足首とハイエナ

 まず思ったのは、なぜここに、ということだ。足首がなぜ、と思い、クロフュスがなぜ、とも思った。

 思うと同時に、後者の疑念が不合理であることに気づく。こいつは魔王の護衛だ。外遊に同道するなら、魔術で護衛対象の影に潜むのは合理的な選択だ。

 そして足首は人間のものだ。太く、塩水に浸けたように青白く、噴きこぼれる鮮血が赤い。


「お前っ」


 悲鳴と同じ声域で、その声は聞こえた。尻餅をついた中年の肥った男が、涙を流して懇願している。


「それを、それを、はやく」


 顔色は、足首よりも青白い。吐息をつきながら激しくむせて、口元をおさえる。

 指のすき間から、カブトムシの幼虫が出てきた。半ば溶けかかっている。先ほど俺が食べたのと同じものだ。


「ああ、はあ、ああ――」


 片目を開き、なおも肩で呼吸をしている。目を回しているようにも見え、焦点は合わない。

 唖然としていると、喉が崩れたようなうめきがもう一度、聞こえた。


「持ってきてくれっ、ここに、すぐにっ!」


 俺は走って、持っていくべきだと感じている。動けないまま、その光景を見つめながら。



 少女と、どこからか現れた三人の老爺に引きずられ、総統殿下は別室へと移された。

 俺はといえば、何もしていない。ただ、切断された人間の身体の一部を持ったまま、手を洗う場所を探して、食堂をうろうろしている。

 縫合する技術があるでなし、渡すだけ無駄だと、切断した魔族に告げられたので、素直に従った。それだけだ。


 ふと見ると、錆びた小さな鉄の盆の上に、透明な液体が張られていた。手を突っ込み、指先についた血と脂を洗う。

 甘い芳香を立てるさかずきもあった。粘り気を帯びる唾を無理に呑みこんでから、内容物を流し込んだ。

 喉が、と熱くなる。酒だ。

 杯の中へ嘔吐し、そのまま崩れ落ち、しゃがみこむ。自分の呼吸の仕方で、自分が泣き出したことに気づく。


「あの男は、陛下に掴みかかろうとした。暴行未遂と王侯侮辱にあたる。そしてこの地では魔族からニンゲンへの教育的指導は禁止されて。ゆえに私はくるぶしを斬った。それだけだ」


 俺は眼を閉じて、それを聞いている。


「大の男が、めそめそと泣くな」


 そう告げられて初めて、自分が肩を震わせているのに気づく。


「これしきで動じるなと言っている。……われらの手にかかれば、貴様らの惰弱な足先など、いくらでも生え揃う」


 重たげな嘆息と、椅子を引く音、腰を下ろす音が聞こえる。俺は支柱に額をつけ、絨毯に座りこんでいる。

 わけもわからず泣いているだけだ。大丈夫、悲しみなんて感じない。大丈夫だ。


「早く座れ。こうなった以上、今後のことを協議しなくては。……陛下」


「あ、ああ、なんだ」


「ジアコモを」


 肩が痛む。座禅を組むような体勢を、知らずに取っていた。

 なぜか急激な眠気に襲われる。


「待て、センセイが」


「この、惰弱な生き物の痴態が、ご自身の高邁な学究より重要とお考えであれば、好きになさるがよい」


「……どちらも重要だな。比べるのは間違っている」


 テーブルが軋む。

 やさしげな指の感触が、投げ出した手の甲に重ねられる。


「立てるか?」


 眼を閉じたままうなずいた。立てないことを知っていたが、うなずく以外にどうすればいいか、判断がつきかねた。

 脚をひきずり、椅子にすがりつく。膝立ちになり、座面に上体で覆い被さるようにして、身を横たえる。一瞬意識が飛んだ。

 腰に巻きつけた革のベルトをつかまれ、そのまま身体が宙に浮く。引きずり上げられていた。


「軽いな、意外と」


 微笑し、遠ざかり、椅子の脚と床の擦れる音が聞こえた。書斎では、こんな音を立てて着席することはない。必ず脚と床の接面を浮かせて、背もたれを引いていた。

 魔王も動揺しているのかもしれない。だとしたら自分と変わらない。

 そう、少なくとも俺は動揺している。壁に向かって投げたボールが跳ね返り、胸元へ戻ってくるような、無意味な発見だ。

 そして気づけば、協議の席についている。



 こめかみを指で揉んでから、正面を見据える。

 隻眼のヘラジカは眼を逸らし、いや単にあるじへ視線を移しただけだ。

 縦一文字に振り下ろされた傷口の向こうの、閉ざされた瞼だけが、こちらに向けられる。


 正確には、あるじを見ているのではない。その背から伸びる、曖昧な光源に拡散しかかる影を見ている。

 その端っこ、壁に所在なく寄りかかるあたりから、焦げ茶色の指が突き出た。水鳥が足で水面を蹴るような音を立てて、手首が露出した。手骨で節くれ立った輪郭には、銀色の腕輪がくくられている。


 黒曜石のように輝く爪は鋭く、明らかに恣意的な処置によって尖っている。床の合板にめり込み、裂け目を穿ちながら、自分の上腕と頭を引き上げた。

 茶褐色の体毛に浮き出た黒い斑点が、全身を覆っている。

 上方へ向けて突き立つ、耳輪の空いた獣の耳のあいだから、銀灰色の角が隆起し、耳朶を取り巻くようにして、半円を描いている。とがった先端が鈍く光っている。

 糸鋸のような牙の並んだ大口を開けて、ジアコモはあくびをした。


「ちくしょう、師匠せんせいもひでえな。二交代制の約定だろ? こんな真っ昼間に呼び出さんでもよお」


 悪態をつき、頭頂から後頸部まで伸びた緋色のたてがみを、ぼさぼさと掻きむしる。ブチハイエナのような姿だが、ハイエナには角なんか生えていない。

 鈍重な声音は、酒焼けの賜物と思われた。事実、腰には酩酊しそうな臭気を放つ瓶と、何かの生き物の、黄味を帯びた頭蓋骨が吊り下げられている。


「くそ、背と腹がくっついちまいそうだ……おお、なんだこりゃあ、てめえの足か?」


 俺を押し退けるようにして、テーブルへ乗り出す。二の腕は俺の太腿の倍くらいの太さだ。膂力りょりょくの関係上、突き飛ばされたも同然だった。

 椅子ごと盛大に転げて、腰を床に強打する。


「あん? 五体満足じゃねえか、つまらん」


 転げた俺を見下ろし、かすめ取った総統閣下の踝に牙を喰い込ませる。

 血色の悪い灰色の皮膚を、と音を立てて食いちぎると、露出した乏しい筋繊維とその奥に埋まる骨を、一緒くたに噛み砕いた。

 人間の足首ひとつが、魔族の胃袋の中へ収まるのに時間はかからない。


「んで、ご勅命は如何様いかようで?」


 ジアコモは指についた血糊を、先端をピアスで割った、蛇のような舌で嘗める。上半身には下着しかつけていない。

 クロフュスは首を鳴らして、


「戻って、上着を取ってこい」


 と言って、こめかみを指で揉んだ。

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