第十二節 金色の海

 次の日、良く晴れた空は空気が透き通り、北の空を見上げると、クリシュナスピールの赤い光がよく見えた。雲は薄く、まばらに身を横たえている。

 木の机に座りっぱなしの退屈な授業の時間が終わると、わたしは伸びをしてから教室を出た。

 すると廊下でリタラがもじもじと立っていた。わたしに気付くと話し掛けて来る。

「あの、その、ちょっといい?」

 わたしは首をかしげた。

「ちょっとこっちに来てほしいの、その、あの、お兄ちゃん」

 わたしは納得した。ロンドの事だから、リタラがわたしと話しているのを見ると怒らない筈はない。

 わたしはロンドが教室から出て来る前にリタラと二階への階段の下、小さな奥まった所に移動した。

 階段下に行くとリタラはまるで怯えているように身を震わせながら、あのね、あのねと繰り返す。

 わたしは困ってしまって、

「どうしたの? 何かわたしがすればいい?」

 そう言うと、リタラはピンと背筋を伸ばして固まった。

 ああ、何かお願いがあるんだなと思って、わたしは出来るだけ優しい声になるよう努めながら言った。

「わたし、何すればいい? 出来る事なら、やる」

 そう言うと、リタラはえへへと笑った。

「やっぱりデルフィちゃん、アルシェールちゃんとどこか似てるね」

 わたしはそれ以上に、ちゃん付けで呼ばれた事に恥ずかしくなってしまった。この孤児院で呼び捨て、罵倒はされた事があったけれど、ちゃんなんて初めてだった。

 「ちゃ、ちゃん?」

 恥ずかしくて身を固まらせていると、リタラは怯えた表情で、

「あ、う、あの、その、あの、馴れ馴れしかったよね」

 わたしも何だか緊張してきて、

「えと、あの、その、そんな事は、えと」

 そこで言葉が詰まってしまって、リタラもあわあわとして話しが進まない。

「なに、してる? 睨めっこ??」

 背後からアルシェールの声が聞こえて、リタラと一緒に、ひゃう、と言ったような変な声を上げてしまった。

 そうしてからようやく、リタラの頼み事がわかった。

 自身でアルシェールに話しかけるのは怖いから、アルシェールに比べたら幾分話し易そうなわたしに、代わりにアルシェールを呼んで来てほしかったのだそうだ。

 アルシェールの素っ気ない普段の態度から、リタラが怖がるのも、どことなく分かる気がした。

 怖いと言った本人に、

「うん、本人を前に言う。逆に勇気ある」

 アルシェールの言葉にリタラは、あう、と変な声を出している。

 そんなリタラにアルシェールが歩み寄ると、リタラは怯えた顔で身を縮めた。アルシェールは目を細め、リタラの顔に自身の顔を近付けると、

「で、媒介パルの練習?」

 そう言った。


 わたし達は、そっと孤児院を抜け出すと、孤児院を囲む森を通る道から外れる。

 先導するのはアルシェール。その足に迷いをない。

 一体どこに行こうと言うのか、不安になる。いくらここらには盗賊の類が出なくても、森の中は野生動物が出て危険なのだ。

 アルシェールに黙って従うリタラも、わたしと同じ思いなのか、不安そうな顔をしている。

 目が合い、互いに首をすくめ合った。

 その時、わたしの顔に光が差す。

 上を見ると、何時の間にか、木々の枝葉はまばらとなり、アルシェールの歩く向こうにもっと大きな光が見えた。

 リタラと顔を見合わせてから、一緒に急ぎ足でそこへと向かう。

 アルシェールの横を走り抜け、そこへ出た。

 そこは開け、夏の日に照らされた青草の匂いが充満していた。風が吹き、木々の梢と青草がなびく。薄暗い空気と、腐葉土の地面でなく、広がる小さな草原と、それを囲む木々達が日の光で輝いていた。

 わたし達が振り返ると、アルシェールは眩しそうに腕を掲げ、それからわたし達を見て、開けた場所の縁にある、木陰の岩を指差した。

 孤児院の中庭に設えられたベンチと丁度同じ高さのもの。

 そこにアルシェールは歩いて行き、ぽすんと腰を下ろすと、その隣をぽんぽんと叩いてリタラを見た。

 リタラはそこに駆けていき、アルシェールの横に座る。

 わたしは、暑さに負けて、だらだらと歩いて、二人の前まで歩いた。

「こんな所、どうして知ってるの?」

 リタラが言うと、アルシェールは手をぐねぐねさせ、波のように動かすと、

「すべて繋がってる。それを追うとわかる」

 リタラとわたしは首をかしげた。

「そう言えば」

 わたしは言った。

「何でリタラ、こんな森の中、隠れてしてる?」

 わたしの質問にリタラは下を向く。

「その、あの」

 そう言って口ごもる。

 わたしとアルシェールは黙ってリタラの次の言葉を待った。

 観念したのかリタラは口を開いた。

「その、あの、恥ずかしいから」

 確かに、フェルミナの力ヴィジョンの発現がないのは、その時はリタラだけだった。

 その気持ちは分からなくはなかった。

「で、練習ってどうするの?」

 わたしがアルシェールを見ると、アルシェールは首を振った。

媒介パルが手元にない。何をしても意味はない」

 そう言うアルシェールを驚きの表情で見上げるリタラ。

 わたしは、

「だって練習って」

 そう言うと、アルシェールは自身の頭に手を置いて見せた。

「何も素振りとか、体を動かす事だけが、出来る事じゃない。考える事」

 リタラは不思議そうにアルシェールを見る。

「考える事?」

 アルシェールは頷く。

「何にでも言える事。火は物を冷やす事は出来ない。水は物を燃やす事は出来ない。出来る事、出来ない事、得意な事、そうでない事を見分け、やれる事を探す」

「やれる事……」

「何が好き」

 アルシェールの言葉にリタラは黙る。

 そんなリタラにアルシェールは言った。

とらわれてる」

「え?」

 見上げるリタラに、アルシェールは言った。

「今は無意味。だから今日からわたし達と来る」

「ど、どこに?」

「どこかに」

 アルシェールは立ち上がると、リタラの手を引いて立ち上がらせる。そうしてからわたしに言った。

「行こう」

 わたしも首をかしげる。

「どこに?」

「どこか」

 わたしは表情を歪めた。


 孤児院のある森をエルファティアの町へ向かって進む。

 アルシェールに引っ張られて歩くリタラは盛んに後ろを振り返る。

 わたしは気になってどうしたのと尋ねると、

「わたし、その、あの、こんな遠くに来た事ない。お兄ちゃんに怒られちゃう」

 リタラがそう言うと、アルシェールは、うん、ちょうどいいと言い、リタラは戸惑いの表情を浮かべる。

 そんなリタラにはお構いなく、アルシェールはリタラを引き摺るように歩く。

 わたしはアルシェールがどう言う気なのか全く分からず、呆れた気持ちを抱えつつ、それでも黙ってその後に従った。

 やがて森が途切れ始め、木々がまばらとなり、木の向こうに黄緑色の穂が見えて来る。

「なに? あれ?」

 それまでいやいやをしながら、アルシェールに引き摺られるだけだったリタラが足を止め、アルシェールも足を止めた。

「穂」

 リタラが首をかしげる。

「向こうに行くと、もっと見える」

 そう言ってアルシェールは道の先を指差す。

 するとリタラの足が、今度は自分の意思で進み始めた。

 アルシェールはリタラの手を離し、先頭がリタラとなる。

 木々がよりまばらになり、代わりに、景色の中に黄緑色の穂が増えて来る。暗い木陰の黒色の世界が色付いて来る。

 リタラは足を速め、ついに道の両脇の木々は途切れ、穂の大海原へと注ぐ河口に立っていた。

 リタラは、はぁ、と言い、今までに見せた事のないような笑顔で、顔を輝かせた。

「きれい!」

 リタラに遅れ、アルシェールとわたしもそこに立つ。

 アルシェールは、ん、と言い、わたしは見慣れていた景色が、こんなにも美しいものだったのだと気付かされた。

 太陽に照らされた麦穂の海を、ざざと音を鳴らしながら風が渡り抜けていった。

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