Jan.『凍えるほどにあなたをください』

青年と女

「うわっ、凍ってら」


 コンビニの裏口から出てきた青年が思わず独り言ち、ブルッと体を震わせ駐車場を見回す。

 一月一日、元日。コンビニエンスストアは年中無休である。午後十時から朝六時までのシフトを終えた彼は、黒いアスファルトの凹みの上にうっすらと張られた氷を、ブーツの爪先でツンツンとつついた。薄い氷はあっという間にヒビが入り、グシャッと割れる。


 ゆうべはかなり寒かったもんな、と思いながら歩道に出て、両手をポケットに入れたまま歩き始めた。首にゆるく巻いたマフラーに顔の下半分をうずめながら、ズビッと鼻をすする。自分の吐く息でわずかな暖を取りながら、ところどころ氷が張った部分を除けつつアパートへと急ぐ。


 ふと青年が顔を上げると、白いコートの女がキョロキョロと辺りを見回しているのが目に入った。

 顔はわりと美人で幸薄顔。胸の前で自分の両手を何度も擦りながら白い息を吐きかけている。

 白いコートからは膝上丈の赤いタイトスカートの裾が出ていて、その下からはほどよく肉が乗った柔らかそうな白い脚。そして足元はと言うと、黒いパンプス。


 誰かと待ち合わせでもしているんだろうか、と女の顔から足元へと視線を落とした青年は、思わず足を止めた。

 それは彼女の足が魅力的だったから……ではなく、いやそれもあるが、この季節にその靴はないだろう、と思ったからだ。


「……あっ!」


 女は青年と目が合うと、こちらに駆け出そうとした。そして案の定、一部テカテカになっていた地面で足を滑らせ、派手に尻餅をついた。

 青年は思わず駆け寄った。一瞬赤いスカートの中にちらっと黒いものが見えた気がして視線が泳ぎそうになったが、首をグキッといわせつつどうにか面目を保つ。


「大丈夫ですか?」

と聞きながら歩道にへたりこんでいる女に右手を伸ばす。

 すると女は、ガシッと力強く青年の手を掴んだ。ずっと外に立っていたらしく、随分と冷たい。

 

「ありがとう、ございます……」


 イタタ、とお尻らしき部分をさすりながら立ち上がった女は、次に自分の膝辺りに手をやった。ストッキングでも破れたのかな、と青年が視線を移すと、驚くべきことに生足だった。

 こんな軽装備で外に突っ立ってるとか、正気の沙汰とは思えない。


「あのぅ、あそこのコンビニの店員さんですよね?」

「え、あ、はい」


 まさか話しかけられるとは思わなかったので、青年は変に裏返った声で返事をしてしまった。


「あ、いや、学生なんでアルバイトですが」

「毎日ですか?」

「今は冬休み中なんで……」


 助け起こしたらそのまま「じゃ」と立ち去るつもりだったが、女は青年の手を掴んだまま離さない。しかも話し始めてしまったので、何となく「じゃ」のタイミングを失ってしまった。

 多分、少し年上……二十五、六歳だろうか、と思いながら女の顔を見る。女はじっと青年の顔から目を離さないので、いやでも目が合う。


「あの、よく見かけていました」

「そ、そうですか」

「少しお喋りしませんか?」

「え? ここで?」


 青年は辺りを見回した。片側二車線の道路の脇、歩道の一角。携帯電話ショップ、不動産屋……とさまざまな店が並ぶ街並みのど真ん中。

 青年はどうにも気が進まなかった。しかも今日は徹夜でバイトをしていたので、かれこれ二十時間以上寝ていない。さっさとアパートに帰って眠りたかった。


「いや、俺、バイト上がりでちょっと疲れてるんで……」

「――そうですか」


 女がひどく落胆した様子でそろそろと手を離した。冷たかったはずの女の手がいつの間にかかすかな温もりとなっていたようだ。青年の右手の手の平を冷たい風が撫でていった。


「あー、今日もまた夜からバイトなんで、その前なら」


 今から寝だめして少し早めにアパートを出ればいいかな、と考えながらそう言うと、女はパッと顔を上げてにこぉ、と微笑んだ。

 あ、可愛い、と青年は思わず引き込まれた。



   * * *



 一月二日、三日、四日と、青年と女の奇妙なデートが続く。

 初めて会った携帯ショップの前。青年が

「どこか入ります?」

と聞いても

「ここでいいです」

と頑なに首を横に振る。

 仕方なく、バイト先のコンビニでホットコーヒーを二つ買い、ガードレールに腰かけながら話をするという謎のシチュエーションになっている。


 女は青年にいろいろな質問をする。しかしそれは

「どういうとき楽しいと感じますか?」

とか

「何か夢はありますか?」

というおよそ色気のない、ただのアンケート調査のような質問で、青年は

「この人俺に気があるんじゃなかったのかな?」

と首を傾げてしまった。


 人の良さそうな顔とよく言われる青年が

「ただ喋り相手がほしかっただけかもしれない」

と思い始めた、一月五日。

 今日はバイト前ではなくバイト後の夜に待ち合わせた。

 すでに買ってあったコーヒーを渡そうとした青年のコートの袖を、女が掴んだ。


「あの……私のところに来ませんか」

「――ええっ!?」


 いつも青年の話ばかりを聞きたがり、一切自分の話をしなかった女。

 その女が、自分の家へと青年を誘っている。

 いろいろ段階を飛ばし過ぎじゃ、とは思ったものの、どうしてもいろいろと期待してドギマギし、目が泳いでしまう。


「ここから近いの?」

「ええ、すぐです」


 思えば、話を終えて別れるとき、女はすぐに脇道の方へと曲がり姿を消していた。その先は住宅街で、独り暮らし用のマンションなども何軒か建っている。

 だったら確かにここから近いだろうな、と青年は考えた。

 しかも今日はバイト上がりで、時間は十分にある。


「あー、じゃあ、行こうかな?」

「本当ですか? 私のところに来てくれます?」

「ああ、行くよ」


 君のところに、と言い終えてやっと女の方を見つめた青年は、大きく目を見開いたまま言葉を失った。

 女の白いコートの前が開き、左右に広がっていた。その奥に見えたのは、ただひたすら黒い闇。虚空、虚無という言葉が似つかわしいほど奥行きのある、広い空間。

 右上……心臓のあたりに、ポッカリと穴が開いている。


“ああ……ウレシイ”


 女の声が酷く歪んでガラスを引っ掻いたような厭な響きをもたらした。


 ああ、思えば俺はこの女のことは何も知らないままだった。

 名前すら聞いていないのに、この女のいったい何を信用してしまったのだろう。


 それが最後に、青年の脳裏によぎったことだった。

 青年の意識はその穴に吸い込まれ、深い虚無が訪れた。



   * * *



“ああ……コレモ、チガウ”


 漆黒の闇の中、キィキィという細い弦を震わせたような女の声が響き渡る。


“イイ人だと思ったノニ。ドウシテ……”


 青年の『温かい心』を手に入れたはずの女。

 しかしぽかりと空いていた穴は埋まらないままだった。


“邪な心、ダッタ。いつになったら、この穴は埋まるノカ。温かいものが満たしてくれるノカ”


 この穴さえ埋まればワタシは生まれ変われるのに、と嘆く女。……というより、女だったはずのモノ。


 大昔――このあたりにまだ田や畑が広がっていた頃、孤児だった女はやがて村の男連中の慰み者となり、最後は狂ってしまった。暴れた女は体中を銃で撃たれ、全身穴だらけになって打ち捨てられた。

 そんな女の、なれの果て。どす黒い闇を抱えた魔物と呼ばれる生き物。


 日ごと『温かい心』を求めて彷徨うも、手に入るのは上辺の優しさだけ。

 それらを手に入れるたびにそのことに傷つき、打ちひしがれ、魔物の女はますます凍えていく。


 目を見開いたまま心臓を押さえ、苦悶の表情を浮かべる青年。

 冷たい人形のように歩道に横たわるその姿を、黒い靄となった魔物の女がじっと見下ろす。


“ああ……寒イ。また、探さなケレバ”


 ――『温かい心』をもったを。


 その『温かい心』を持った人間を見つけて穴を埋めたとしても、そのときにその者は傍にはいない。その命を奪うのは、魔物の女自ら。

 魔物の女は、また孤独になる。――再び、穴が開く。手に入れようが入れまいが、何も変わらない。


 そのことに気づかないまま、魔物の女は凍えるほどに、次の誰かを追い求めるのだった。

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