Nov.『愛と呼べない夜を越えたい』

それを、愛と呼びたかった

 黄色の星の形をした金平糖が一つ、紅の剥げ落ちた唇の中に消えていった。


 月の綺麗な夜だった。

 綾目あやめの今日の客は、ジャポン陸軍総大将の七十過ぎの爺だった。

 花魁と言えど綾目に拒否することなどできず、厭らしい笑みと声に耐えるだけの拷問のような時間がようやく過ぎ去った。


 このまま朝まで過ごすはずだった爺は、陸軍からの急な呼び出しで

「わしがおらんでもどうにかならんのかのぉ……」

とぼやき、落ちそうになる瞼を擦りながら不満そうに出て行った。


   * * *


 十年前、独自の文化を築き上げていた島国ジャポンは、周囲三大国の軍に攻め込まれ、あっという間に占領された。

 ここは、そんな大国の軍人に媚びへつらうために作られた廓の街。

 その中でもひときわ大きな屋敷を構える『古紫蝶』――綾目に許された、ただ一つの居場所だった。


 多分に漏れず、戦争ですべてを失った華族の父親によって十二の年にこの娼館に売られた綾目は、その美貌と教養を武器に、五年で花魁へと昇りつめた。


 廓にやってくるのは大国の軍人だけでなく、自国ジャポンのお偉方もいる。花魁は気に入らなければ床入りをせずとも済むのだが、大将クラスともなるとそういう訳にもいかない。


 そんな夜は、着崩した真っ赤な長襦袢を引きずって出窓に腰を下ろし、時折届けられるお菓子を手に障子を開けて月を見る。

 それが、綾目の真夜中の儀式だった。


 綾目にお菓子を届けてくれるのは、大国の一つ、ドーツの若き陸軍中佐ハロルド。


 最初は大勢の客の一人とみなしていた綾目も、廓に来るたびに熱心に口説かれ、来ない日はお菓子と共に気持ちを伝えてくれるハロルドに惹かれていき、ついには恋仲になった。


「このお菓子が無くなって、口寂しくなる頃には会いに来るよ」


 そんなメッセージと共に届けられる大国のお菓子。フルーツがふんだんに使われたケーキのときもあれば、ナッツやレーズンが入ったクッキーの詰め合わせの時もあった。


「アヤメは自由に外に出れないだろうから」


と、羊羹やおはぎ、最中などの和菓子を届けてくれることもある。


 日持ちのする焼き菓子や干菓子が届けられれば、

「ああ、しばらくは会えないのか」

と淋しく思った。

 すぐに傷んでしまう生菓子やケーキが届けば、

「もうすぐ会えるのか」

と浮き足立った。


 いつしか綾目は、ハロルドのことを考えない日はないぐらい、彼に溺れていった。


 そんなある日、綾目に届けられたのは――片手でようやく持つことができるぐらいの、太いガラスの瓶。

 小さな星がいっぱい詰まったお菓子――金平糖だった。


 見た目は可愛らしい金平糖。しかしそれは、何年でも腐らずにそのままの姿であり続ける美しく甘い星屑。


「ずっと待ってろということ? それとも――もう会いに来ない、ということ?」


 彼は敵対する国の軍人。国の命令で急に本国へ帰ることだってあるだろう。

 メッセージはない。でも、こうしてお菓子を届けてくれた。

 いつか、きっと帰ってくる。帰ってきてくれるはず。


 綾目は祈った。

 ――そうして、二年の月日が流れた。


   * * *


 カラン、と最後の一粒が瓶の中でむなしい音を立てた。

 最後に残してあったのは、空の星のような黄色い金平糖。ハロルドの髪を思わせる愛しい色。優しい口づけを思い出させる柔らかな甘さ。


 噛むことなく、いつまでも、いつまでも、味わっていて。

 甘さが喉を通り過ぎる頃には、塩気のある水滴が唇を濡らしていた。


「ハロ……ルド……っ」


 綾目の手から空き瓶が落ち、ごろごろと転がっていった。乱れた布団のへりにぶつかり、ゆっくりと1回転してぴたりと止まる。

 綾目はたまらず、両手で顔を覆った。


 

「――アヤメ……!」


 懐かしい声がして、心臓が跳ね上がる。まさか、と口の中で呟きながら、二階から下を見下ろす。

 夜の闇に沈んでしまいそうな黒い軍服。廓の灯に溶けてしまいそうな金色の髪。


「ハ……」

『こっちだ、いたぞーっ!』

「早く、囲めー!」


 胸が痛くなるほど待ち望んでいた二人の再会。

 しかし綾目の声は、遠くから聞こえる自国と異国の言葉に遮られた。

 通りの左と右から、軍服の群れがハロルドへと向かっている。


 よく見ると、ハロルドの軍服はあちらこちら破れていて顔には殴られたような痕があった。足元もおぼつかない。ひどくよろめいて……それでもなお、綾目の名を呼んだ。そして、天へと両手を掲げる。


 ここは両軍の許可なく立ち入ることはできない廓の街。

 彼がなぜ追われているのかは解らない。


 しかし――綾目にとっては、それはもうどうでもいいことだった。

 両腕を広げる彼の元へ旅立とうと、同じように両手を伸ばす。


「ハロルド……っ!」


 真っ赤な長襦袢の裾が、艶やかに夜の闇を舞う。

 二人が抱き合い、甘くも辛い口づけを交わし――それと同時に、駆け付けた軍人の銃口が火を噴いた。

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