエナは影の内部へ身を沈めた。

 言い捨てるついでに唾を吐かれ、その残滓が脛を直撃する。なんで、どいつもこいつも他者ひとに唾を吐くのか。俺は洗面器じゃない。

 魔王様が貸してくれたハンカチで拭っていると、


「センセイ、わたしもついていこうか?」


 と心配げに提案された。

 行くとは一言も申し上げてねえ。そのような悪態を寸前でこらえる。


「おそれながら申し上げますが、魔族の王が人だかりの前にのこのこ現れてどうなるか、なんとなく想像がつきません?」


「それは、その……そうだ、クロフュスにセンセイの影の中へ入ってもらおう!」


 俺は口元に、やっとのことで浮かべた微笑を凍らせる。


「それならいざというとき安全だ」


「あの」


「心配しなくていいぞ、朝日が昇るまではジアコモも起きているし」


 なんてことを思いつきやがるんだこのクソガキ。


「それならわたしは、迎賓館で報告書レポートを済ませてくるかな」


 ああだめだ、話聞かないモードに入りやがった。

 くそ、まいった。できれば、できれば魔族は連れていきたくない。

 湖畔に殺到しているひとたちは、クーベルツェさんの動かしている兵士たちと行き違いになっている可能性が高い。つまり、このまま助からない可能性が高い。


 すでに中心街には、毛髪とあらゆる私物を大急ぎで献上するようにとのお触れが出ているはずだ。

 仮に〈複生術〉について何も知らないにせよ、そして実際、彼らにしてみれば私物を強奪されているとしか思えないにせよ、じっとしてもらったほうが、助けられる確率は上がる。

 できれば、真実を伝えたい。だがどうやって?


 魔族の影が再び波紋を描く。葉を落とした梢のような角が浸み出し、やがて片目の潰れたシカの相貌が立ち現われる。

 俺のほうを見ず、俺の影に足を踏み入れる。止める暇も権限もない。されるがままなところが、実に奴隷的だ。



 予想は的中していた。いや、想像以上のものだった。

 〈膜〉で遮蔽された河岸には、全身を濡れ鼠にした、数えきれない男たちや女たちがわだかまっている。

 手に、包丁や瓦礫や砂袋や壷を携え、不可視の障壁に叩きつけていく。

 刃先が曲がり、土と砂が弾け、陶器が砕ける音は聞こえない。音声の途切れた映像が目の前にあり、沈黙とともに破壊されていく物体たちの残滓が、視界を覆う。


 人間の上に人間が折り重なる。目の前に不可視の障壁があるとして、上方に移動すれば跳び越えられるのではと考えるのは、当然の思考といえるかもしれない。

 油と泥を跳ね上げて、手を打ち付け、滑り、隣の老婆を押し退ける髭まみれの男と、目が合った。

 同じ人間なのにどうしてそちらにいるんだと、驚いたかどうかは、わからない。


 透明な障壁の表面に、泥と同じ大きさで赤い鮮血が散っている。人間の下には動かない人間が何人もいた。

 遠浅になっている河岸へうつぶせになり、頭を突っ込んだまま動かないひとがいて、彼あるいは彼女の指は、影絵を作り出そうとしているかのように、中指を中心に寄り集まりながら、ねじれている。


 その形象を、褐色の踵が砕いた。爪が剥がれ、血液がゆっくりと滲む。昇りゆく黒い太陽の速度に呼応するかのように。

 自分が、この恐慌の側にいないことが不思議でたまらない。


 クロフュスは少し離れたところで、打ち捨てられた木箱に腰かけている。腰帯に吊った、新月刀シャムシールのような形状の武具を、真っ白な布で磨いている。

 万が一、目の前の障壁が突破されたところで、俺を助けるつもりが皆無であることが、ありありと伝わる。


 助けられずとも生き返るという腹積もりなのかもしれない。そんな埒もないことを考える。考えながら、ああなんだ別のことも考えられるじゃないかと、考える。

 俺が今、考えられていることはふたつ。ひとつは、何故自分がここにいるのか。もうひとつは、クロフュスは俺を助けるつもりがないが、それは合理的だということ。


 問題は、このふたつの思考に、状況を変える力がないことだ。

 なぜ?

 自分のことしか考えていないからだ。……なんだ、他のことだって、考えられるじゃないか。


 そして走る。

 体当たりで〈膜〉を割ろうなんて考えは抱いていない。つまり、大まかでいいから、どれくらい人数がいるのかを、確認したかった。

 その後のことは思いつかない。とにかく行動しなくてはならない。愚かだろうか。たぶんそうだ。俺は俺の愚かさを、抑えることができない。


 崩れたような灰色の人だかりが途切れることはない。

 手を開き、掴まるためのものを探しているかのような体勢で、誰かが爪を立てたかと思うと、酔客のように脚をふらつかせた別の誰かが、その後ろから歯を立てて齧りつく。

 ガラス越しのパントマイムを見ているかのようだ。


 喉の奥に痰が絡まり、口の中に血の味が薄く広がる。頭の中が真っ白になりかけて、速度を緩め、背後を振り仰ぐ。

 翡翠のような浅葱色や、夜明けの空気と同じ色に染まる群青色の石造りの建物たち。粘土のような地表に、清らかにそびえる林立を眺めていると、吐き気がした。


 少なく見積もっても、二桁では利かない。泳いできたひともいれば、服がまるで濡れていないひともいた(木舟がいくつか、乱雑に乗り捨てられていた。あれに乗ってきたのかもしれない)。子どもや老人もいた。

 ふと頭上を仰ぐと、巨大な蜘蛛が星空を這う。

 見間違いだった。蜘蛛と見えたのは若い女性だ。長い茶褐色の髪を垂らし、裸の乳房を押しつけ、こちらを覗き込んでいる。病気の犬を連想させる。


 子どもの頃、あてもなく河川敷をさまよっていて、傷だらけの犬に追いかけられたことがあった。あれは、どこだったろう?

 埒もないことをまた考えていたせいで、足がもつれて、どうやら転んだ。転んでから転んだことに気づく。

 生ぬるい鈍痛に、前触れなく電撃が折り重なる。半ば融けた土くれが、右手の指を伝い、いびつな雫となり落ちていく。

 俺は泥に埋まった釘で、手のひらを貫いていた。


 刺さったものを抜くと、思い出したように濁った血液が垂れる。傷口に宿る感覚が、痺れから痛みに変わる。

 深呼吸をする。目を閉じ、土の匂いを嗅ぎ、瞼の上に曙光しょこうを受けながら。

 それから右手を目の前に突き出し、左手で泥を拭う。粘り気とともに取り払われていく汚物がシャツの襟に跳ね、小さな染みをつくる。


 同じ場所に、鮮やかな赤が散る。同じくらいの大きさの染みだ。

 自分の生爪を剥がすのが、こんなに痛いとは知らなかった。

 明白に苦しかったのは呼吸困難ぐらいで、他の死因では死んだことさえ認識する余裕がなかったから、これは、死ぬより痛いかもしれない。そんな馬鹿なことを思った。


 鮮血が蜜のように垂れ落ちる親指をくわえて、円くて透明な壁際まで向かう。

 筆先のように押しつけると、唾液で溶け出した体液が線を引き、記号を描いた。少女の唇と、ハイビスカスの香りを思い出しながら、こう書いた。


 Je suis humain.(俺は人間だ)


 大学でフランス語を第二外国語に選んだのは、トリュフォーの『大人は判ってくれない』を字幕なしで観たかったからだ。つまり大した動機じゃない。

 脳内に残ったのは、定期試験に備えて暗記した単語ばかりだ。


 そのまま再び走り出しては止まり、できるだけ大きく文字を描いた。

 Évacuation(避難)

 Regarder(時計)

 Arbre(木)

 Dedans(中で)

 Ville(街)

 Centre(中心)

 頭の中に浮かんだ言葉を書きなぐる。凝血しかかる指を、強く噛み潰し、剥き出しの肉を歯で掻き混ぜ、体内を循環する塗料を、少しでも多く滲ませて。



 ルペーニヤのひとたち全員が、迎賓館の少女のようにフランス語を解するかどうか、それはわからない。なぜフランス語を解するのかも。

 だいたい戸籍もろくに整備されていない、この〈自治区〉の識字率が、どれほどのものか。

 期待はしていない。それでもできることはこれしかない。


 指先をふたたび〈膜〉につけようとしたとき、足元が滑り、また転んだ。膝が鼓動に合わせ、腫れあがったように痛む。

 顔から泥に突っこむと、聴覚だけが鋭敏になる。怒号と悲鳴は続いている。増えたのか減ったのか、どちらとも取れる気がした。わからない。


「何をしている」


 鋭敏になった聴覚が、問いかけをとらえる。無力な存在が血を流しながら走っていれば、何をしているのか聞きたくもなるのだろう。

 殺したいなら殺せ。どうせ死ねない。

 頬に、新しい泥が跳ねる。耳朶のすぐそばで、ぬかるみを踏みしだく硬い足音。


「時計。木。街。……中心」


 読み上げる声音から、感情は読み取れない。


「……鏡文字になってしまっている。左右を反転させて書かねば、読めるものも読めない」


 諭すような呼びかけだ。

 なぜか、昔観た映画のラストシーンを思い出す。

 主人公の少年が、ヒロインの少女を包丁で刺し、感化院に送られる。

 1年後。盛夏の昼下がり。陽光の充ちる中庭で、真っ白なシーツを干す母親を、カメラは背後から映している。


 テーブルの上に置かれたラジオから、その年度の国立大学の合格者を読み上げる放送が流れてくる。延々と告示される、赤の他人の受験番号と氏名。

 母親の手が、不意に止まる。少年は高校生だった。

 水色のブラウスの背中に、夏の陽射しが斑模様をつくる。


 時計。木。街。中心。

 声は遠いところや、近いところから聞こえてくる。

 俺は眼を閉じ、すると上映が終わったスクリーンみたいに、視界が真っ黒になる。

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