Nという女性

「久しぶり、こういうのを「奇遇だね」って言うのかな?」

 どちら様でしょう。

「え、——あれ、もしかして誰だか分かってない?」

 彼女はNと名乗った。

 なるほど、確かにいたずらっぽく笑う表情には昔のNの面影があるような気がするような。しないような。

「信じてないでしょ」

 Nと名乗る彼女はなんというかちゃんとしてそうな、いろんなことをきちんとこなしそうな雰囲気があった。全体的にこぎれいで、どこか垢ぬけた感じもする。


彼女の言ったとおり、ぼくはこの女性がNだとは到底思えなかった。

 ぼくの記憶にあるNはこんな雰囲気のひとじゃなかったんだけど。


 Nというのは高校時代のぼくの数少ない友人で、型に填めた言い方をするなら「文学少女」というヤツだった。いつもなにやら書いたり読んだりばかりしていたような記憶がある。


 部活はイメージ通り文芸部——といっても部員はぼくとNだけだったから大層なものじゃない――に所属し、絵に書いたように度の強そうな眼鏡を掛けて、難しそうなハードカバーを持っていた。


 伊達に本を読んでばかりいただけあってか、Nは優秀だったらしく、高校卒業後京都のナントカという大学に進学したとかいう話を風のうわさかなにかで聞いていた。

 聞いたときは、やっぱりすごい人はすごいんだなぁ、なんてバカみたいに考えてた気がする。


 彼女は懐かしいね、なんて笑って、君は旧友の顔を忘れるかね、ふつう。とわざとらしく拗ねたように言った。


 ぼくはうまく二の句が継げなくて、ごまかすようにお冷のグラスに口をつけたけれど、唇に感じたの氷の冷たさばかりで、喉を通る水は数滴もなかった。

「君は、昔から何も変わんないみたいね。」

 彼女はNみたいにころころ笑って、グラスに水を注いでくれた。


 ぼくは改めて水を飲んでから、

「ずいぶん変わったみたいですね、誰だかわからなかった。大学デビューってやつです?」

 と冗談めかして言い返してみたら、またころころと笑われてしまった。「ムリしちゃって、声が上ずってる」


 都会に出たら変わらざるを得ないんだよ。まして、田舎者が一人ぽっちでなんて尚更そう、とも、ひとりごとように呟いていた。

「それよりさ、君は約束すら忘れちゃったんだ? 変にかしこまって。…もしかして、知らない美人さんに声かけられたと思って緊張した? ——眼鏡外しただけでそんなに印象変わるかな。」


 図星だった。ぶっきらぼうにそんなことない、と言って、また水を飲んだ。


内心では、このひとは本当にNなんだなと今更のように安心している自分がいた。外見はすっかり変わってすっかり大人の女性然としているけど、その中身は間違いなくNのようだった。


「きみはさっきから水を飲んでばかりだねぇ、水分補給は大事だけどさ」

 誰のせいだと思ってる、これも間違なくNのせいだ。


 そうこうしているうちに、バイトの大学生が牛丼を持ってきた。


彼はまたもにょもにょ言って立ち去ろうとしたが、その後ろ姿にNは自分の注文を投げつけた。牛丼大盛り、牛皿、生卵、それからビールふたつ。相変わらず、趣味が古臭かったし、しかも勝手に人のぶんまで決めてしまっていた。今日は飲まれてしまいそうで飲みたくなったのになぁ。


 ぼくはすこし罪悪感を感じつつ、手を合わせる。

 紅ショウガとで肉を見えなくなるまで盛り付ける。せっかくタダなんだし。匙で掬い上げられたご飯は「つゆだくだく」なだけあって、既に汁を吸いこんでうっすらと茶色く色づいていて、口に放り込むと火傷してしまいそうなほど熱かった。慌てて傾けたグラスはまたもや空だった。

「君はたしか社会人なんでしょ? 高校時代のほうがよっぽど落ち着きがあったと思うけど」

 Nはまたころころ笑って、来たばかりの彼女のお冷のグラスをぼくのほうへよこした。

「ほら、飲みな。…いいんだよ、今にビールが来るしね。」

 食道をゆっくりと熱々のごはんが下っていきそれを追うように冷水が下りていく。


***


「じゃあ、懐かしき友と再び会えたことを祝って。かんぱい。」

「…乾杯。」

 ぼくたちは中ジョッキというにはやや少ない気がするビールで静かにその再会を祝う。そういえば歯が浮くようなことも言える人だった。

 ジョッキとジョッキのぶつかる小さな音は有線放送の九十年代のポップスに掻き消され、よく冷えたビールは火傷気味の食道を滑り落ちていった。

 そういえばNはどうして地元ここにいるんだろう、突然の再会に喜ぶ前に、Nの印象があまりに変わっていたことに驚いてしまって、考えられもしなかったけれど

「ほら、就活ってやつだよ、やりたくなくて院に進んだとはいえ、そろそろ職を見つけとかないと、って。やりたいことがあったから都会暮らしも何とかなったけど、私、街って性に合わなくて。だから地元こっちでいいのないかなって。」

 だとするとがらりと印象が変わってしまったのも順応しようとしたNの努力無理の結果なのかもしれない。

「そんで、きみはなんでそんなだらしないカッコで牛丼食べに来たわけ? そもそも、なんで地元ここにいるの? 里帰り? …、もしかして、会社クビにでもなって実家に強制送還?」

「冗談がキツい、つまんない理由、地元で就職したんスよ、専門出てから」

 Nはそっか、とだけつぶやいて、少し俯いた気がした。それから勢いよくジョッキを傾けて

「私が大学で遊んでる間に君は社畜に成り下がってたんだ、――、肩書きだけ見たらまるでそっちが先輩みたい」

 なんて言って笑った。笑い声はさっきより乾いている気がした。

 ジョッキを空けたNは何事もなかったようにちょうど牛丼を持ってきた店員にお代わりを頼んで、いただきます、と割り箸を割った。

 ぼくの牛丼もいい感じに冷めていた。

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