「叶わなくてもいいから」
葵ふたば
第1話
「俺……田辺さんのことが好きなんだ」
今から三年前、コートを着ていても身体の芯から震えるような寒さの冬の朝に、
卒業したばかりの小学校の校門前に呼び出され、プレゼントまで渡されて、まるで漫画のようだ、とその時思った。小学生女子が読むような月刊の少女漫画である。当時はそれが友達の話題を全て掻っ攫っていたので、もともと漫画よりも小説派の咲良も友達との話題作りのためにとマメに揃えていた記憶がある。
あの時は、その漫画に登場する有名な告白シーンをまるで疑似体験しているかのような感覚になっていた。
「…そっか」
きっとこの次にくる言葉は付き合ってほしいだろう、と予想しながら冷たい風に身を震わせる。
「だ、だから、俺と付き合って、ほしい」
あ、漫画通りだ、と聞きながら思った。シチュエーションから台詞、彼の表情まで、彼は自分が読んでいた漫画を教科書にしたのだろうかと思うほど、次の行動の予想が容易すぎた。
しかし、漫画通りではないことが一つあった。漫画の主人公が感じていたいわゆるトキメキを、咲良は不思議なほどに感じなかったのだ。
今思えば、その時トキメキの代わりに感じた、珈琲に垂らしたミルクのように広がっていく違和感が、ゆっくりと、なおかつ着実に、自分の人生の歯車を動かし始めていたのである。
「ふぅ……」
チャイムが鳴り終わり、机の上に散乱した教科書類を一気に閉じる。ノートの中に挟まっていたシャープペンシルが音を立てて足元に転がった。
「ナベっちー、ご飯食べよー」
「うん、そうしよっか」
四時間目が終わると、クラスメートが一斉に立ち上がり、我先にとロッカーに飛びついて使った教科書をしまいにいく。それが終わった者から順に洗面台へ行って手を洗い、昼食にするのだ。
ふと後ろを見ると、今日もロッカー前は戦場になっていた。
何があってもあの中には入りたくない、と横目に見ながら思う。
「ねぇ、昨日のハル見たー?」
「ハル?え、テレビ出てたの?」
「ドラマだよー。昨日始まったの、見なかったの?」
「ごめん、見逃し配信探してみるよ。さゆは見た?」
「えー、ちょっと見たけどあんま分からなかったかなー」
「え、でもハルカッコよかったでしょ?アクションとかさー」
「あーまあね」
机を三つ向かい合わせになるように繋げながら、だるそうに答えたのは
咲良の学校は都内でもそこそこ有名な中高一貫の進学校で、咲良、沙幸、奈緒の三人も中学一年生から三年間ずっと一緒にいる。よく「女性三人の友人関係は難しい」といわれるが、そんな言葉が気にならないほど、中学一年生の頃の三人と高校一年生の今の三人は何も変わっていない。むしろずっと一緒にいたからか、さらに仲が深まっている。
「手、洗いに行こ」
「うん」
ロッカー前が数人になっていることを確認して椅子から立ち上がり、数分前に使った数一の教科書とノートをロッカーに押し込む。
雪崩が起こるほどではないが、中は何冊もの教科書でぎゅうぎゅうに埋まっており、お世辞にも綺麗とは言えない状態になっている。
「次って何の授業だっけ?」
「えっとー日本史?」
「ありがと」
隣で同じようにロッカーの扉を開ける奈緒に一瞬目を向け、そのまま日本史の教科書とプリントファイルを取り出す。少しだけ見えた奈緒のロッカーの扉の裏は、アイドルの長井春樹フォトカードがこれでもかというほど貼られている。
「あれ、奈緒、ハルの写真増えた?」
「気づいちゃった!?そうなの、この間の映画のグッズで手に入れたのー!」
自慢げにその写真を見せてくる奈緒に適当に返事をしながら自分の扉を閉める。自分から話を振っていて、咲良にはハルへの興味など微塵もないのが正直なところだ。親友の好きなことの良さは出来るだけ分かっておきたいものだが、あにいく、まるで興味が湧かない。
「そういえばさー」
「ん?」
「この間のあの人とどうなったの?」
「あぁ、それ私も気になってた」
「で、どうなのよ、ナベちゃん!」
二人が言う“この間のあの人”は、四日前に三人でデパートへ行った時に、偶然声をかけられたスカウトマンだ。声をかけられた時には名刺を渡されてメールアドレスを教えただけで終わったが、その日の夜からメールが鳴り止まず、ついには連絡先ごと削除することにした。
「えー、チャンスなのに、諦めるの?」
「チャンスって、何のチャンスよ」
「芸能界に入れたらハルのサインもらえるかもしれないじゃない」
「むりでしょ」
「諦めたらそこで試合終了!」
「私、試合開始の合図も聞いてない気がするんですけど」
スカウトマンからのメールでは、地下アイドルの募集をしていて、咲良もぜひメンバーになってほしいとのことだった。
芸能界へ入ることが嫌なのではなかった。ただ、アイドルという立場になって、ファンがついてくれた時、自分ではそのファンを幸せにできない、そう思った。
「アイドルはむり」
手を洗って教室に戻ってくる。机の脇にかけておいたお弁当バックの中からお弁当を取り出しながら、咲良は改めて二人にそう言った。
「ふぅん。まぁナベちゃんがそこまで言うなら、ね」
沙幸がそう言うと、奈緒は少し残念そうに頷いた。分かってくれたらしい。
いや、分かったというか、諦めたのか。
咲良が中学校入学からずっと隠している秘密は、二人にはまだバレていないはずである。
「んじゃ、せーの」
沙幸のやる気のない掛け声が耳に届く。
三人は同時に手を合わせ、「いただきまーす」と声を揃えた。
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