水瓶とハイビスカス

 当初はごく和やかに歓談していたという魔族側の証言は、その立場を差し引いて、聞いておくべきだろう。

 和やかなのは魔族だけで、からすれば、寒心に堪えない公務であったにちがいない。なんせその意図は領民をひとり残らず抹殺することで、その対象には他ならぬ領主も含まれるのだから。


 出された昼食の味だの、踊り子の女性たちに魔術を披露した経緯だの、曲芸のような術だが失敗して魔獣を召喚してしまっただの、どうでもいい前置きばかりが多く、本題には中々入らない。

 辛抱して聞き入る。


「……それから、具体的な殲滅の計画を確認していたとき、前触れもなく席をお立ちになってな。それで、首を絞められた」


 魔王様はそう言って、自分のリボンタイをつまんでみせる。

 

「あまりに弱々しい手つきだから、初めはこれを、直してくれているのかと。それでまあ、影の中から這い出たクロフュスが脚を吹き飛ばし、しばらくしてセンセイが駆けつけた」


 俺は深呼吸をしてみる。

 視界が正常ではない。呼吸を整えなくてはいけない。


「ジアコモが食べてしまったが、再生できるし、心配はいらんだろう」


「へえ、すんません」


職掌柄しょくしょうがらなのはわかるが、口に入れるものはきちんと確認したほうがいいぞ」


 窓辺の上座に座った魔王様は、のんびりした口調で付け加えた。


「しかし、あの様子では協力を仰ぐのも難しかろう。今後は副総統殿に権限を委譲しなくては。どうかな、諸君」


「あ? あー、いんじゃないスか」


 食べてしまったやつは悪びれもせず、長机に脚を放り出している。サンダルに股引ももひきのような下衣を合わせ、上半身には袖なしの黒い下着と厚手の外套を羽織っている。

 油を塗ったようにぎらぎらと光る涅色くりいろの羽根が、首回りを何重にも囲んでいた。


「あー腹減った。おい奴隷、要らねえ腕どっちか貸せ」


 俺は無視し、絶対に視線を合わせない。貸したら最後、2度と返ってこない。


「両方でもいいぞ。ついでに脚もな」


 欠損した手足が魔術ですぐに再生されるとしても、そういう問題ではない。


「シカトこいてんじゃねえよ、コラ」


 顎を鳴らす音が聞こえるけど無視。それより重大な問題がある。


「では、僭越ながらこのクロフュスが、クーベルツェ殿をお呼びいたしましょう」


 来た。

 そりゃそうなる、そりゃあ、代わりの人間をここに呼びつけようとする。

 ああくそ、勘弁してくれ、こっちは頭の整理ができていないってのに。


「あの、ワタクシが行ってまいります」


 お呼びいたす予定のやつが言い継ぐより早く、遮るようにして割り込む。


「ええっ、センセイが?」


 魔王様が驚きの声をあげた。まさか自分たちで出向くつもりだったのか。兄貴の足首ぶっ飛ばしといて正気か。

 いや正気じゃないんだった。落ち着け俺。


「はいワタクシが。総統殿の足の治癒の件についてもお伝えしなければいけませんから」


「心配だなあ。わたしも同行しようか?」


「畏れながら申し上げますが、この者が魔族を伴えば、先方は要らぬ疑心にかられ、ますます態度を頑なにするかと」


 おっとまさかの助け舟。いいぞ、その調子だクソシカ。せめてこういうときは役に立て筋肉ダルマ。


「うーん、それもそうだな。では待つあいだ、わたしは書類の整理でもしておこう」


「陛下、私はどうすりゃ?」


「酒瓶の中身が残っているから、飲んでいいぞ」


 その答えに口笛を鳴らしたハイエナもどきの怪獣は、テーブルに上げたままの足を蠢かし、片づけられていない果実酒のボトルを指にひっかけ、コルクを抜いた。そのまま膝を曲げて背筋を伸ばし、大道芸人のように身体を大きく曲げた体勢で、口元へ持っていく。

 うれしそうにうめきながら、大きく膨れた喉袋へ流し込んでいった。



 バルコニーまで撤退して、ようやく一息つく心地だった。あの空間にはもう1秒たりともいたくない。

 もう大丈夫ですと、誰にともなく小声で囁いてみる。

 すると俺の影が、小石を投げ込まれた湖面のように揺れ、中年男性の生首が外界へと露わになる。


「……あ、あ、びっくり、した」


「いちいち外に出る必要はないだろう? とにかく助かった。あれ以上長居していたら、気配で露見していたな」


 肝が冷えた。

 執務に励んでいるはずの人間が、俺の影の中にいることが明るみに出たら。そう考えた末の突発的な行動だった。

 結果的に間一髪で、想定外の危機から逃れたらしい。


「さて、私は自分の書斎に戻るべきか」


「ああ、じゃあ頃合いを見てそっちに……」


 言いかけると、束ねていない長髪の毛先を揺らして、首をふった。


「少しでいい、兄者の容体を確認してほしい」


「……わかりました」


「……魔族連中に訝られんように、気をつけなさい。私は時間を置いて勝手に出る」


「いや、でも」


「落ち着け。こういうことにしたらいい。……貴殿が私のところへ出向き、兄者が負傷したから代理の為政者を呼び立てに参った旨を伝えると、憔悴しきった表情でこう言われた――貴様は魔族の一員だろう? 責任を取って負傷者の容体を確かめてこい、と」


 澱みなく告げられる。


「そんな眼で見るな。こういう事態には慣れている」


 苦笑を滲ませて、止血ぐらいはしているだろうが早急に頼むと言い残し、薄灰色の沼に沈んでいく。

 散逸しかかる花の香りと、草木の青くささを吸い込み、俺は踵を返した。



 予想に反し、やすやすと迎え入れられる。


「ひどい有り様だろう」


 檜の匂いをかもす寝台に仰臥ぎょうがし、切断された足に包帯を巻き、胸よりも高く吊り下げたまま、総統閣下は言う。

 こもる空気の湿り気に混じり、消毒液のきつい臭気が漂う。


「その様子だと、むしろ私が動じていないことに、動じているらしいが、……先方の意に沿わぬことがあると、こういう仕置きを受けるのでな、はここに常備してある……」


 土気色の相貌をこちらに向けている。こけた頬に、無精髭がまばらに生えていた。

 弟は金髪だが、兄は黒髪だ。短く刈り揃え、ほとんど囚人めいている。黄ばんだ麻布の、いやもっと下等な布で織られているらしいナイトガウンの襟元から、肋骨の凸部が覗けた。


 迎え入れられた私室に、窓はない。

 部屋そのものが、本来なら廊下であるところに空間を取り、どの外壁にも面しない、奇妙な位置に設えられていた。あえて窓を、つまり光源を避けたようなつくりだ。

 理由はわからない。詮索すべきでない気がする。


 骨の浮き出た細腕が、震えながら肉塊を握る。

 俺と話しているあいだも、あるいは先ほどの少女が点滴を取り替えているあいだも――そのへんの病院にある代物だ。ルナルカさんは人狐だから、そのツテで俺たちの世界から持ち込んだのかもしれない――、紙粘土をねじるようにして、指で押したり、つまんだり、ひねったりしながら、絶えず造形に専心していた。


 指は、長さと太さと形状が一定ではない。中指の先端は膨らみすぎていて、小さな芋のようだ。小指には爪がない。そして左手の薬指は、第一関節から先が、えぐり取られたように欠けている。


「慣れていなかった頃の作品だ」


 腹の上に肉塊を置くと、こちらへ向けて手をかざした。


「末梢の血管が上手く繋がらなくて、壊死してしまった、感染症で死にかけた」


 閣下は笑った。


「どうにかしてくれと、監察官だとかいう、たしかハリネズミだったか、そんなようなチビに懇願したことがあった、なんて言われたと思う? 自分のなんだから自分で始末をつけろ、だと……」


 笑っていなかった。彼は泣いていた。嗚咽の端緒において、人間は腹で呼吸をする。笑うときと一緒だ。俺は早合点したわけだ。

 元気を出してください、とは言わなかった。窓の外を見るわけにもいかない。

 部屋の隅に浮かんでいる、小さな黒い光球を眺めた。どういう役割の物体なのかは知らない。聞いていい状況でもない。


 この部屋に来てから、どれくらい経っただろう? 数分? 数十分? 時間を確認しておくのを忘れた。長居していれば、しびれを切らした魔族がここに来るかもしれない。かといって出ていくのも不自然だ。どれくらいのあいだ、ここにいるのが最適だろうか?

 これも、無関係なことを考えていることになるのだろうか。

 何があったのか、詳しい話をと、淡い願望を抱いていたが、これは、無理だ。


「はっきり言うが」


 やつれた顔は、なぜか微笑んでいる。今生の別れとなる誰かを見送るような、できすぎた微笑。


「こんな街は滅べばいいと思ってる。見たか、連中の小便色の前歯を?……どぶ臭く、不潔なはしためどもの間抜け面を、見ているだけで吐き気がする。連中に、どうせ魔族の理屈など理解できない。この俺にも」


 どこかで見た相貌だとぼんやり思うが、そう言えばここ数日は、他ならぬ実の弟と行動を共にしていた。見覚えがあるのは当然だ。俺は、まだ、どうかしているみたいだ。


「ただ、できればとは、肉体が滅びた後も、同じ霊体どうしで、再会したいと思う」


 錆びた水瓶みずがめを持った少女は、言葉に吸い寄せられるように、病者のしなびた肩に抱かれる。majesté、という単語が、何も塗られていない、爬虫類の卵殻のように乾いた、小さな唇を割って紡がれた。

 


 水瓶が揺れる。サフラン色の液体があふれる。床板に水滴が滑り落ちて、ハイビスカスの香りをまきちらす。

 ふたりの長い接吻の前に立ち尽くす。とめどない混乱に呑まれていく自分を感じながら。

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