あの夏の日


 昼過ぎ。なぜあるかわからない登校日の日程が終わって、ぼくはいつも通り部室棟の端っこにある部室にむかう。もうすぐ暦では秋になろうというのに、八月の熱気はうだるようで、部室棟廊下の窓はすべて全開だった。文学部の手前にある吹奏楽部はすでに何人か練習を始めていて、腕まくりした女子生徒が今やっているアニメのオープニングを吹いていた。上のほうからはギターの音も聞こえる、軽音部だろうか。

 建付けの悪い戸を音を立てて開くと、Nは既に来ていた。モノに埋もれかけた部室で唯一埋もれていない長机に座り、横にはたくさんのハードカバーを積み上げ、前には旧式のノートパソコンを開いて本を読んでいる。平均より少し小さな体躯に不釣り合いな大きな丸眼鏡。その奥の瞳は炯々けいけいと輝きながらすばやく文字をなぞっていた。

「あ、いらっしゃい。暑くてうんざりって顔だね、今扇風機の首降るようにするから風来るとこに座りな」

 Nは思いっきり手を伸ばして卒業生の誰かが置いて行った古い扇風機のスイッチに触ろうとした。…届かなくて立ち上がって首振りスイッチを入れた。

 部室棟は十数年前まで教室棟として使われていた建物だから、当然のようにエアコンなんて文明の利器はない。吹奏楽部なんかの部室には天井に扇風機がぶら下がってるけど、零細部活動のところにそんな工事は入るわけもなく。

 何が言いたいのかというと「あつい。」めちゃくちゃ暑い。いつか発火しそうなおんぼろ扇風機一台がカラカラ鳴きながら吹かせる風なんかじゃこの暑さはどうにもならない。それに加えて溜まったほこりが巻き上げられてくしゃみが出そうだ。先週掃除したはずだけど、いかんせんモノが多すぎる。

「だから風鈴買ったじゃん、くしゃみ出るんならマスクでもしたら? 暑いけど」

「風流人じゃないんで、最高気温三十六度はやっぱ耐えられないです、フツーに熱中症で死ぬ。」

 ちなみにNが知る限り決して開かれることなく締め切られていた部室の窓はぼくの累計五時間以上に及ぶガラクタとの異種格闘技戦の末、開け放たれている。そしてNが買ってきたやつを加えて四個の風鈴がめいめい好き勝手にリンリンなっていた。初めて窓を開けたときは窓に支えられていたらしいガラクタがさらに雪崩れて大変だった。

「あ、そういえば、部誌用の小説の進捗はどんな感じです? なるべく早くほしいんですけど。」

 九月の文化祭で赤字価格で売っている部誌はたいしてコンクールとかに作品を出していないぼくらにとってはほぼ唯一の実績で、これが出せないとなるとたった二人の部活動はすぐになくなってしまう。だからかなり重要なものだ。一年の時はNの原稿が遅れに遅れたせいで入稿がギリギリになってしまった。今年はそんなの思いはしたくないのだ。

「…こんなに暑かったら書く気力も湧かないよ。」

 ほら、Nも暑いんじゃないか。暑いんなら一緒に涼しくなる方法でも考えてほしいものだ。

「それなら、窓の前に打ち水でもしたら? 冷蔵庫のアイスは昨日なくなったし。」

 よくよく考えれば、この部室から出て涼しいところで作業すればいいものだけれど、当時のぼくたちは、部室から出るという考えがなかったらしい。


 打ち水をしたところで対して涼しくならなかった。

「涼しくなったかもしれないんで、本読んでないで小説書いてください。」

 Nが開いているパソコンの画面をのぞき込むと、「あれ、」七月末に見た時とほとんど変わらなかった。Nの目は遠泳に出ていた。ドーハ海峡くらいなら越えられそうだ。

「——これからがんばります。ところで君の分はどうなのよ?」

 Nはやや拗ねたように言った。ぼくのぶんは一応形にはなっている。気にいっていないからまた書き直すつもりだけど。

「いいなぁ! 筆が早くて!」

 Nは言葉のひとつひとつから吟味する、納得がいく文章が書けなければ容赦なく初めから書き直すタイプ。一方のぼくは筆が速いほうで、一度筆が乗ってしまえば一気に五千字くらい書けることもある。まあ、五個書いたら二つか三つは気に入らなくて自分でお蔵入りにするんだけど。

 だから、ぼくは自分の本当に書きたいことを面白く書いているNがうらやましかったし、Nはぼくの筆の速さをうらやましがっていた。

「書けたんならさ、読ませてよ、誰にも見せずにお蔵入りなんてもったいない、もしかしたら、きみが気が付いてないだけでめっちゃおもしろいかもだし?」

 そういってぼくからスマホを取り上げて、手慣れた手つきで一昨日書き上げた没原稿を見つけ出すと、楽しそうに読み始めた。Nは本を読むとき、度のきつい眼鏡の奥でいつもめんどくさそうに閉じかけている瞼をぱっちりと開いて、炯々と瞳を輝かせながら、物語世界の中に入り込むのだ。いつもの倍くらい、ころころと表情を変えながら。

 ぼくはその向かいに座って、頬杖を突きながらそれを眺めるのが好きだった。それに、そこまで没入できるということはある程度面白いということの証左だ。少し安心。あれ、急に表情が険しくなった。やっぱまずいとこだらけだもんなぁ。当然か「視線を感じると思ったら。そんなに見ても面白いもんじゃないって。私の顔見るよりそこらの本読むほうが面白いよ、絶対」ばっちり目があっていた。

 そりゃ、はじめて人に文章を読まれるってのは緊張するけどさ、と言ってNは視線をスマホに戻した。

「そんなこと関係なく、Nはほんと楽しそうに本を読むから、見てるとこっちも楽しくなるんだよ、たいていの場合、その読んでる本は難しくて意味がわかんないけど」

 ぼくにはライトノベルくらいが性に合っている。Nの読んでるようながちがちの純文学は読んでいると疲れてしまう。

「ふーん。そうなんだ。見られてるこっちの気分になれって話だけどね、そんなに表情ころころ変わってるならちょっと恥ずかしいし、」

「善処します…。」

 それから、ぼくはNの読んでいる姿をできるだけ、見ないように、見ているように見えないようにしながら本を読んでいた。

 果たしてNは読み終わった。

「私は嫌いじゃないよ、こういう話。テーマとストーリーラインはおもしろいと思うし、一部理由付けとか動機付けが弱い気がするとこはあるけど、ちょっと書き直せば十分おもしろい話になると思うんだけど。もったいないよ、これを没にするのは」

 可もなく不可もなく、どっちかというと、可って感じらしい。穿ちすぎかな。

「そこまで言うなら、書き直してみようかな、図書室で印刷してくるんで朱つけてもらえませんか」

「おーけー、お任せあれ」

 …あれ、うまい感じに煙に巻かれてないか? 進捗のこと。

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