足首とハイエナ
まず思ったのは、なぜここに、ということだ。足首がなぜ、と思い、クロフュスがなぜ、とも思った。
思うと同時に、後者の疑念が不合理であることに気づく。こいつは魔王の護衛だ。外遊に同道するなら、魔術で護衛対象の影に潜むのは合理的な選択だ。
そして足首は人間のものだ。太く、塩水に浸けたように青白く、噴きこぼれる鮮血が赤い。
「お前っ」
悲鳴と同じ声域で、その声は聞こえた。尻餅をついた中年の肥った男が、涙を流して懇願している。
「それを、それを、はやく」
顔色は、足首よりも青白い。吐息をつきながら激しくむせて、口元をおさえる。
指のすき間から、カブトムシの幼虫が出てきた。半ば溶けかかっている。先ほど俺が食べたのと同じものだ。
「ああ、はあ、ああ――」
片目を開き、なおも肩で呼吸をしている。目を回しているようにも見え、焦点は合わない。
唖然としていると、喉が崩れたようなうめきがもう一度、聞こえた。
「持ってきてくれっ、ここに、すぐにっ!」
俺は走って、持っていくべきだと感じている。動けないまま、その光景を見つめながら。
*
少女と、どこからか現れた三人の老爺に引きずられ、総統殿下は別室へと移された。
俺はといえば、何もしていない。ただ、切断された人間の身体の一部を持ったまま、手を洗う場所を探して、食堂をうろうろしている。
縫合する技術があるでなし、渡すだけ無駄だと、切断した魔族に告げられたので、素直に従った。それだけだ。
ふと見ると、錆びた小さな鉄の盆の上に、透明な液体が張られていた。手を突っ込み、指先についた血と脂を洗う。
甘い芳香を立てる
喉が、かっと熱くなる。酒だ。
杯の中へ嘔吐し、そのまま崩れ落ち、しゃがみこむ。自分の呼吸の仕方で、自分が泣き出したことに気づく。
「あの男は、陛下に掴みかかろうとした。暴行未遂と王侯侮辱にあたる。そしてこの地では魔族からニンゲンへの教育的指導は禁止されていない。ゆえに私は
俺は眼を閉じて、それを聞いている。
「大の男が、めそめそと泣くな」
そう告げられて初めて、自分が肩を震わせているのに気づく。
「これしきで動じるなと言っている。……われらの手にかかれば、貴様らの惰弱な足先など、いくらでも生え揃う」
重たげな嘆息と、椅子を引く音、腰を下ろす音が聞こえる。俺は支柱に額をつけ、絨毯に座りこんでいる。
わけもわからず泣いているだけだ。大丈夫、悲しみなんて感じない。大丈夫だ。
「早く座れ。こうなった以上、今後のことを協議しなくては。……陛下」
「あ、ああ、なんだ」
「ジアコモを」
肩が痛む。座禅を組むような体勢を、知らずに取っていた。
なぜか急激な眠気に襲われる。
「待て、センセイが」
「この、惰弱な生き物の痴態が、ご自身の高邁な学究より重要とお考えであれば、好きになさるがよい」
「……どちらも重要だな。比べるのは間違っている」
テーブルが軋む。
やさしげな指の感触が、投げ出した手の甲に重ねられる。
「立てるか?」
眼を閉じたままうなずいた。立てないことを知っていたが、うなずく以外にどうすればいいか、判断がつきかねた。
脚をひきずり、椅子にすがりつく。膝立ちになり、座面に上体で覆い被さるようにして、身を横たえる。一瞬意識が飛んだ。
腰に巻きつけた革のベルトをつかまれ、そのまま身体が宙に浮く。引きずり上げられていた。
「軽いな、意外と」
微笑し、遠ざかり、椅子の脚と床の擦れる音が聞こえた。書斎では、こんな音を立てて着席することはない。必ず脚と床の接面を浮かせて、背もたれを引いていた。
魔王も動揺しているのかもしれない。だとしたら自分と変わらない。
そう、少なくとも俺は動揺している。壁に向かって投げたボールが跳ね返り、胸元へ戻ってくるような、無意味な発見だ。
そして気づけば、協議の席についている。
*
こめかみを指で揉んでから、正面を見据える。
隻眼のヘラジカは眼を逸らし、いや単にあるじへ視線を移しただけだ。
縦一文字に振り下ろされた傷口の向こうの、閉ざされた瞼だけが、こちらに向けられる。
正確には、あるじを見ているのではない。その背から伸びる、曖昧な光源に拡散しかかる影を見ている。
その端っこ、壁に所在なく寄りかかるあたりから、焦げ茶色の指が突き出た。水鳥が足で水面を蹴るような音を立てて、手首が露出した。手骨で節くれ立った輪郭には、銀色の腕輪がくくられている。
黒曜石のように輝く爪は鋭く、明らかに恣意的な処置によって尖っている。床の合板にめり込み、裂け目を穿ちながら、自分の上腕と頭を引き上げた。
茶褐色の体毛に浮き出た黒い斑点が、全身を覆っている。
上方へ向けて突き立つ、耳輪の空いた獣の耳のあいだから、銀灰色の角が隆起し、耳朶を取り巻くようにして、半円を描いている。とがった先端が鈍く光っている。
糸鋸のような牙の並んだ大口を開けて、ジアコモはあくびをした。
「ちくしょう、
悪態をつき、頭頂から後頸部まで伸びた緋色の
鈍重な声音は、酒焼けの賜物と思われた。事実、腰には酩酊しそうな臭気を放つ瓶と、何かの生き物の、黄味を帯びた頭蓋骨が吊り下げられている。
「くそ、背と腹がくっついちまいそうだ……おお、なんだこりゃあ、てめえの足か?」
俺を押し退けるようにして、テーブルへ乗り出す。二の腕は俺の太腿の倍くらいの太さだ。
椅子ごと盛大に転げて、腰を床に強打する。
「あん? 五体満足じゃねえか、つまらん」
転げた俺を見下ろし、かすめ取った総統閣下の踝に牙を喰い込ませる。
血色の悪い灰色の皮膚を、びちびちと音を立てて食いちぎると、露出した乏しい筋繊維とその奥に埋まる骨を、一緒くたに噛み砕いた。
人間の足首ひとつが、魔族の胃袋の中へ収まるのに時間はかからない。
「んで、ご勅命は
ジアコモは指についた血糊を、先端をピアスで割った、蛇のような舌で嘗める。上半身には下着しかつけていない。
クロフュスは首を鳴らして、
「戻って、上着を取ってこい」
と言って、こめかみを指で揉んだ。
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